azul -24-
「え、今度大学に通うの?」
伸が驚いて聞くと、当麻はニっと口端を上げて、うん、と返した。
パソコンを使ってのテレビ電話はアレ以来ずっと続けている弟との交流手段だった。
別れた頃より伸も大人になったが、まだ幼かった弟は随分と成長していた。
青い髪と青い目は相変わらずだが、日本に居た頃より背が伸びて生意気な口をきくようになっていた。
「伸と同じ立場になるんだぜ」
「せめて僕より先に卒業しないことを祈るよ」
そう言ってやると弟が声を上げて笑った。
日本ではもう見る事が出来なかった笑顔だった。
離れ離れになってしまったけれど、弟が幸せならばもう兄はそれを悲しむ事はやめていた。
伸は医大生の為、大学には6年通う事になっていた。
弟の方は知らないが、スキップを使っているため彼は実際の年齢より遥かに先へ進級している。
これも日本ではできなかっただろうし、知りたい事を気の済むまで学べる今の環境は気に入っているようだった。
唯一問題があるとすれば、同じ年頃の友達が居ないという事だと言って、けれどそれも笑って弟は言った。
どうせそういうのには縁遠かったから今更だ、と弟は言うが、それだけは伸は寂しいと思ってしまった。
伸の卒業が確定した年に、当麻も卒業が決まった。
「………早くないかい」
「でも伸より先には卒業しなかったぜ?」
クスクスと笑う弟は、本当に楽しそうだった。
その弟からこの直後に驚くことを告げられる。
FBIに入ると。
伸はそんなものを映画やニュースの中の名称としてしか聞いた事がなかったが、どうやら弟はそれになるらしい。
大学で学んでいた事はそれとはあまり関係がない気がしていたので聞くと、
「大学でやってた研究は全部ちゃんとやったさ。でも途中で平行して色んな学科をツマミ食いしてたらこうなっちゃった」
という。
どういうツマミ食いをしたのかは全く解らないが、元々宇宙サイズの頭脳を持っている当麻なので、それはそれだと片付けた。
伸も勤務する病院を決め勤め始めると、互いに忙しくなり以前ほど頻繁に連絡を取らなくなっていた。
それでもメールはくれるし、互いの休みが重なった日の前日などは時差を無視して夜通し話し続けた。
ある日、どこか当麻に落ち着きがなく、ひどく嬉しそうな時があった。
これは案外彼女が出来たのかもしれないと思い聞いてみると、同い年の友達が出来た、というのだ。
彼女ではなかった事に肩透かしを食らいはしたが、当麻の人生において本当に久々の同い年の友達だ。
ある意味彼女が出来るより喜ばしい事だった。
何でも相手はいつも夜食に買いに行っているファストフード店で働いている少年らしい。
彼は当麻が一体何をしている人間かを知らず、そして当麻の頭の出来の事も一切知らず、
ただ歳が近いという事で興味をおぼえ、声をかけてくれたというのだ。
最初は警戒をした当麻だったが、彼に全く裏がないと知ると一気に仲を深めた。
仕事上がりの時間が近い時は一緒にダーツバーに行ったり、映画を観たりテーマパークへ行ったり。
どれも当麻には初めてのことだった。
アメリカで通った学校にもそれなりに仲のいい人間は居たそうだが、どうしても歳が違う分、興味の対象が異なる。
そうなると特に映画は映画館で1人見るには虚しく、観るにしてもいつもレンタルしたものを家で、というのだから今が楽しくて仕方ないらしい。
それにFBIの事務所があるビルの清掃員の初老の男性が、まだ若い当麻を孫のように可愛がってくれるそうだ。
いつも顔を見るたびに、そんなに細くて大丈夫なのか、と言いながらコッソリお菓子をくれるという。
甘いものが大好きな弟はそれも最近の嬉しいこととして伸に教えてくれた。
兄は、離れてしまったが弟が幸せそうにしているのを本当に、心の底から喜び、過去に抱いた暗い思いは忘れていた。
ある日のことだった。
伸がいつものように山之内について一緒に病室を回っていた時だ。
看護士が慌てて自分を呼びにきたのだ。
何か英語で電話が入っている、と。
火急の様子だ、と。
英語の電話と言う時点で嫌な予感がした伸は、すぐに電話口に出た。
相手は英語で、落ち着いてください、と最初に切り出した。
弟が、意識不明で病院に運ばれた、という。
伸は目の前が真っ暗になるのが解った。
選んだ職業柄、そういった事がないとは思っていなかった。
けれど今まで辛い思いを沢山してきた弟が幸せそうな今、そんな事は彼を避けていくと思っていたのだ。
それからはもう必死だった。
まず山之内に懇願し、病院を説得し、そしてどうにか当麻の元へ行けたのは電話から1週間経っていた。
1週間。
それだけの時間があったにもかかわらず、漸く会えた弟の意識は戻っていなかった。
沢山のコードが弟の身体に伸び酸素吸入器が口に当てられて、まるで死んだように彼は眠り続けていた。
点滴でしか栄養を取っていない今、元々太りにくい体質の弟はいっそ哀れなほどに痩せていた。
モニター越しでしか見ていなかったが、髪も随分傷んだように見える。
兄は人目も憚らずその場に泣き崩れた。
最初は母に連絡をしたらしい。
しかし紛争地にいる母は簡単に帰国が出来ず、国境なき医師団に参加した父も同じだった。
そのため、連絡がついたのは兄である伸だけだったのだと、当麻の同僚だという男は教えてくれた。
弟の身に何があったのか。
まずはそれを知りたいと思った。
仕事の上でのことならまだ良かった。
同僚の男が教えてくれた事実は、伸を再びどす黒い感情の渦に落としてくれた。
弟は、数人の男に輪姦されていた。
弟はその日、友人の家に泊まりで遊びに行っていた。
二人で遅くまでゲームをしてそろそろ寝るか、となりベッドに入った。
そこに男達が来た、というのだ。
通報が早かったため、ある程度の被害で済んだらしいが、既に陵辱されていた身体は無理矢理押さえつけられたこともあり、
腕も足も、体中が怪我だらけだった。
通報が早かったのは当然だ。
通報したのは当麻の友人で、そして彼らを家に入れたのも、その友人だったからだ。
友人は金欲しさに当麻を売ったのだという。
けれど途中で怖くなり、通報した、と。
今は毎日後悔している、と。
そんな後悔が何になる、と伸は思った。
今目の前に彼を差し出されれば、容赦なく暴力を振るってしまいそうなほどに怒りを覚えていたが、それ以上に、実行犯が憎かった。
弟を犯した連中は、カメラで録画しながらそれを楽しんだという。
伸は実際にそれを見せられたが、事態が飲み込めずに悲鳴を上げて泣き叫ぶ弟の姿に途中で吐き気がして途中で退室した。
因みに実行犯はその映像のお陰で全員残らず逮捕されていた。
金欲しさに弟を売った友人。
そしてそれがリスクになると解っていても実行した連中。
何て事はない、繋がる部分があったのだ。
いつも当麻にお菓子を渡していた初老の男性こそが、その元凶だった。
まず当麻の友人に金を渡すという約束で当麻をおびき出すよう依頼した。
そして路地裏に居る連中に、金を渡すから男を犯してその様を撮ってきて欲しいと頼んだ。
その男が当麻を可愛がっていたのは孫のようだったからではなく、性の対象として見ていたからだった。
男は愛するものが陵辱されるのを見て興奮する性癖の持ち主だったがために、弟はその犠牲になった。
その全てを聞かされて、伸は息を吸うように、心臓を動かすように、彼ら全てを呪った。
地球上にある全ての疫病に体を蝕まれてジワジワと苦しんで死ねばいい。
全ての不孝を背負って誰からも愛されずに残りの人生を過ごして絶望のうちに死ねばいい。
そんなどす黒い思いを抱え、いつまでも目の覚めない弟の傍に居続けた。
弟を傷付けたもの全てが憎くてたまらなかった。
それでも弟が目を覚まして自分を認め、名を呼んでくれたときなどは嬉しくて堪らず、この先の人生に何も望まないとさえ思い、
信じてなどはいなかったが神に感謝さえしたものだ。
結局、弟が退院してどうにか日常をすごせるようになるまで1年近くかかった。
人込みに出るのはまだ無理だったが、兄である伸にでさえ身体に触られるのを恐れていた状態から思うと、随分と快復していた。
1年は短いようで長かった。
痩せた弟の身体は元通りの体型にはまだ戻っていなかったけど、それでも貧相な身体ではなくなっていたし、
髪ももう綺麗な青に戻っていた。
仕事は辞めさせた。
精神状態がまだ万全でないのだから、プレッシャーの多い仕事は無理だったからだ。
そして伸は日本に一緒に戻ることを提案した。
当麻はそう言う伸を不思議そうに見た。
「今日本に戻っても、キミは”羽柴当麻”だ。”毛利当麻”じゃない。僕の弟だってバレなきゃ普通に過ごせるはずだよ。
それに日本って結構他人に無関心な国になってるから、誰もきっとキミの事を深く詮索なんかしないさ。
日本に戻って、暫くボーっとして…何なら温泉めぐりしてもいい。ゆっくりしよう、当麻」
兄のその提案に弟は暫く逡巡したようだったが、それでも、いいかも、と言うと笑って受け入れてくれた。
兄は自分たち家族を引き裂いた国に弟を連れ戻すのは正直、あまりいい感情はなかったが、
それでも友人と信頼していたものから裏切られたこの国にいるよる何倍もいいと思った。
兎に角、弟がささやかで穏やかな毎日を過ごせれば、兄はそれ以外何も望まなかった。
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家族の記録。