満天の星空で会いましょう




出勤するなり背後で手を組み、どうやら自分を待ち構えていたらしい田上が「虫刺されでお悩みの先生、朗報です」と言った瞬間、
当麻は自分の頭の中で今日が何曜日だったかを考えて彼の横をまるで興味がないように素通りし、そして素早くその後ろにした手を確認する。
A4サイズの紙があった。

”ビンゴ。”
当麻は心の中で小さくガッツポーズをとる。

アンケートは毎週、水曜日に回収すると決まっている。そしてその用紙のサイズはA4。
そしてこの田上の態度。
明らかに、自分宛のアンケートだ。
確信を持った当麻は片眉を上げると即座にその手から紙を奪い、「少しは上司を構えー!」という田上の叫びを背中に自分の机へと向かった。



ブループラネットで勤務するようになって3ヶ月。
その間中ずっと、口にはしないが、アンケートなど意味が無いと当麻は思っていた。
投書数は海外に比べればかなり少ないが、他のスタッフの反応を見ると以前よりは増えているというのは判る。
だがその内容はというと、参考にならないものが殆どだった。

アンケートは用紙の上半分が施設やスタッフに対する評価を5段階でつけるならば、という設問になっている。
その問い掛けに対する答えは、大抵が「良い」を表す「4」か、「非常に良い」を表す「5」に丸がつけられていた。悪くても「普通」の「3」程度。
これが本当にそうなら良いのだが、当麻からすればこれはあまり自己主張をしない日本人特有の上辺だけの評価にしか見えない。

そう思うようになったのには理由がある。
ある日、上演終了後に解説のために座っている自分の席から立ち上がった時にふと目に入ったのは、一部の客が服の上から肌を擦り、
寒そうにしている姿だった。
自分の席はそう寒いと感じなかったから個人差かとも思ったが、それにしたってその一部だけが男女問わず寒そうにしていたのは気になる。
そこですぐにドームを出てコントロールルームに向かって空調を確認すると、ちょうどその寒そうにしていた客の上にあるエアコンの設定温度だけが
他のエアコンよりも3度も低く設定されていた。
まだ桜が散ったばかりの季節の事だ。
これでは寒くてリラックスなんて出来なかっただろうと当麻は申し訳なく思った。

しかしその週の水曜日に開けられたアンケートボックスを幾ら確認しても、部屋の温度に対する文句は見当たらなかった。
それどころか室温に対する設問はどの用紙も全て「4」以上の評価がついている。

そんな馬鹿な。当麻は思った。

だが何度見ても、指摘はない。
設定温度が一箇所だけ低かったことはその日のうちに上司である田上に報告して翌日の朝礼で注意を出してもらっているから、
スタッフ内での見落しは今後暫く無いだろうが、それでも納得がいかない。

確かにあれは明らかにブループラネット側のミスだが、正直に書かない客に対しても当麻は少しだけ腹を立てた。
寒かったのなら素直に書けばいいのに、と。

だからと言って当麻が完全にアンケートを馬鹿にしているわけではない。
つけられた評価を気持ち半分で受け入れて、今後の参考にしようというくらいには真面目である。
それにアンケート用紙の下半分で質問を受け付けているのだ。
年齢問わず、天体の事についての質問に答えるのは、当麻の楽しみの1つでもあった。
天体を愛する者からすれば当たり前に思って見過ごしていた別の側面を、些細な質問は改めて考えさせてくれる。
考える余地がまだ残されていると思うと、当麻には堪らないほどの楽しみを与えてくれた。

だがここ最近、妙な投書が出てきた。
読みやすく、丁寧に書かれた文字は書いた人間の骨格美を示し、そして綺麗並んだ文面はその人の真面目さを映し出していた。
ただ困った事に、その内容はどう受け止めていいのか、どう返事を書いていいのか迷ってしまうものでもあった。

最初は困惑した。
次に来た時も悩んだ。
何故ならどちらも天体についてではなく、自分についての、それも質問ではなく単なる感想でしかない。
田上はファンレターだと笑ったが、言われて見ればそんな風にも思える。
だが当麻はアイドルでもタレントでもなくて、ただのプラネタリウム解説員だ。
そんなもの貰っても、というのがまず出てくる感想だった。

…のだが、心のどこかでそれを心待ちにし始めている事に先日気付いた。
水曜日が待ち遠しい。
その人の文字を見るのが楽しい。
そして、どう返事を書こうかと頭を悩ませるのが楽しい。

先週など、その人からの投書は2度もあった。
1つはこんなにも楽しいのに眠るのは勿体無い、という擽ったくなってしまうような内容。
もう1つは、星を見るのが楽しくなった、という、解説員としてとても嬉しくなる内容。


さぁ、今日はどんな内容かな。
緩みそうになる頬を必死に押さえつつ、まずは糖分を体に入れようと、当麻は机の引き出しの中から買い置きしているお菓子を取り出した。




「…………羽柴くん、何してるの?」


不思議そう、というより若干不審がっているような声で柳生が声をかけると、当麻は凝視していたパソコンから顔をあげた。


「いえね、この”思い出通り”っていう場所の範囲を調べているんですよ」

「思い出通り?………私が聞きたいのはそっちじゃなくて、」

「柳生さん、”思い出通り”に行った事は?」


質問をしたのは自分のはずなのに、こちらの話などろくに聞かず、自分の聞きたい事を口にする当麻に柳生は呆れて溜息を吐いた。
だがどこか人の気持ちに鈍感な当麻がそれに気付くわけも無いので、柳生はいつものように自分を後回しにすることを選ぶ。


「何度かあるわ。といってもどれも用事があって行っただけだけどね」

「じゃあ、この店の場所、判ります?」


そう言って当麻が柳生に見せたのはアンケート用紙だ。
書かれている文字が綺麗なことから、例の”美人”からのものだとすぐにわかる。
今日は見せてくれるのね、と内心面白く思いながら、それでも表情だけは変えずに柳生はその店名を目でなぞった。


「……やまのうち、…やっきょく?」

「ええ。ここの薬が虫刺されにとても聞くと教えてくれているんですが、”思い出通り”の端にあるという以外に住所の記載がないんです。
だからネットで調べてみたんですが、ホームページがないらしくて出てこなくて…」


顔は柳生に向けたままで、無意識だろうが足首を掻いている当麻のためにも思い出そうと柳生は細い手を顎にやった。
その字面はどこかで見覚えがある気がする。

”思い出通り”は”通り”という名がついているのだが、正式名称は別にある。
単に通りの名ならばインターネットの地図でも表記はあるが、”思い出通り”は通称だから、どこからどこまでをそう呼ぶのか曖昧だ。
古い町並みを範囲と捉えてしまうと、雷光を含むあの辺りは一体に古い家が立ち並んでいる。
下手をすれば近くの商店街だって古いのだから、”思い出通り”だと捉えている観光客だって少なくはない。
だから一言に「その端にある」と言われても、どの方向に向かってどこに、というのが判らない。

ポリポリと足首を掻き続ける後輩の姿に柳生が、ううん、と唸ること暫く。
突然、彼女は勢いよく目を見開いた。


「………柳生さん?」

「思い出した………」

「え、山之内薬局ですか?」

「そう、山之内薬局。雷光の前を古いポストがある方向に歩いていって、左側を見ながら歩いてたら看板が見えるわ。
隠れるみたいにしか出てない看板だから注意深く探してね」

「何でまたそんな、注意深く探さなきゃ見つからないような店を覚えてたんですか…?」

「たまたま用事で出た時に、看板が目に入ったのよ」

「また、何故」


周囲にある物全てに興味を引かれる観光ならまだしも、用事で出たのなら目的地以外にはあまり目を向けることもないだろうにと
当麻が重ねて尋ねると、柳生は品のいい眉を顰めた。


「………………………看板の形が蛇なのよ」

「蛇、苦手なんですか?」

「……苦手な人のほうが多いと思うわ」

「なのにそういう人に限って目聡く見つけるんですよね」

「悪かったわね、目聡くて」

「別に悪いだなんて言ってませんよ。ただ疑問ではありますけど。見なきゃいいのにセンサーでもあるのかな、苦手なものに対しての。
…………あ、柳生さん、ありがとうございました」

「どういたしまして」


自分の中の問題が解決された当麻は礼を述べたのだが、その視線は何故か柳生から離れない。
それを不思議に思って柳生が首を傾げると、当麻も同じように首を傾げた。


「……で?」

「……?なあに?」

「柳生さん、何か俺に質問があったんじゃないですか?」


何をしているのかと尋ねた自分の言葉はちゃんと聞こえていたと知ると柳生はまた溜息を吐きたくなったが、朝から溜息ばかりでは
一日のスタートとしてあまり良くない。気がする。
だから彼女はそれを堪えると、パソコンの前に置かれた物を遠慮なく指差した。


「それ、…なに?」

「何って?……ああ、餡子ですよ」

「それくらい見れば判るわよ。そうじゃなくて」


何でそんな状態なのと柳生に言われる餡子は、色艶美しい餡子だ。
ただその餡子がプラスチック製の小さなトレイに入った状態で机の上に鎮座している理由がわからない。


「あぁ、これはアレです。本当は最中の中身なんですよね」

「もなかのなかみ……まさか羽柴くん、最中をバラバラにしたの?」

「いいえ、してませんよ。これは雷光で売ってる、自分で作る最中です」


自分で作ると当麻が言ったのは、最中の皮と餡が別個で包装されていて、食べる直前に自分で餡を中に詰めるタイプのものだ。
それは柳生も知っているものなのだが、最中を完成させずに中の餡だけを食べる人間は初めて見た。
海外暮らしの長かった彼は食べ方を知らないのだろうかと一瞬疑ったが、自分で作るタイプだと言っている事からその可能性は低いと思い直す。
だとしたら答えは1つ。


「あなた……幾ら甘党だからって餡子だけで食べちゃ駄目じゃない。雷光の職人さんはその皮に合わせて餡子を作ってくれてるのよ?」


先日の饅頭を独特の表現で褒めちぎっていた(らしい)彼にしては珍しいと思いつつも言うと、当麻は首を振った。
表情は途端に悲しげになった。


「それは俺だって解ってます」

「じゃあ、どうして一緒に食べないの?」

「………最中の皮は多分、雷光で作られてません」

「どうしてそう思うの?」


柳生が聞くと、当麻は机の引き出しを開けた。
中には確かに最中のセットが入っているが、明らかに餡と皮の残っている数が合っていない。
周囲が気にしていなかったが、どうやら彼は何度か餡子だけを食べていたようだ。


「俺も最初はお店の人の言ったとおりに餡を皮にセットして食べました」

「…美味しくなかったの?」

「いいえ、美味しかったです」

「じゃあ何で」


益々意味が判らないと更に追求すると、当麻は深い溜息を返してきた。


「餡はとても美味しいんです。皮に合わせて作ってあるから、味もいいんです。………でもその皮が、機械で作られたような味しかしない…」

「…………………………」


これは、やってしまった…。
柳生は後悔したが、もう遅い。
天才という名の馬鹿による、心底どうでもいい話のスイッチを押してしまったらしい。

項垂れ、額に手を当てた当麻からは沈んだ雰囲気が滲み出ている。


「きっとこれは外注している分だと思います。雷光には飴も売られていましたが、それは店で作ったものではないと聞きました。
だから全ての商品が雷光のものでないと考えれば、それはすぐに判ります。優しさも、真面目さも何もない味ですこの皮は。
味の調整はされているし店に並べていることから、失敗ではないのでしょう。実際に美味しい。でも違うんです。食べても幸せになれないんです。
次々に食べたくなる物じゃないんです。でも餡子だけなら違う。餡子だけなら幾らでも食べれます。とても美味しいんです。
……良かったら柳生さんも食べてみますか?」


項垂れたまま当麻は机から餡子と皮の袋をそれぞれ1つずつ取り出し、そして柳生の方へと差し出す。
だが受け取る感触がない。


「…………?…柳生さん?………って、あれ?」


不審に思った当麻が顔をあげると、既に柳生はそこから消えていた…




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先輩、逃亡。