満天の星空で会いましょう
隣町にある、馴染みの茶道教室からお茶会のための和菓子の注文があった。
雷光では個人宅への配達はしていないが、こういった場合は別だ。同じように幼馴染の家でもある呉服屋へも配達をしている。
その配達に宅配業者を使うのではないから、雷光の誰かが配達に行く事になり、では誰が?となると、当然、行くのは征士だった。
「ありがとうございました」
年齢以上に落ち着いた声と共に征士が頭を下げると、自分の親より少し年上の女性が美しい所作で頭を下げ返す。
その奥でこの遣り取りを盗み見ていた妙齢の女性たちが黄色い声を上げたが、征士はそれを相手にせずそのまま車へと引き返した。
車に乗り込んでハンドルを握ると、征士は複雑な表情を浮かべた。
先程の黄色い声に、ではない。
最近通っているプラネタリウムの上映内容が明日から変わると、昨日知ったからだ。
最初はただの気分転換で訪れたブループラネットだが、今ではすっかり習慣となり、最低でも週に1回は必ず通うようになっている。
快適な空調や座り心地のいい椅子、満天の星空を映し出す天井や何もかもが、抜け出せない迷いに陥っていた征士にとって癒しになったが、
それ以上に解説員である羽柴という男の軽妙なのに真面目な星の話が何よりも征士の悩みを和らげてくれていた。
お陰で星についても昔以上に興味も持つようになった。
子供の頃はどの星とどの星で星座を構成しているのか見つける事が出来ず、何一つ楽しくなかったのだが、羽柴の解説のお陰で
今ではすっかり夜空を見上げただけですぐに北斗七星を見つけられるようになった。
解る星が出来ると、星空は少しだけ近い存在に感じられる。
綺麗だという以上の思いをもてなかったものが、今では楽しみの1つになっていた。
しかしプラネタリウムは毎日通う客が多い場ではないから、上映内容も映画のように暫くの間は同じテーマをずっと取り扱っている。
征士は毎週通っていているが、実際に夜空で見つけられる星座は北斗七星だけ、星に絞るとアルクトゥルスとスピカだけだった。
解説の流れももう”そら”で言えるほどにまでなってくると、そろそろ新しい知識が欲しくなってくるというものだ。
そのプラネタリウムが、遂に上映内容が変わると言う。
やっと新しい星を覚えることが出来る。
そう思うと楽しくてたまらない。
正確には、その星座について羽柴がどのように話をしてくれるのかが楽しみにしていた。
だがその一方で、征士は苦い思いもある。
明日から始まる上映内容は、季節柄だろう、七夕をテーマにしたものだった。
詳しくは知らないが、そうなれば恐らく織姫と彦星の話にも触れるに違いない。
それを思うと、征士はつい顔を顰めてしまう。
実は始めて付き合った彼女と一緒に見たプラネタリウムの上映内容が、ちょうど七夕に関するものだった。
プラネタリウムを出てからも空調が効きすぎて寒いと不機嫌になっていた彼女に、征士は征士なりに気を遣って何かを話さねばと思った。
今は寒かったという事に気持ちが傾いているが、そこから逸らしてやれば彼女の機嫌も直るだろうし、デートも楽しくなる筈だ、と。
しかし、上に姉、下に妹を持つ身でありながら征士はどういう話を振ればいいのか解らない。
征士にとって姉はおっかないし、妹は物言いがストレートすぎて征士にはとっつきにくく、そして付き合っている彼女とは全くタイプが違う。
中学生の男子には、どうやって気を遣えばいいのか皆目検討がつかなかった。
それでも征士は精一杯頭を使い、頑張って殊更明るく彼女に言った。
「牛の世話や機織をサボらなければ、年に1度だなんて事にはならなかったのにな」と。
そうだね自業自得だよね、と笑ってくれるかなと征士はこのときは思っていたのだ。後から思い返せば、まさか、なのに。
だがこの時の征士は、本気でこれが一緒に笑って話せる話題だと思い込んでいた。
嘘は吐いていない。織姫と彦星に対する征士の思いは本心だ。
そもそも恋愛に現を抜かして2人揃ってお互いの仕事を放棄していたのだから、それ相応の罰を受けるのは当然だ。
それを、年に1度しか会えないなんてロマンチックな話ですね、と言われても征士としては、どこが?としか思えなかった。
だから彼女にそう話を振った。
だが彼女はそうではなかったらしい。
征士の言葉に、目を丸くして一瞬固まった。
どうやら彼女はロマンチックな話だとずっと思っていたようだ。
「年に1度しか会えないのに!」
「今年の七夕が晴れればいいのにって、思わないの!?」
不機嫌な気持ちを更に加速させた彼女は征士に矢継ぎ早にそう言い放った。
そしてその日はそのままロクに会話をせず家路に着き、その数日後に「心がない」という言葉と共に征士は振られる事になった。
そんな苦い思い出があるせいで、次から上映内容が七夕になると言われると、征士は複雑な表情にしかなれないのだった。
だがそれでも七夕伝説について羽柴がどういう解釈をしているのだろうかと思うと、何故か少しだけ気が楽になる。
征士自身も何故そう思うのか不思議でならないが、羽柴も自分と同じようにように自業自得の2人だと思っているか、それか全く違う解釈を
しているという気がしてならない。
彼は星が好きだと言っていることからロマンチストなのかも知れないが、どこか現実的で身も蓋もない事を時折言い出す羽柴だからこそ、
七夕伝説を手放しにロマンチックな話だと捉えているとは思えない。
そう思うと、味方がいるというのではないが征士は気が少しだけ楽になった。
車を走らせ続けると、地元の駅舎の向こう側に、少し前に建ったマンションが見えてくる。
近くにはコンビニがあり、駅からもそう離れておらず立地条件は良好なものだ。
背の高い建物は空にも近いから夜には星も良く見えるのだろうかとふと思った征士だが、どうしてだかあまり魅力的には見えなかった。
プラネタリウムの椅子が殆ど寝たような角度にまで倒れるのに慣れているせいかも知れないが、窓から首だけ伸ばして見るよりも、
寝そべって見るほうが星は綺麗に見えるような気がしているからかも知れない。
そう自分なりの結論をつけた征士の車は、赤信号で停車する。
その時だ。何か視界の端で違和感を覚えた。
「………………?…………く、…ま?」
征士は我が目を疑う。
一度瞬きして、目を逸らし、そしてもう一度さっき見たもののある、斜め向かいの歩道へと視線を戻す。
「…………熊だ…」
見間違いではない。
大きな熊がいる。
本物ではない。明らかにヌイグルミの熊だ。
熊、というより、くま、と可愛く表記した方がいいような熊がいた。
いや、いた、というのは正しい表現ではない。
後ろから抱きかかえている人の腕が見える。
ただその熊が大きすぎて、抱えている人の姿が見えない。
手や腕を見る限り、抱えているのは男だろう。
そして腕の位置や地面から熊が浮いている高さから考えても、それなりに長身の男だ。
その男が一体何を思って、一体何の理由があってそれなりに交通量の多い交差点で注目を集めながら熊のヌイグルミを抱えているのかは知らないが、
征士には何となくその男はロマンチストのように思えた。
恐らく誰かへのプレゼントだろうが、配送ではなく自分で抱えて歩いているくらいだ。
きっと渡した時の相手の喜ぶ顔が見たいのだろう。
渡す相手が子供か恋人かは知らないが、彼のような人間はきっと彼女から「心がない」と言われる事はないのだろうなと思うと、
被害妄想だと解りつつも何となく征士は落ち込んでしまった。
折角、さっき七夕に関しては羽柴も自分と似たスタンスだろうと気が楽になっていたというのに。
その征士の背後からクラクションが鳴る。
「………いかん、…っ」
熊に気を取られているうちに、信号はすっかり赤から青に変わっていた。
慌てて周囲を確認して車を再発進させる。
少しだけ走らせてから、先程の熊を抱えたロマンチストをミラー越しに探した。
どんな後姿をしているのか一目だけでも見ておきたかった。
男の信念は背中に表れる。
職人である祖父や父の背を見て育った征士にはそういう思いがあったから、そのロマンチストがどんな背中をしているのか少しだけ見ておきたかった。
「……………。………なんと…」
征士は絶句した。
何故なら男の背はモコモコと茶色い、熊、だった。
いや、いやそうではない。背中も熊のヌイグルミだったのだ。
その男はまるで赤子を背負うかのように、抱えているものと同じサイズの熊のヌイグルミを背負ったまま、交差点を進んで歩いていった。
あれはロマンチストじゃなくて、ただの変わり者かもしれない…
どこか冷静になった征士はさっきまでの卑屈な思いを捨てて、そのまま雷光へと車を走らせて行った。
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子供の頃から、和菓子を作る祖父や父の背を眺め続けていた征士にとって、男の背中は憧れの対象です。