届かない声
通常の教室より大きいとは言え、視聴覚室の収容人数は80人程度。
そして前から2列はステージ部分との距離を置くため席としては使ええず、実質は入れるのは大体60人ほど。
「朝一にチケット取っといて正解だったろ」
得意げに5人分のチケットを手にした秀は、報酬として受け取ったホットサンドに、美味しそうに齧りついた。
「楽しみねぇ。何だか面白そうですもの」
「征士兄ちゃんも当麻兄ちゃんも、ちゃんと出来るのかナァ」
純の手を引いたナスティはカメラ片手に嬉しそうだが、引かれている純はどうにも不器用な兄2人を思い浮かべ心配顔だ。
「それにしても呼び込みして10分で売り切れって凄いよなぁ」
「その辺は当麻の期待通りなんだろうね。……まぁキャスティングは不本意だとしても」
5人の通う高校の文化祭。
1年6組の出し物は芝居小屋で演目は白雪姫。
午前と午後の2回公演のそれは凡その演目時間が30分ほど。
王子様役は学校中の男女が美形だと口を揃えて答える征士で、タイトルにもなっている白雪姫役はこちらも繊細に整った容貌でクールな印象の当麻。
となると、当然チケットの売り上げは上々だ。
何なら立ち見分のチケットも刷ろうかと受付係たちが相談しているのが聞こえてくる。
「まぁ今頃役者さんらはブツブツ言ってるんだろうけどね」
「当麻は言うだろうけど征士は言うかぁ?アイツ、腹括ってんじゃねえの?」
「さあ、どうかしら。案外落ち着いてるようであの子も頭の中じゃパニックかも知れないわよ?」
「ねえ当麻兄ちゃん、大丈夫かな。後で一緒に回ってくれるかな、機嫌、悪くないかな」
「大丈夫だって。前から約束してたんなら当麻は破ったりしないさ。出来ない約束はしないタイプだろ?」
チケットの裏に押された数字の印は4番から8番。
全席自由の芝居小屋はチケット購入順に席を選べるよう配慮がされていた。
呼ばれた順に教室へ招き入れ、入り口での混雑を避けるのが目的というが、実際はそうする事で競争心を煽るのも目的だったのだろう。
かの智将の案なのだから、その辺に抜かりはない。
まもなく開場でーすという声が聞こえると、廊下に犇き合っていた女子がキャアと高い声を上げた。
今廊下にいるのは7割ほどが女子生徒だ。
中には他校の生徒と思しき人間もチラホラ見える。
勿論、彼女らの目的は王子様と白雪姫だが、彼女らは約1ヶ月前の彼らのパニック振りを知らない。
キスはフリでやり過ごす事は勿論翌日には決定していたことだが、それでも顔を寄せ合わねばならない事への抵抗が薄れるわけではないらしい。
普段喋る時なんかに無意味に顔が近いことや、無駄に接触が多い事は案外気付いてないんだね。
とは、伸の言葉だが、彼らには告げていない。
いつもなら”修正”を入れる伸だけれど、今回に関してはまぁ面白いので放っておいている。
階段状に席が並ぶ視聴覚室のやや前寄り、中央の席に陣取った5人はこちらも緊張した面持ちで正面ステージを見据えた。
板に描かれた木々で森の中を作りあげたステージの右側にナレーション用の机とマイクがある。
突っ張り棒を天井に取り付け、黒い布があるのは緞帳代わりだろう。
確かに出ても居るだけ、起きてもロクに喋らないという予定の主役2人では緞帳でも下ろさない限り、劇の終わりに誰も気付かない可能性がある。
教室の電気が消された。
体育館から持ち込まれた照明が先程のナレーション席に当てられる。
そこに座った彼女は、何故か赤頭巾を被っていた。
昔々美しいお姫様がいたこと、魔女に嫉妬され森に追放されたことを語っている間に、それぞれ違う色のポンチョと三角帽子を被った
小柄な女子生徒が7人出てくる。
一頻り歌って踊った後で、そのうちの1人が前に出て魔女役の男子から白雪姫の代わりに毒リンゴを受け取り、倒れるフリをした。
これでは単なる粗筋のようだが、きちんと台詞もあるし演技もしている。時間にして約20分。
勿論、未だ白雪姫の寝た台は舞台に出されてないし、王子様も出ていない。
「………マジに当麻は寝てるだけみてぇだな…」
秀は極力声を抑えたが、主役2人の登場を息を飲んで待っている静かな教室ではどうやら無駄な努力だったらしい。
前の席の女子にキツイ視線で睨まれ、首を竦めて謝罪の意を示した彼はバツが悪そうだ。
さっき倒れたフリをした小人を含め、7人がそれぞれに嘆き悲しんでいるところにお待ちかねの王子様が舞台の右側から現れた。
それだけで視聴覚室中に黄色い悲鳴が上がるのを聞いて、ナスティと純は目を丸くするばかりだ。
体育祭の時にもこういう光景は見たが、それでもやはり王子様となると格段に何かを刺激するのだろう。
いや、しかしそれも無理はない。確かに出てきた征士はどう見ても王子様そのものだった。
豪奢な金の髪は全て後ろに撫で付けられ、凛とした紫の両の目が見えているだけでも随分印象が変わる。
正面から見つめられるとその迫力に卒倒する生徒も出そうだが、大丈夫、今の彼は客席を見ていない。
秀は密かにかぼちゃパンツに白タイツを期待したがそんな筈はなかった。
流石洋裁の先生としか言いようのない見事なまでの中世の王子様スタイルは、事前に採寸されただけあって一分の隙なく彼に似合っている。
但し、やはりと言うべきか、それは彼の中身を知らなければ、の話。
背の高い征士に小柄な女子生徒という対比は、なるほど、確かに彼女達をある程度小人に見せてくれる。
その彼に、小人役たちは怯まないように必死に視線を逸らしながら事の次第を説明していく。
その間も王子様は黙って頷くだけだ。
本当に、本気で喋らないらしい。
「王子様、白雪姫を助けてください!」
ピンクの帽子を被った小人が言ったのをキッカケに、数人の黒子によってガラガラと音を立てるキャスターつきのベッドが舞台の左側から運び込まれた。
今度は黄色い声さえ上がらず、全員が息を飲む。
こちらも洋裁の先生手製の見事なドレスを着て眠る当麻は、前髪を上げられ頭にはリボンが付いている。
薄く化粧が施されているのだろうか、元より小作りで整った顔立ちは本人の細さも手伝って性別が行方不明になってしまっていた。
くうくうと眠るその姿は無垢そのもので愛らしさがあるが、よく見ると足元は裸足で、綺麗に並んだ指先から僅かではあるが妙な色気が漂っている。
そんな姿を室内にいた全員が物音1つ立てず食い入るように見守っているが、普段の彼を知っている屋敷のメンバーは別の意味で息を飲んだ。
当麻の体勢がどう見ても完全に、本気で寝ているのだ。
右半身を下にして、うつ伏せ気味に眠るのは当麻のいつもの癖だ。
戦いの最中では勿論、座ったままや横になってもすぐに起きられる体勢をとっていた彼だが、本気で眠りコケている時は違う。
顔の横にやった左手は緩く握られており、それを誰かが可愛いと小さく呟いたが、それどころではない。
どうやって起こすんだ、アレ…。
声に出さずに5人が5人、互いに視線を送る。
いや、今起こすのは征士だ。自分たちが戸惑っても仕方がない。
その征士を10個の目が一斉に見やれば、彼も親しい者でしか判り得ない程の微弱な変化ではあるが、顔が引き攣っているのが判った。
「王子様、お願いします!」
7人の声が揃った。
吐かれた溜息は面倒さを隠しもせず、だが彼は台本どおりに寝台に近付く。
白雪姫の肩に手をかけ、彼女(いや、彼)を仰向けにさせると教室のあちこちからゴクリという音が聞こえた。…気がした。
左腕を当麻の顔の右側に着き、マントを使って極力顔の部分が見えないように位置を調整すると征士の顔がそのまま彼に近付いた。
悲鳴、悲鳴、悲鳴。黄色い、悲鳴。
入り口にはビデオを含む全てのカメラでの撮影は禁止と書かれていたため、どうやらそれを破る人間は居なかったらしい。
相手が相手だ、そんな事をしてバレては本気で軽蔑の眼差しを送られかねない。
清廉潔白な人物と、どこか他と違う印象を見せる人物の2人からそんな目で見られたら、大罪を犯した気になるのだろう。
だから彼女達は自分の目に焼き付けようと必死だった。静かに、息を潜めて見守り続けた。
柳生邸のメンバーも見守る。こちらは当麻が無事に起きてくれるのかと心配して。
長い沈黙。
いや、実際には微かな、本当に微かな声で征士は必死に当麻の耳元で呼びかけていたのだが、客席に聞こえていないのなら沈黙だ。
その客席が些か長すぎやしないかという空気に包まれ始めた頃に、漸く王子様は顔を持ち上げた。
白雪姫はと言うと…
「………………ん……」
起きない。
全然、起きない。
それどころか未だ少し前屈みの体勢で様子を伺っていた王子様の胸を左手で押し返して、再び右半身を下にしてうつ伏せてしまう。
駄目だ。
また溜息を着いた王子様は、今度は白雪姫の肩を掴んで揺さぶってみる。
ドレスの袖口はパフスリーブになっているが、そこに食い込む王子様の手に浮いた血管から、彼が衣装が痛まない程度だが強い力で掴んでいる事が判る。
だが、駄目だ。
「………………おい、」
痺れを切らした王子様が遂に声を出してしまった。
それも王子様らしくない、無愛想な言葉の。
「…んん……っ」
だがそれでも起きる気配がない白雪姫は肩にある彼の手を力なく叩き、かけられる声を苦にして眉根を寄せるばかりだ。
本当に、起きない。
下手をすれば今が芝居中という事さえ綺麗サッパリ忘れていそうだ。
遼は息をするのを忘れているのではないのかと思うほどに、必死に見守り起きろと念じていた。
何故か無意味に伸の背中に嫌な汗が流れ、天を仰いで神に祈ったのは秀だ。
困ったように眉尻を下げて手を頬に当てたナスティの隣で、純は寝汚い兄に呆れ果てていた。
でもどうしても、駄目だ。
ナレーションの彼女はソチラを見たまま、どうしたものかと明らかに狼狽えていた。
呆れ返っていた王子様は、三度溜息を吐くと今度は白雪姫の上半身を右腕1本で抱き起こす。
重力に逆らわない首が仰け反ってその細さを強調したが、それでも彼は起きない。
残された左手で頭を支えると、王子様が僅かに歯を食いしばったのが客席からも判った。
再び張り詰める空気。
そして教室に響いたのは。
ゴツっ。
という、骨のぶつかる音と、
「…ってぇ…!!」
という、台詞など一切ないはずの白雪姫による、目も当てられないほどに不様な短い悲鳴だった。
王子様の腕に抱かれた白雪姫は額を押さえ、何するんだよ!だとか、この石頭!だとか文句を言っていたが、今が芝居中で、
自分が今、一体何の役割を与えられているのかを思い出すと、しまった、という顔をして恥ずかしさからか何なのか、
その王子様の胸に顔を埋めてしまった。
その後は、なし崩しの終焉だった。
普段から寝てばかりではあるがクールな筈の天才がくるくると表情を変え、あまつさえ人の胸に顔を埋めて耳や項を赤く染めている姿に、
客席からは黄色い悲鳴が上がりまくり、小人達の歓喜の声はその悲鳴によってかき消され、マイクを使っているはずのナレーションさえ霞んでしまった。
慌てて出てきた黒子の2人が幕を下ろしたことで漸く劇が終わったのだと気付いた時には、女子生徒たちはどこかうっとりとした顔をしていたし、
男子生徒は自分が感じてしまった妙な色気を必死に頭から振り払っていたのだった。
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当麻が眠り始めたのは、衣装に着替えて髪をセットしてもらってる途中からです。メイク中は完全に睡眠モード。
寝台に乗せたの、ですか?そりゃ王子様がお姫様抱っこで乗せてあげましたよ!
知らぬは仏か罪悪かの続き。