タンデム



全授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室を出た伸は駐輪場へと足を運んだ。
普段はバスと電車を使っての通学だが、今日は自転車で来ているためだ。
クラスの担任が産休に入る事が発表され、彼女の為にクラスのみんなで内緒のサプライズパーティをする事になった。
級長である伸はそのための下準備でいつもより早く学校へ来なければならなかったが、その時間には柳生邸から駅までのバスがなく、
徒歩で駅まで向かうのならばいっそ自転車で学校まで来た方が早いからだ。
ナスティが車で送って行こうかと申し出てくれたが、伸はそれを丁重に断った。
確かに送ってもらったほうが楽に違いないが1人がそれをすれば、他の者にも良からぬ甘えが出ないとも限らない。
特に当麻は要注意だ。
何処に居るのが好きかと問われれば、自分で登れる程度の木の上、書斎、そしてベッドと答えるに違いない彼は、朝は少しでも長く寝ていたい。
そんな彼が甘え混じりに文句を言えば弟たちに何のかんので甘いナスティは許してしまうだろう。
だから伸は後続がないようにと自転車を借りての通学を選んだ。

バスと電車で片道40分近い通学は地図で見ればコの字型の移動に近く、自転車で直線距離を選べば時間に大差はない。
ただ山にある屋敷を出てすぐは下り坂で楽だったが、学校近くは結局上り坂になり体力的に楽とは言い難い。
しかしそれも高校生の男子には堪える程でもなかった。
木々の合間を縫って坂を下る時の空気は気持ちよく、新鮮な気持ちにさえなる。
自転車通学もアリかもしれない、と朝は思った伸だったが帰りは何となく面倒に感じた。
梅雨が明けたばかりで湿気が僅かに残った暑さの中だ。
山なら兎も角、これから暫く続く道はアスファルトで、熱気が下から立ち上っている。
その中をエンヤコラと自転車に乗るのかと思うと、ほんの少しうんざりしてくる。

やっぱり自転車通学はたまだからいいんだね。

常にない事というのは楽しく感じるが、それが当たり前の日常となると楽しめるのはごく僅かである。
毎朝欠かさず素振りをする征士を思い浮かべると、何だか奇特な人間に思えてくるから不思議だ。


スタンドを外すと派手な音を立てた。
借りてきたのは所謂ママチャリだ。
ナスティが時折サイクリングに行くときに使っている物を貸してくれようとしたが、生憎そちらには前籠がなかった。
伸のカバンは手提げタイプのためどうしても籠が必要となり、物置にしまったままになってロクに手入れされていない自転車を選ばざるを得なかった。

他の自転車にぶつけないように後ろに引くと、急に重みが出て動きが制限される。
訝しみつつ首だけで振り返ると、そこにはヘラっと笑う当麻がいた。


「………何してんの」

「荷台が空いてるなーって思ってさ」


乗せてって、と言いたいのだろう。
それが解った伸はこれ見よがしに溜息を吐いてやる。


「お断りだよ」

「えーいいじゃん、伸ちゃん、オネガイ」


夏休み目前の時期になっても当麻はクラスメイトの前でさえあまり笑わないらしい。
人見知りが激しいのだと本人は言うが、本当は仲間以外の人間との距離の測り方が解らないのだろう。
だから未だに彼は普段いる教室でもクールだと言われているらしい。
本当はだらしなくって、どうしようもない屁理屈を言ったりする大馬鹿者だというのに。


「ヤ・だ・ね!電車で帰りなよ」

「駄目だって」


荷台にかけられた当麻の手を払いながら伸が言うと、何故か彼は少しばかり真顔になる。


「だって今日は誰かと帰れって」

「誰がそんな事言ったの」

「遼と秀。それから征士」


朝練のあった征士は今朝は伸よりは遅いが、それでも遼たちより先に出た。
だから朝に連れ立って登校したのは遼と秀と当麻の3人だ。
遼は解らないが、大らかだが意外に厳しい秀が当麻を甘やかすようなことを言うとは思えない。
それに征士だってそうだ。そんな風に彼を態々子供扱いなどしない。


「……何で?」


本当に何かあったのだろうかと不安になってきた伸が尋ねると、問われた当麻は真顔ではあるがさして深刻なことではないように口を開いた。


「だって俺、今朝痴漢に遭ったんだよ」

「ち…」


思わず絶句してしまう。
ちかん。
痴漢とは。


「え、ち、痴女じゃなくて…?」

「痴漢。ちゃーんと男だった」

「そ…その、……お尻とか、さ、触ら」

「触られちゃったねぇ」


言われて長兄の頭に最近のそういった類のニュースが幾つも挙げられていく。

オトコノコに興味があったから小学校教諭になった男が生徒に手を出した事件だとか。
道を歩いているオトコノコに興味を持って付け回した会社員の事件だとか。
ネットで知り合った男子中学生に猥褻行為を働いた中高年の事件だとか。

末っ子は事も無げに言ったが、つまり、彼もその被害に遭ったと言うのだろうか。


「当麻」

「んあ?」

「その……その、痴漢はどうしたの…?」

「駅長室にブチ込んだ」

「じゃあちゃんと引き渡せたんだね?」

「おう。当然じゃん。人のケツ撫で回すなんて立派に犯罪だからな。お陰でちょっと遅刻したけど、まぁ今日はしょうがない」


逃げられたのでないなら、まぁ安心だ。
当麻は被害に遭って黙っているタイプには見えないが、それでも周囲へのアピールにもなる。
一先ずは安心した伸だが、また別の不安が沸いてきた。


「…当麻」

「何だよ」

「……キミ、何でそんな妙に落ち着いてるの」

「落ち着いてる?」

「普通さ、女の子より多分、ショック大きいと思うよ。痴漢に遭っただなんて」

「ああ、そういう事」

「軽い!軽すぎる!何平然としてんの!」

「だって、初めてじゃないし」

「はぁ!!?」


驚いた。驚きすぎた。
初めてじゃないとはどういう事だろうか。
今日は先に登校したが、普段は伸もいつも一緒に登校している。
まだ3ヶ月と少ししか共同生活は始まっていないが、それでもその日々の中で当麻がそんな目に遭っていたなんて伸は知らない。


「当麻、どういう事!?いつなの!いつからなの!?」

「いや、こっち来てからは初めてだけど、大阪にいた時、たまーに」

「たまに!?」

「いや…その、……ホンット、本当にたまーぁに、だから」


伸の剣幕に何故か当麻は自分が責められているような気がして彼のご機嫌を伺うような口調になる。
だが長兄の静かな怒りは納まらない。


「どういう事!何で今まで黙ってたの!」

「いや、黙ってるも何も、ホラ、みんないないし…それに言ってもどうしようもないし…」

「おっおゃ…」


親はどうしてるの。
そう言いかけて伸は黙る。
どうもこうもないだろう。彼の両親は元気に世界を飛び回っているか、研究所からロクに帰って来ないはずだ。

当麻の容姿は女の子のようではない。決してない。
珍しい色味の髪と目はとても綺麗で人目を惹くし顔の作りも小さく母親似だが、女の子のようではない。
だが時に無防備すぎるほど気の抜けている時があり、その時を狙われるのだろうか。
そんな子供をよく1人で置いておいたものだと思うが言っても仕方がない。
伸だって人の親をどうこうと言いたくはないが、それでも何だか腹が立ってくる。
天才かも知れないが当麻だってちゃんと子供だった筈だ。
怖い思いだってしただろうし、心細いこともあっただろう。
それなのに、それなのに。


「……解った。…後ろ、乗りなよ」

「マジ!?やったー」


嬉々として荷台に跨り、自分のカバンをまるでリュックのように背負っている当麻が何だか悲しくなってくる。

何もかもを1人で片付けてきた子供は、甘える事を知らなかった。
戦いの中では頼りになる軍師ではあったけれど、自分の事が常に疎かだった。
最後の戦いの時に、その身を犠牲にまでしようとした遼が無事に生還した事を喜んだ後、みんなで休むために柳生邸へ向かっている途中で
当麻が倒れたときなど、どの仲間よりも優しい伸は心が押し潰されそうになった。
譬えそれが自分の事を後回しにした結果、睡眠が極度に足らなかっただけだとしても、1日経っても目覚めない姿に胸が張り裂けそうだった。

戦いは嫌いだ。
怪我をするかもしれない、死ぬかもしれない。
だが単純にそれが怖いのではない。
己の身にそれらが降りかかるよりも、仲間の身に降りかかることが怖かった。
それに今では良好な関係を築いているが嘗て自分と最も敵対した毒魔将やその仲間たちが、自分たちと同じ人間だと知った時には
正直、彼らを傷つけることさえ躊躇った。
たとえ敵であろうとも、傷つければその周囲の人間も悲しい思いをする。
優しすぎる伸は、時に臆病とも取られるほどに繊細だった。

そんな彼からすれば、自分の身に起こったことでさえ淡々と処理する当麻の姿は心底悲しかった。
それがどれ程辛いことでもそんな感情さえ沸かない、寂しい子供。
憐れんでいるワケではない。
ただ少しずつでもいいから人を頼ったり気を許したり、共にある事に怯えないようになって欲しいと伸は常に思っている。


「言っとくけど上り坂は君も自転車押してよね」

「どうせなら何処まで登れるかチャレンジしようぜ」


心配を悟られないようにいつも秀をからかう時の口調で告げてやれば、軍師は無茶を申し付けてくる。


「あーのねぇ…幾らキミが軽くたって人1人分の重みを追加されて坂を上る体力は僕にはないよ!?」

「いや、ソコはホラ、俺も手伝うから」

「どうやってさ」


じとりと睨みつけてやると、当麻は地面に降ろしたままだった足をペダルの側面につけて、ニヤリと笑う。


「ターボエンジン。加速加速」


どうやら漕ぐ伸と一緒に、彼も漕ぐつもりでいるらしい。
天才なんだか、紙一重で大馬鹿なのか解らない末っ子の提案に、伸は思わず噴出した。


「ターボって…!」

「マッハ出そう、マッハ」


戦いの中じゃ絶対に言わなかったような馬鹿げた言い草を聞くと、いつだって嬉しくなる。
それは当麻だけではない。
遼のどこか世間とかけ離れた考えを聞く度、秀のどうしようもない稚拙さを見る度、征士の無駄に負けず嫌いな面を知る度。
長兄はいつだって、そんな子供っぽい弟たちをみる度に安堵と共に穏やかな気持ちに包まれる。


「じゃあ最後の上り坂はそれで行くとして、どうする?」

「どうするって?」

「学校出てすぐの下り坂。ノーブレーキで下っちゃう?」

「んー………それで怪我したらナスティに怒られるかな…?」

「…あー…そうだねぇ。下手したら心配しすぎて泣かせちゃうかも」

「でも興味あるんだよなぁ」

「2人分の重みでどれだけスピードが出るか?」

「そう。面白そうじゃん」

「そうだね」

「じゃあ、最初はノーブレーキで、ヤバイってなったらブレーキかけるってのは?」

「いいね。じゃあそうしよう。当麻、しっかり掴まっててよ、僕、立ち漕ぎでそこまで行くから」

「助走つきかよ!」

「やるからには、やりきらなくっちゃ」

「キャー、伸ちゃん、オトコマエ!」


人前で滅多と笑わない天才と堅物ではないが真面目な級長の珍しいまでの笑い声は、坂道の途中で悲鳴に変わり、
やがてまた笑い声になって夏の熱に混じっていった。




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今は自転車2人乗り、イカンですよ。
伸兄ちゃんはいつだって優しい人なので好きです。