65センチメートル



6時限目の授業も終礼も終えたし掃除当番もこなした当麻は下足室へと向かって靴を履き替え、そしてそのままスタスタと
ガラスの入った扉をぐっと押して校舎の外へ出た。
ところで、征士に掴まった。


「何をしている」

「何って…」


振り返った先の征士が険しい顔をしているのに、当麻は首を傾げた。


「帰ろうとしてるだけなんだけど?」


部活には所属していないし、何かしらの委員も運良く当たらなかった。
職員室への呼び出しだってないのだから一日の授業が終わった今、当麻が校内に留まる理由は無い。
それを伝えると征士の顔は一層険しくなり、剣を握る人間によくある節くれだった指がビシっと外に向けられた。


「この雨の中をか」


天候は、雨。
それもザァザァと大粒のものが降り注いでいる。


「雨降ってても帰らなきゃなんないだろ」


それでも何を当たり前の事を、と当麻が肩を竦めると、征士は大袈裟に溜息を吐いた。
まるで小馬鹿にしたようなその様に、一瞬だけ当麻の眉間に皺が寄る。
それを無視するように征士はきっぱりとした声を出した。


「ではハッキリ聞くぞ。お前、傘はどうした」





終礼が済んだ征士は、部活動に参加するために荷物をまとめていた。
その間に当麻の姿がなくなっていたが、彼は今日、掃除当番なので担当場所へと向かったのだろうとあまり気にしていなかった。
自分の準備が整うと征士はそのまま1階へと降りる。この学校の体育館は校舎に隣接されていて、渡り廊下で繋がっている。
その2階部分に”体育館”と言われて一般的に想像できるものがあり、1階部分には食堂と、それから柔道場と剣道場が配置されていた。
征士はその1階部分に向かうために歩いていたのだが、下足室に通りかかった時に見慣れた青い髪を見つけた。
最初は、ああ当麻だな、というくらいに思ったのだが何となく気になって足を止めて彼を見た。
当麻の手に、傘は無い。
折り畳みの傘でも持っているのかと思っていると、どうもカバンを開ける様子も無く、そして歩く速度も落ちることなくそのまま外に出ようとするではないか。

だから、「何をしている」と言った。


「傘?」


だが聞かれた当麻はやっぱり首を傾げたままだ。
あまりにも素直に聞き返すものだから征士は思わず自分がおかしな事を言ったかと考えてしまったが、すぐにそんな筈は無いと思い直して
もう一度当麻に同じ言葉を言った。


「そうだ。お前、傘はどうした」

「傘はって……ないよ」

「ないだと?今朝、ナスティが雨が降るかもしれないと言っていただろう?聞いていなかったのか?」

「聞いてたよ。夕方から雨かもってのだろ?」

「そうだ。なのに無いとはどういう事だ」

「だって俺、部活なんてやってないし」

「…意味が解らん」

「だから、降る前に帰れるかなって思ってたんだってば」

「それで折り畳みの傘も持たずに来たというのか!?」


子供っぽい理由につい征士が声を荒げると、当麻は片眉をひょいと上げた。


「だって降ると思わなかったし」

「それでお前はどうやって帰るつもりをしていたんだ」

「どうやってって?」

「だから、これからどうやって帰るのだと聞いている」

「……?普通に、だけど?」

「普通にとは?」


征士の質問の意味が解らず聞き返すと、同じように相手からも聞き返される。
何言ってんだコイツとはお互いの感想だったが、それも何となく解ったので当麻はちょっとだけ考えてからもう一度口を開いた。


「普通に電車に乗ってバスに乗り換えて、山道を歩いて屋敷に帰る」

「この………馬鹿者!」

「馬鹿って……だってしょうがないだろ」


傘が無いんだし、と続ければ征士からは盛大な溜息が返される。
何だかそれがムカついた当麻は文句を言おうかと思ったが、その目の前で征士が自分の手荷物を漁り始めた。
そして目当てのものが見つかったらしく、それを当麻の目の前に突き出してくる。


「…………傘?」

「これをさして帰れ」


深い緑色の、凡そ普通の若者が好むとは思えない色と上質さを持った折り畳みの傘は、どう見たって征士のものだ。
当麻はさっきまで苛立ちを抱えていた青い眼を、今度はパチクリとさせる。


「どうした、受け取らんか」

「え、でもさ……」

「何だ」

「これ、俺が使ったらお前はどうやって帰んの?」


ナスティは夕方から雨と言っていた。夕方頃ににわか雨が、とは言っていない。
つまり、この雨は夜になっても降り続けるという事だろう。
部活のある征士だって3時間もすれば今の当麻と同じように帰路に着かねばならない。
校内に寝泊りするのではないのだから、それは当然の事だ。
それを気にして当麻が聞くと、今度は征士が首を傾げた。


「普通に帰るだけだろう」

「………雨、降ってるのに?」

「ああ」

「…………えっ、…お前ってアホなん?」


こちらが濡れないようにという気遣いは有難いが、1本しかない傘を差し出せば今度は征士が濡れるだけで円満な解決とは到底言えない。
征士が何を考えているのか理解に苦しみ、当麻は思わず、それでも一応は周囲を気遣って小声で征士に真面目に尋ねた。
やっぱり征士は首を傾げた。


「アホではないが。…何故?」

「だってお前、俺に傘渡したらさ、お前……………あ、若しかしてお前、2本持ってるとか?」

「何をだ」

「傘」

「いいや」


ひょっとして、と思って聞けば、否と即答される。
当麻の口は声には出さずに「は?」と動いた。


「………………置き傘があるとか?」

「いいや」


他の可能性を聞くも、再びの「否」の声に当麻は頭を掻き毟った。それを征士は不思議そうに見ている。


「お前…!ほんっと意味わかんネェ!!!」

「私としては、何故今、お前が怒っているのかという方が解らんのだが」

「おこっ…………って、ない!」


確かに当麻は理解できないだけで、怒ってはいない。
ただ純粋に征士の行動の意味が解らない。
傘が無い自分に傘を差し出したが、征士の持っている傘もそれ1本だけだ。
それでは羽柴当麻の変わりに伊達征士がずぶ濡れになるだけではないか。
だから意味が解らないと当麻は言っているのに征士にはどうもそれが通じていないようだ。
これは一からの説明が要るか…?と当麻が思っていると、さっきよりも前に傘が突き出される。


「いや、だからさ、征士、」

「お前は風邪を引きやすいだろう」

「…………………………………は?」

「お前は風邪を引きやすいと言ったんだ。確かに最近、暖かい日が続いたが今日は少し冷える。しかもこの雨だ。
いつまでも濡れた身体でいては、お前は風邪を引いてしまうだろう?それに比べて私は頑丈な性質だ。だから傘はお前が使ったほうが良い」


いつまでも受け取ろうとしない当麻に焦れたのか、ほら、と征士がその手に強引に傘を渡してくる。


「…………………」

「…どうした」

「いや、その………………」


当麻の青い目が手渡されたばかりの傘に向けられる。
武骨な征士の手にあった時は特にそうは感じられなかったが、 この傘は折り畳みのものにしては少し大きい。
広げれば60cm以上はありそうだ。


「俺はてっきり、周囲に迷惑だからって言ってるんだと思ってたから………」


征士が傘を差し出した。
それはこれから普通に、いつも通りに、公共の交通機関を使って帰ろうという当麻の行動に対して傘が必要だと判断したからの筈だ。

この雨の量だ。駅に着く頃にはある程度ずぶ濡れになってしまうだろう。
その姿でこれから乗ろうというのが電車やバスでは、他の乗客にも迷惑が掛かってしまう。
それにバス停から屋敷までの道もアーケードや雨避けが出来そうな場所などなく、更に濡れた状態での帰宅となれば、
今度は主であるナスティにも迷惑が掛かるに違いない。

だから征士はそれを避けるために、傘を差し出した。
だがそうしてしまうと当麻が迷惑をかけないだけで、征士が迷惑をかける。
それでは何に解決にもならないと思っていたのだが、どうやら彼の言いたい事は全く違ったらしい。

自分がこれから出て行こうとしていた世界を、当麻はゆっくりと振り返った。


「……………雨、やみそうにないしなぁ…」


時間が経てば雨足も弱まるかもしれないが、確実性には欠ける希望だ。
風邪を引きやすいのは悔しいが認めるにしても、だからと言って征士の好意をアリガトウと素直に受け取る気にもなれない。
濡れるのは嫌だが、自分のせいで誰かがずぶ濡れになるだなんて絶対に良い気分ではない。
譬え征士が頑健であろうとも。


「征士ってさぁ」

「何だ」

「…………………部活、何時まで?」


外を見たまま聞く当麻の考えは解らないが、征士は素直に6時半と答える。
すると当麻がくるりと振り返った。


「剣道場?」

「場所か?」

「うん」

「そうだ」

「剣道場って、床だったっけ?」

「ああ」

「………………隅っこで寝てたら怒られる?」

「…お前、何を考えているんだ」


精神を鍛える場で一体何をと窘めるように言うと、当麻が受け取ったばかりの傘を手の中で遊び始める。


「一緒に帰ろうぜ。そしたら傘1本でも大丈夫だろ?」

「…………………解っていると思うが、それは折り畳みだぞ」

「見たまんまじゃん」

「普通の傘よりかは小さいぞと言っているんだ、私は」

「大丈夫だって、これ、普通の折り畳みよりかは大きいし」

「退屈するだけだぞ」

「だから寝てるって。顧問の先生、誰?俺、隅っこで寝かせてもらえるよう頼み込むから」

「図々しい頼みごとだな…」

「だから極力そうならないように相手で頼み方変えようって思ってんじゃん。なぁ、顧問、誰だよ」


戦いの中で活躍したIQ250の頭脳は、平和な日常ではロクな事に使われた例がない。
それに呆れつつも、征士もさっきまでの当麻と同じように外に目を向ける。
どんよりと重い色をした雲が空を覆っていた。


「…………顧問は英語の辻野先生だから正直に寝かせてくれと言うよりも、私にくっついてきてうっかり寝てしまったという風を装った方がいいだろうな」


そう言いながら征士は体育館に続く渡り廊下へと歩き出す。
一瞬は面食らった当麻も慌ててその後を追いかけた。




*****
そんで剣道場の隅っこで、征士の荷物を枕代わりにして当麻は眠ります。多分。
それから2人で一生懸命くっついて傘の中にどうにか納まりながら帰っていきます。多分。