ただいま。いってきます。



ただいま、と言った直後に当麻はしまったと呟いた。
背中で玄関の戸が閉まる音がする。

静かな部屋。
ハウスキーパーが月に1度は訪れて室内の空気を入れ替えたり掃除をしてくれているお陰で、大阪にある羽柴家はほぼ無人であるにも拘らず、
まるでショールームのように綺麗だ。
人の気配が完全にないわけではなく、けれどゴミ一つ落ちていない部屋。
そこに当麻は久々に帰ってきた。



夏休みに入った。
ずっと柳生邸で過ごしていても問題がないのは父親が一所に落ち着いていない遼と、両親共に現在の居場所が国外となっている当麻だけで、
地元でも有名な名家の長男である伸と征士は流石に盆もある1週間くらいは実家に帰らなければならないし、
そうなると秀だって店が忙しくなるから厨房の手伝いに戻る必要が出てくる。
ナスティは日本に残っていても別に構わないと言っていたが、やはりフランスの両親が娘に会いたがっている様子があったので、
それならばと全員で1週間、それぞれに過ごす事になった。

だから遼も当麻も、それぞれに親元へ行く事になった。

遼の父親はタイミングよく日本に帰国する予定があると言っていた。若しかしたら息子の夏休みに合わせて帰国したのかもしれない。
当麻の方も母親がロスのディズニーランドに行こうと言い出したお陰で、急遽国外へ出て行く事になった。
ただその話はあまりにも急すぎた。
柳生邸に大半の生活必需品は持ち込んでいたが、パスポートまで持ち込んでいない。
だから実家へ向かう伸と途中まで一緒に新幹線に乗り、一度大阪にある実家へと立ち寄った。


玄関を開けてきちんと帰宅を報せる挨拶をするという習慣は、自宅に帰っても基本的に自分しかおらず、
誰の返事もないのに帰ったと報せる必要などない生活を送ってきた当麻にはなかったものだ。
それを教え込んだのは緑に囲まれた屋敷での日々だ。
それをつい、無人の自宅に帰ってまでしてしまった事に当麻は気恥ずかしくなってしまう。


「誰もおらんっての」


おったら怖いやないかアホ、とブツブツと地元の言葉で誰に聞かせるでもなく言葉を続けた。

パスポートは自室にある。
真っ直ぐにそこへ入って机の鍵つきの引き出しを開け、お目当ての物を取ってくればいいのだが、飛行機の予定時間までは余裕がある。
だから何となく、本当に何となくリビングへ足を向けた。


ダイニングテーブルにもローテーブルにも埃なんて乗っていない。
ソファに置かれたクッションはまるでカタログや雑誌に載っているもののように完璧な配置で置かれている。
シンクはピカピカに磨かれて、水垢なんてどこにも見当たらない。
それなのに決して無機質な様子のない部屋は、家主がいつ帰って来ても快適に過ごせるように完璧にセッティングしてある。
ここに誰かを招けばまるでマメな人間が住んでいるようだ。
だが冷蔵庫を開けると、何も入っていない。冷凍庫に氷さえ無い。
代わりに床下の収納には、誰かが帰ってきて急に腹が減った時の為に用意してあるインスタントの食材が幾つもあった。
洗面所を覗くとタオル掛けには何もかかっておらず、普通ならそこにあるはずのものは全て畳んで収納されている。
歯ブラシもどれも買って来たままの姿でパッケージさえ開いていない。まるでホテルのアメニティのようだ。
誰かが生活していた形跡が全く無い。

親父も暫く帰ってないんだな。
ふいにそんな事が頭に浮かんだ。



この家でずっと暮らしていた。
両親は当麻が生まれる前から忙しく、母親も産休と育児休暇を少し取った後は仕事に復帰するつもりでいたから、いずれ生まれる子供の安全を考えて
羽柴家は最初から一軒家ではなくオートロック付きのマンションの一部屋を購入していた。
小さな頃はそうでもなかったが、当麻が小学校に上がったあたりから両親は忙しくなっていき、離婚をする前くらいになると
家は殆ど当麻の一人暮らしと言っても過言ではないような状態になっていた。
その生活を寂しいと考えた事は無かったが、屋敷での毎日を経験したあとではやはり味気ない物に見えてくる。

ベランダに出てみると、柳生邸で暮らすために家を出た前には見なかったコンビニや店が幾つか出来ている。
逆に派手に店の名を書いてあった看板が、真っ白になっているのも見えた。
右側に見えていた田んぼがコインパーキングに変わっているのを、当麻は浦島太郎になったような気分で眺めた。


ただいま。

言わなくなったのはいつからだったろうかと、少しだけ知らないものになった景色を眺めながら当麻はぼんやりと考えた。
誰かに自分の所在を告げる必要性が無くなってしまって、無言で帰って、そして朝は無言で出て行って。

時々には、帰宅時に「おかえり」という言葉が聞こえることもあった。
その時に嬉しくなっていたのを覚えている。その時にはちゃんと「ただいま」と当麻も言っていた。
ただ次の日にも同じ声が聞けるとは限らない。
それを期待して帰ったことを告げても、返事がもらえなかった時の喪失感が嫌で言わなくなった事は覚えている。

自分の家なのにな、とベランダの戸を閉めて鍵を掛けると数ヶ月ぶりの自室に入った。


「パスポートパスポート。…てーか鍵、どこに隠してたっけな」


鍵付きの引き出しを開けるためには勿論鍵が必要になる。
その鍵を隠したのは、大きな引き出しだったか、それとも机とセットになっている椅子の裏側だったか。
引き出しに見つからなかったので、しゃがみ込んで椅子の裏を丁寧に覗いたが鍵は無かった。


「…どこやったんや、俺」


隠し場所に凝ったことはしていない。探すのが面倒だからだ。
他に隠しそうな場所を思い出してみるが、不思議な事に巧く思い出せない。
記憶力には自信があったのになぁと少なからずショックを受ける。
何か思い出すキッカケにならないかと部屋を見渡すと、窓際にある天体望遠鏡が目に入った。
13歳の誕生日、両親が離婚して初めての当麻の誕生日に母親が送ってくれたものだ。
天体の事が載った図鑑を目を輝かせて見ていた息子の為にドイツで購入したそれは、サイズこそ然して大袈裟では無いが、
子供へのプレゼントにするには少々値が張るものだ。
仕事の為に家を出た母親だが、息子に対して愛情が無いわけではない。
離れてしまった子への罪悪感も多少はあったのかも知れないが、専門外にも関わらず一生懸命に吟味して誕生日当日に届くように
贈ってくれたソレを、飽きもせずに当時の当麻は眺めていた。


「あぁー…そっか、親父がやってくれたんやった」


窓際に置いた天体望遠鏡を、最初に月にピントを合わせてくれたのは父親だった。
勿論、夫婦間の情が無くなっての離婚でもないため、元妻が贈ったものを夫は丁寧に箱から取り出して息子に使い方を教えてくれた。
ハッキリと見えた月のクレーターは、図鑑と同じように直接その目で見れたわけではないが、それでも図鑑で写真を眺めるよりもずっと、
視覚に強く印象を与えた。

懐かしいなぁと思って近付くと今度はビーチボール程の大きさの球体が視界に入ってきた。
ベッドサイドにあるそれが何だったかと当麻がそちらを向くと、手作りの小さなプラネタリウムがあった。
これは当麻が小学校に上がる前に、父の源一郎が作ってくれたものだ。
星を見て喜んでいた息子に天体の話をするついでで作ったそれは、簡易と本人は言っていたがそこらで買える部品を作って手作りした割には
充分なほどの出来だった。


「これも懐かしいなー」


試しにコンセントにプラグを差して電源を入れてみると、作ってもらったばかりの当時と同じように光が漏れ出した。

良いものを見せてやろうと得意げに言った父と夜を待ってカーテンを閉め、真っ暗にした部屋に人工の星の光が満ちた時、
当麻はその美しさに言葉が出なかった。
代わりに感情を素直に表す母親が綺麗だと言いながらキャアキャアと喜んでいたのを当麻は今もちゃんと覚えている。

あれから何年も経っていた。
それでも変わらず此処にずっとあった。


誰もいない家。けれど、家は決して冷たい印象は無い。

ハウスキーパーが入ってくれているからという風にしか当麻は考えていなかった。確かにそれは事実だ。
けれどそれよりも、その家にどこか生身の温かさを残しているのは、そこで暮らしていた人の思い出が沢山残っているからだ。
誰もいないし、何も変化なんてなかった。
それでも確実に景色は変わっていて、そしてゆっくりとではあるが思い出の品も増えていた。

確かに「ただいま」は言っても返事は無い。それでも。


「………………自宅、やなぁ」


屋敷のように常に誰かの声が聞こえる事は無く、部屋には口煩い同居人もいない。
その静寂は寂しくも感じるが、同時に懐かしくもある。

だって此処は。






引き出しの鍵は、本棚の上に置いていたクマのヌイグルミのお尻の下に隠していた。
まだ寝返りさえ自力で打てない息子にこの人形を買って来たのは、母親ではなく父親だった。
青い色だったのは男だと言いたかったのだと、母親から聞いた。
もっと掘り下げて聞くと、既に研究者として忙しかった父は帰っても生まれたばかりの息子は既に眠っていることが多かった。
そんな事では息子に存在を忘れられると柄にも無く焦った父は、この人形が羽柴さんに似ていると同僚が言ったものを、頭で何か考えるよりも先に
すぐさまレジに出していたらしい。
そしてそれを息子に与えたのだと。


「親父の尻の下とか、マジないわ……何考えててん、春の俺」


また思い出した過去に笑いながら机の引き出しを開けると、青いパスポートはそこにちゃんとあった。
それを手にして持っていく荷物の最終チェックをする。
着替えは幾つか用意した。向こうではホテルに滞在する事になっているから、特に必要なものはない。
幾つかの場所を観光として回る予定だが、何も文明の無い土地に行くわけではないのだ。
絶対に持って行かなければならない物は僅かしかない。


「さって…………ほなそろそろ空港向かわなヤバいかな?」


立ち上がった当麻は思案した後で、再びクマのヌイグルミのお尻の下に鍵を戻した。


「親父セキュリティ」


言って噴出した。
本棚の前で一頻り肩を震わせると、自宅の鍵を手に部屋を後にする。




玄関に立ち、振り返る。
相変わらず今、家には自分以外の気配が無い。
廊下の奥に見えるリビングは昼間だから光があるものの、夜には真っ暗になり無人である事を静かに示すのだろう。

誰もいないそこに向けて、当麻はほんの少しだけ微笑んだ。


「ほんじゃ…………”いってきます”」




*****
「いってきます」で出て行って、「ただいま」で帰ってくる場所。