昼下がりの炭酸



「それじゃ、ロードワークに出てきます」


ジムのドアを開け、真田は一人で外へ出た。

試合が近い。
流石にそうなれば、後輩の育成も、ダイエットプログラムの担当業務から解放される。

別に後輩の育成に関しては、個々が己の目標に最も効率的に向かえるよう手を貸す形なので、
別段、何の不満もないのだが、ダイエットプログラムの方は全く別だ。
何が哀しくて痩せたいという女の手伝いをしなければならないのか。

痩せたい、痩せて綺麗なりたいという目標意識は買おう。
しかし少しすれば、しんどい、疲れたと言い、その上お喋りはしょっちゅう、
挙句、痩せたいのか自分と話したいだけなのか、サッパリ意図の読めない連中まで居る。


真田からすれば、コレは全く以って理不尽な時間でしかなかった。
しかしだからといって、それで得ている金銭もあるのは事実。
無碍に断るワケにも行かない。
もう何年も世話になっているジムでもあるワケだし……


走りながらボンヤリと考える。

確か自分には、養っている家族、
順平は順平なりの生活手段は得ているが、別段今の生活に不服も無いようだし、
こう呼ぶが、天田はイマイチまだそう呼ばれるのに抵抗があるようだが…
が、いるので無意味に所得を減らすのも気がひける部分も確かにあった。

……こういう時は、何事も前向きに捉えるに限る。
そう、例えば世間には様々な人間が居る、という事を学ばせてもらっていると思えばいい。

嘗て、まだ高校生だった頃だ。
順平のような人種とかかわる事がなかった真田は、最初の頃は随分と驚くことばかりだった。
それが暫く過ごすうちに、冬を迎える頃にはすっかり彼の傍で腰を下ろす事に何の疑問もなくなっていた例もある。

そう、全てを否定する事は、全ての可能性を棄てる事と同じだ、と己に言い聞かす。


「………だからと言って、あの女たちの喋りに付き合って得る物が何か、未だ見えんが…」


立ち止まってボソリと呟いた。



川沿いの土手を走っていて、ちょうど真ん中あたりだろうか。
少し休憩をしようか、と思い、そこでようやく自分が水分を何一つ持っていない事に気が付いた。


昔から無敗という事でプロデビューも鳴り物付きで入ってしまったも同然の彼は、
他の選手から試合を避けられる事もままあった。
金の卵になりうる可能性のある者を、成長過程で潰されたくないというジム側の意向だろう。

そのせいで、今回も久し振りの試合という事になってしまい、どうもうっかりしていたのだろうか。
それとも1週間前のダイエットプログラムに来ていた強烈な女たちのせいだろうか。

兎に角、少し休憩を取ろうにも水分が無い。


さて、どうしたものか、と辺りを見渡すと、………赤いワゴンが目に飛び込んできた。


あぁ、あれは………

運が良かった、と真田はその車に向かって走っていった。






「はい、いらっしゃ……って、真田さん、何してんすか?」


車は順平のもので、ちょうど商売の最中だったようだ。
日陰になっている車中に居てもハッキリと判る程に驚いた顔をしている。


「いや、ロードワークに出てきたんだ」

「あ、そういうや試合、決まったんすよね!ちゃぁんと休み取って観に行きますよ、今回も!
天田の奴は勿論、ゆかりっち達にも連絡入れときますから、頑張ってくださいよ〜」


クレープ生地の焼ける仄かに甘いにおいを漂わせながら、順平が人懐っこい笑顔を見せた。
犬ならば尻尾を振っているだろうとさえ思わせるその顔に、真田も和む。





「あ〜…スポーツドリンク系はもうネェっすねぇ……」


中に入れているクーラーボックスを覗きながら順平が言った。
こういう時は出来ればスポーツドリンク系、市販されているものは濃度が高いので、
贅沢を言えば水で薄めて飲むのが一番なのだが、どうも在庫がないようだ。


「普段から置いてないのか?」

「いや、あるんスけどね、今日はホラ…」


と順平が指差す先、小学生の野球クラブが試合をしていた。
あぁ、なるほど、と真田も合点する。


「朝からやってるからね、連中、喉渇くし腹減るしで。
一応家から弁当やら何やら持ってきてはいるんですけど、やっぱり育ち盛りには足りないみたいで」


とヘラっと笑う。何が面白いのか判らないが、彼は基本的に誰かと話すときは笑顔だ。
その笑顔を見ていた真田が、ふとある事に気付く。


「そういえば今日は日曜か」

「えぇ、そうっすよ。やだな、今更じゃないすか」

「何故ここに居るんだ?順平」

「はい?」

「今日は日曜だろう」


真田の言うとおり、順平は天田が休みの土日と真田の休みの日は商売には出ない事にしている。
なるべく”家族”との時間を持ちたいという本人の意思なのだが、
今日は日曜にもかかわらず何故か土手で真っ赤な車に乗ってクレープを焼いているのは変だ。


「あれー真田さん、俺前から言ってたの聞いてなかったんすか、
今日は試合だからクレープ屋してくれってアイツらに頼まれたから臨時で商売してるんすよ」


そう言って再び野球少年たちを指差して、悲しいなー俺の話は右から左っすかー、と順平は肩を竦めた。

それを見て真田は少し間を置いてから、あぁそういえばそんな話を一昨日の夕食時にしていたな…と思い出す。


「しっかりして下さいよ、真田さん…いくら久々の試合で昂ってるからって、話はちゃんと聞いてくださいよー」


最近疲れているのだろうか、どうも今日はそのツケが回りすぎている気がしてならない。
真田はそう思いながら順平に素直に詫びる。
ま、別にいっすけどね、といつもの軽い返事が返ってきて、別段怒ってはないと判ると内心ホっとした。



「あ、」


ふいに順平が声を出す。


「なんだ」

「真田さん、スポーツドリンクはねぇっすけど、コーラならありますよ。…要ります?」




暫く悩んだが、背に腹は変えれん、と貰う事にする。


「身内なんで特別サービス、お代は要らねッスよ」


ついでに俺も休憩しよーっと、と言って2本のコーラを手にした順平が車から降りてきた。
二人並んで芝の上に腰を下ろす。

俺も喉渇いてきてたんですよね、なんて言いながらペットボトルのキャップを開け、
順平はコーラを事も無げに一気にゴクリと飲む。
普段から飲みなれていない真田からすれば、それは不思議に見える光景だった。

はて、俺が知っているコーラはそんなに飲みやすいものだっただろうか…
もっとこう……シュワシュワとして喉がヒリヒリしたような…
いや、そもそもコーラを飲んだ記憶なんてどれほど前だろうか。
若しかしたら随分と飲みやすくなっているんだろうか。

そんな事を考えている間にも、喉の渇きは次第に増すばかり。

それじゃあ俺も…と順平に倣ってゴクリと飲み干してみたが…


「…っ!!!!ゲホっゲホ…っ!!!」


久々のコーラの刺激は喉に強すぎて、思わず咽て噴出してしまった。


「大丈夫っすか?真田さん…もちょっと落ち着いて飲んだ方がいいんじゃないっすかね」


順平に出来て自分に出来ないというのが何だか悔しかったが、こればかりは仕方ない。
少々涙目になりながらも、ちょっとずつ飲むしかないのか…としょげる。


「あ、真田さん、どうせなら炭酸飛ばしゃーいいんすよ」

「…飛ばす?」


意味をイマイチ理解しきれていない真田の手からペットボトルを取ると、
順平は再びキャップを閉めて、コーラを軽く振った。


「ちょ、そんな事したら…!」

「大丈夫ですって」


狼狽える真田に笑顔で順平からコーラが返された。
しかしコレは…と真田が警戒をする。

コーラは振ると物凄く飛び出すんじゃなかったか…??

視線をペットボトルから順平に移すと、相変わらずの人懐っこい笑顔で、
さぁどうぞ、と言わんばかりにこちらを見ているばかり。


………これは…仕方ない、順平を疑うのは無駄な事だともう何年も一緒に暮らして解っている事だし…

真田が腹を括ってキャップを緩めると、プシっ音が鳴った。
しかし溢れ出る様子は、ない。

恐る恐るキャップを取ったがやはり何事も無い。
口をつけて飲んでみれば、先程よりも随分と飲みやすくなっている。


「…これは…」


凄いな、と素直に感心した。


「ねー、こうやって調整したりも出来るんすよー」


順平は得意顔。
こういう時は相変わらず子供のような顔をする。

炭酸さえ抜けてしまえば、コーラだって充分に飲めるな、と真田も納得した。

どうせならもう少し飲みやすくしたいと思い、今度は自分でキャップを閉めなおし、
さっき順平はどうやったか…と思い出しながら、徐に、



そう、徐に、物凄い勢いでペットボトルを振り始めた。


「…っあ!さ、真田さん、そんなに振ったら…!!!!」



順平が慌てて制止した頃には、時既に遅し。
ご満悦の真田は何の躊躇もなくペットボトルのキャップを開け、



「わーーーーーーーーっ!!!」

「ぎゃーーーーーーーーっ!!!」


………大騒ぎである。





ペットボトルの中身は殆どと言っていいほど飛び出してしまい、
その中身は真田だけではなく、隣にいた順平にも被害を及ぼしていた。



呆然とする真田。
そしてその状況に腹を抱えて蹲まり、爆笑している順平。
少年野球の子供達は試合に夢中で気付いていないようだ。

少しの間を置いて、真田も笑い出す。


あぁ、何だかこういうのも楽しい。


普段自分と全く違う人種と関わるのも、何だか楽しい。
コーラは振れば炭酸が飛ぶ、というのなんて全く気付かなかったし、
コーラを振りすぎてソレを引っ被って笑うなんてのも、もうどれくらい久し振りかも解らない。

得る物なんてどこにでもある、そう真田が思っていると、視界の端から
飲み差しのコーラがにょっきりと出てくる。


「真田さん、殆ど中身ブチ撒けてもうナイっしょ?飲み差しで良かったらどーぞ」


ちゃんと適度に振ってあるから飲みやすいと思いますよー、なんて言ってる順平の目には笑いすぎの涙。


あぁ、何だか楽しいじゃないか。
そうだよ、楽しいって事も充分に得る心の栄養みたいなものじゃないか。
若しかしたら彼女達の会話も、目を向ければ楽しいものが見つかるかもしれないじゃないか。

真っ向から否定していては、可能性さえ見出せないものな。



いい息抜きにもなった、コーラを飲みながらそう思っている真田の横で、順平が


あ、間接キス。


と言った瞬間、真田はまたコーラを噴出した。





*******
この後、真田はジムの女の子の話に耳を傾けてみるも、
理解不能なマシンガントークで結局気疲れして終了。

24歳のボクサーと23歳のヒゲハゲがイチャイチャする姿は若干しょっぱいとか思ったら負けの方向で。
まだ無自覚無自覚。