azul -24-



その子の母親は、子供を生むと一月と持たずにこの世を去った。
その子の名は毛利伸といった。

伸が7歳になるかという時に、父親が突然、新しいお母さんが欲しくないか?と聞いてきた。
勿論、他の子のようにお母さんという存在は欲しかったし、それに何より父には支えてくれる人が必要だという事を
子供ながらに解っていた伸は、なるべくその気持ちを悟られないように、笑顔で、欲しい、と答えた。

間もなくして父親が連れてきたのは若い女性で、写真で見る母と全く逆のタイプの美人だった。
自分の事を、伸ちゃん、と呼び、目が合わせられる高さまでしゃがんだ女性は、笑顔で、
「お母さんって…呼びにくかったら、マミちゃん、って呼んでくれていいからね」
と言ってくれた。
その女性が、伸は一気に好きになった。

伸が8歳の頃、下に兄弟ができることを告げられた。
聞けば弟だという。
生まれてくる頃には伸は9歳になっていると言われた。
伸は楽しみで仕方なかった。

その日、伸は学校から帰るなりランドセルを玄関に放り出して自転車に跨ると、一目散に病院へと走って行った。
今朝、学校に行く前に父からそろそろ弟が産まれると聞かされていたため、友達からの遊びの誘いは全て断っていた。

病院に行くと、既に母は弟を抱いていた。
「ほら、伸ちゃん。弟の当麻くん。当麻くん、お兄ちゃんの伸ちゃんよー」
そう言って見せてくれた弟は青みががった産毛という不思議な髪色をしていたが、伸は気にしなかった。
それどころか、
「当麻、お兄ちゃんだよ」
と声をかけると青い目を開き、そしてすぐに微笑んだその弟が伸はとても大好きになった。

子供の頃から母を知らず、下に兄弟を得る事などないと思っていた伸は、新しい母を、そして可愛い弟を得てとても幸せだった。


弟は歩くことこそ人並みの時期だったが、喋り始めるのは早かった。
それどころか父や母が読み聞かせた絵本を、いつのまにか覚えて自分で声に出して読み出していた。
音として耳に入った言葉を覚えているだけでなく、平仮名を読んでいると知ったのはそれからスグの事だった。
まだ2歳だった。

弟は幼稚園に通い出した。
毎日沢山遊んで帰ってきては、夕食までの時間に兄である伸にそれを嬉しそうに話してくれた。
小さな手を必死に動かして、大きな青い目を輝かせて話すその姿を、伸は宝物のように見ていた。
弟は時折伸の部屋に来ては、辞典の類を見始めるようになった。
文字が沢山あって知らないことが沢山載っていて楽しい、というのだ。
この頃には小学校4年までの漢字なら誰に聞かずとも読む事が出来た。

ある日のことだった。
家に帰って、いつものように弟の話を聞いていると電話が鳴った。
母がすぐに対応したので伸はそのまま弟を膝に乗せて話の続きを促した。
「困ります」
突然の言葉に、伸が驚いて母の方をみる。
こちらに一度視線を寄越した母は目だけで、何でもない、と告げると、子機を手にリビングから出ていった。
あまり自分達が聞いてはいけない話なのかもしれない。伸はそう思った。

その事から暫くすると、帰宅時に弟が庭で一人で遊んでいるのが見えた。
家を覗くと母がまた電話をしている。
気付かれないように少し話を聞くと、どうやら弟に英才教育を受けさせるために幼稚園を変えないかという誘いのようだった。
庭にいる弟を見ると、楽しそうにダンプカーの玩具を走らせていた。

電話は、その後も何度もかかっていたようだった。

弟にはいつも遊んでいる友達が2人いた。
家も近いが幼稚園も一緒のため、3人は仲良く遊んでいた。
なのに弟がその子たちと遊んでいるのを最近見ない事に伸は疑問に思った。
「ねぇ、当麻。あっくんやみーちゃんとは遊ばないの?」
「キヨくんと遊ぶからいーの」
弟はそう返した。
キヨくん。初めて聞く名前だった。
幼稚園へお迎えに伸が行った時に、そのキヨくんと会う事があった。
しかしキヨくんのお母さんに尋ねると彼の家は自分達の家とは真逆の方向にあり、子供だけでは遊びにいけない距離だった。
弟は、幼稚園の外で友達と遊ぶことをしなくなっていた。

幼稚園も2年目になり季節が夏から秋になるあたりだった。
弟は、遂に幼稚園での話をしなくなってしまった。
代わりに伸の部屋に入っては勝手に教科書や辞書を読み、父の書斎に入っては専門書を読むようになっていった。
他の子供より頭が良いようだったから、もしかしたら会話がかみ合わないのかもしれない。
伸がそう思っていると、両親から話があった。
両親は、最近では何かに悩んでいる様子もあったから伸もそれは気にしていた。
重い口を開いたのは、父だった。
弟のIQが250という人並み外れたものだという。
だから英才教育を受けさせるべきだという誘いがここ1年間、ずっと続いているのだとも。
弟にそれとなく幼稚園を変えたいかと聞いたが、本人はあっくんやみーちゃんと遊びたいから嫌だと言ったらしい。
両親も子供にはノビノビと育って欲しかったから本人の意思を尊重して丁重に断っていた。
だが、最初に断った辺りから弟の周りが変わり始めた。
あっくんやみーちゃんが遊んでくれなくなったのもその辺りだったらしい。
当麻と仲良くしていたはずの子供達が、揃って一緒に遊んでくれなくなっていったそうだ。
それは当然子供達の意思ではない。
幼稚園や保護者の意思だと知った時、兄は言いようのない怒りを覚えた。

それでも弟は幼稚園を変えることなくそのまま通い続けた。
どちらにせよ次は小学校に上がるのだ。
そうなればみんなと同じく勉強をする身になるわけだし、そうなればまた一から友達を作れば良い。
勿論、その時にも私立の小学校を受けないかという誘いは山のように来た。
弟は公立に通うつもりでいたし、母もそういうであろう息子のために、その類の電話は逐一断っていた。

小学校に上がると、弟は新しい友達を作った。
また学校での事を少しではあるけれど兄に話してくれるようになった。
それが可愛くて、6歳になった弟を兄は相変わらず膝に乗せてその話を聞いていた。

弟にとって初めての夏休みがあけて少しした頃だ。
テスト期間で学校が半日だった伸が帰っていると、通りを挟んで弟が歩いているのが見えた。
信号が青になるのを待って駆け寄ると、その姿に驚いた。
弟の膝と腕に、大きな絆創膏が張られていたのだ。
「…当麻、コレ、どうしたの?」
「体育の時間にコケた。おれ、案外間抜けみたい」
大きなタレ目の目尻をへにゃっと下げて弟が笑った。
そんなに運動は苦手には見えなかったが、その辺は子供なのだろう。
未発達の四肢はまだバランスを上手く取れないのかもしれないと、兄は思っていた。
けれど、それから暫くもしないうちに弟はまた新しい絆創膏を貼って帰ってきた。
聞くと、またコケたと言うのだ。
幼稚園の頃にはそんな事はなかった。
そりゃ怪我を全くしない子供ではなかったけれど、こんなに頻繁ではなかったはずだ。
小学校でハードな遊びが流行っているのだろうか。
弟を何より可愛がっていた伸は、そんな遊びはとっとと廃れて欲しいと思い始めていた。

冬休みを目前にした、期末テストのときだった。
伸が帰路を辿っていると、弟も同じように家に向かって歩いているのが見えた。
少し離れた位置に同じくらいの歳の子が数人居るが、弟の位置からは見えないらしい。
その弟に向かって、その子供達があろう事か、石を投げつけたのである。
石の一つは弟の額に当たり、傷を作り、そして血を流させた。
それを流石にマズイと受け取ったのか、彼らは弟にばれないように走って逃げていたが、所詮、頭の出来が違いすぎたようだ。
弟の目は確実に彼らの逃げた方向を見ていた。
けれど弟は追いかける様子はおろか、怒る様子さえ見せずに、額の血を近くの公園で洗い流して何事もなかったように家に向かって歩いていった。
わざと少し遅れて伸が家に帰ると、弟の額の血は止まっていた。
が、そこに傷は残っている。
兄は悔しくて唇を噛み締めたが、殊更明るい声で弟にまたコケたのかと聞くと、弟はやはり同じように、コケた、と答えた。
それが悲しくて辛くて、気が付くと泣いていた。
そんな兄の様子に弟は気付くとティッシュを数枚手に取り、伸の涙を必死に拭い始めた。
「伸ちゃん、泣き虫なの?」
なんて小首をかしげながら。
そんな弟の、当麻の様子が可愛くて悲しくて、伸は更に泣きながらその小さな身体を抱き締めた。

正月が明けて、1週間ほど経った時だった。
弟が完全に眠った頃にまた両親から呼ばれた。
話がある、と。
リビングに行くと、疲れきった様子の父と、泣きはらしたらしい母がそこにいた。
何となく、嫌な予感がした。
話は簡単だった。
両親は、離婚する事にしたらしい。
原因なんてもっと簡単だった。
国の、顔も見たことのないお偉い方々が弟に英才教育を受けさせるために様々な圧力をかけているせいだ。
弟に対する同級生の仕打ちはどうか知らないが、恐らく教師の態度や親の態度で何かが自分達とは違うと感じ取ったのだろう。
子供は素直だ。
自分達とは異なるものを、拒み排除しようとする。
だから弟を守るために、両親は離婚をする、というのだ。

母が弟を連れて出て行くという。
それも海外へ。
父も母も本当に仲睦まじかったから、とても辛い選択だという事は伸にもよく解っていた。
それなのにそうせざるを得ない状況が悲しくてまた泣いた。
弟によく似た母が
「伸ちゃんったら、泣き虫ね」
と泣きながら笑った。

それからの父は、今までならいつも真っ直ぐ帰ってきていたというのに、どこかで飲んで帰るようになった。
家に帰っても父と母の会話は少なくなった。
母との離婚の本当の理由を、周囲に悟らせないためだった。
本当はそんな必要は全くなかったのに、お互いに興味がなくなったというポーズを続けていた。

その状態が暫く続いて、カレンダーが伸の生まれ月になった頃だ。
両親が、遂に弟に自分達の離婚を切り出した。
結婚する前はジャーナリストだった母は、海外から仕事の誘いを受けているという。
今までは断っていたが、やはり好きな仕事を諦めたくないのだ、と。
そしてその話を受ける事にしたが、一人で海外に行くのは寂しいから当麻くんに一緒に来て欲しい、そう話した。
母への仕事の誘いの話は本当だった。
だけれど受けるつもりは全くなかった。
仕事への未練は僅かにあったけれど、愛する家族との生活と秤にかけるとそんなものは毛の先ほどもなかったからだ。

両親の離婚話を聞いた弟はすぐに父へ、そして兄へと視線を走らせた。
頭の良い弟だった。
それだけで全て悟ってしまったのだろう。
ほんの一瞬だけ辛そうな目をしたがすぐに笑顔になり、
「しょうがないな、母さん、さみしがりだもんね。おれ、一緒に行ってあげる」
そう答えるのがこの場で一番適切だと読み取り、生意気な口調で言葉を繋いだ。
それを聞いた母は泣きながら何度も、ありがとう、と弟に言い、父もありがとう、と口だけ動かして泣いた。
兄はまた我慢しきれず涙を流し、また弟は沢山のティッシュを手にその涙を拭ってくれた。


顔も見たこともない連中の思惑のために、家族はバラバラになる道を選ばざるを得なくなった。


春休みに入ると、母は荷物をまとめて弟と出て行った。
行き先は教えてもらえなかった。
もう会えないと思うと伸は、春休みの間中を憂鬱な気持ちとどす黒い怒りを抱えて過ごした。

春から夏になり、夏休みがもう半分終わってしまった頃だった。
全く見たこともない名前で、父宛に封筒が届いていた。
帰宅した父にそれを見せると、待っていたと言わんばかりにその包みを開け始めた。
中から出て来たのは、何故かまた別の名前の書かれた封筒だった。
それを開けてもまた封筒、封筒、封筒の連続だった。
それはまるでマトリョーシカのようだった。
北は北海道から南は沖縄まで、様々な土地を経由してきた封筒は、途中で外国の住所を見せた。
それを2回ほど開けた時に、見慣れた字で書かれた名を、見慣れない苗字の下で見た。
不安が過ぎり、父を見る。
父は、そんな息子の様子に苦笑いをして、
「母さんの旧姓だよ」
と教えてくれた。

中には今はニューヨークに居るという事と、こちらでの生活も落ち着いてきたという事とが書かれた手紙と、
きっと向こうでの協力者に撮ってもらったと思われる、自由の女神を背景に同じポーズをとる母と弟の写真が入っていた。

封書での連絡で足が着くことを恐れた母は、今後の連絡はメールで、とアドレスを添えていた。
母のものと、弟のもの。
それだけが自分達家族を繋ぐものになった。




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