満天の星空で会いましょう
午前5時。
征士はスニーカーのヒモをしっかりと結ぶと、静かに玄関を出た。
買い換えてから1ヶ月にも満たない靴はクッションの効きはいいものの、未だ足の形に馴染んではいない。
互いに居心地のいい関係を探りあっているようだと、確かめるように踵を地面につけていた征士は考えた。
朝のジョギングは、余程の悪天候でない限り征士の日課だった。
昔から剣道を嗜んでいてその一環で始めたことだったが、今では学生時代とはまた少し違った意味合いが含まれている。
和菓子作りは見た目以上に体力が要る。
キロ単位で材料を運び、混ぜ合わせるための筋力も、それに根気も必要になる。
それらを培うためにもジョギングは良かった。
何よりジョギングに出れば、その日の気温や湿度を肌で感じることが出来る。
空気中に含まれた水分の微妙な違いで、材料の配分や生地を寝かせる時間を調整しなければ
毎日同じ味を作る事は出来ない。
店に並べる商品の最終的な形作りはさせてもらえないが、生地や中身を作るのは征士に任された大事な仕事だ。
日々の微妙な差を見つける地道で根気の要る作業については、真面目で努力家の征士の腕を祖父も大層褒めてくれる。
客からの反応も上々だ。
それが嬉しいし、その期待に応えたい。
だから征士は毎朝5時にジョギングに出る事にしている。
征士の実家でもある和菓子屋・雷光は市街地より少し離れた、旧市街地と呼ばれている区域にあった。
都市開発が進む駅前や新興住宅地と違い、そこには昔ながらの家屋や商家が多い。
駅に向かう途中のアーケードのかかった商店街には、駄菓子屋や文房具屋、そして金物屋がある。
その商店街から少し離れた雷光の並びでは骨董屋や花屋の他に、今では少なくなった個人経営の書店も健在だ。
少し足を伸ばせば呉服屋もある。
そこは征士の幼馴染の実家でもあり、そしてお客様に出す茶菓子を雷光から仕入れてくれているお得意様でもあった。
どこか懐かしい空気の漂う地域の中心を通る道は、いつからか”思い出通り”と呼ばれるようになり、
何かで紹介されたらしく、観光客も訪れる地域になっている。
その”思い出通り”を征士は走る。
出勤ラッシュの時間より早く、市場へ買い付けに行くトラックは既に出発している時間帯という事もあって通りには
征士以外の人影は滅多とない。
「……………………」
真面目な性格の征士は、喩え通る車がなくとも信号が赤ければ律儀に止まる。
止まると言っても急に脚を止めるのではなく、軽く動かしながら、時には筋を伸ばしながら信号待ちをしていた。
市街地のメイン通りではないから信号はすぐに青くなる。
最近取り替えられたばかりの信号は、朝日に照らされてもハッキリと色が見えた。
進めることを教えてくれる青は明るく、見栄えがいい。
そう言えば、と征士は思い出した。
実は昨日、征士は初めてプラネタリウムに2日連続で通った。
いつも征士がプラネタリウムに向かうのは雷光の休みの日だった。
だが昨日の営業が終わり、店の前の掃除をしようと表に出たときだった。
妹の皐月が、「たまには私がやるからお兄ちゃんは休んでていいわよ」と、征士の手から箒と塵取りをさっと奪ったのだ。
大学生の妹が店を手伝うことを、祖父は勿論許していない。学生の間は学生として楽しむべきだと言う考えは、全ての子供に向けられている。
だがその妹が、掃除とはいえ急に手伝うと言い出した。
不思議に思った征士が何故と聞いても答えはない。
彼女はただ頑なに、私がやるから、としか言わない。
そして続けて、
「折角時間が出来たんだから、お兄ちゃん、好きにしてきたらいいじゃない」
と言うのだ。
好きにと言われ、いつもの征士なら「冗談じゃない」ときっちり修行中の身である己の本分を成そうとするのだが、
この時はそのまま妹の申し出を有難く受け入れ、そしてそのまま急いで服を着替えるとプラネタリウムへと向かった。
以前密かにチェックしたタイムスケジュールでは、店の閉店時間に飛び出せばギリギリで最終のプラネタリウムに間に合う。
念のためにと久し振りに自転車に跨った征士は大急ぎでドームを目指した。
その結果、征士は無事にプラネタリウムを見ることが出来た。
だが残念な事にその解説は例の”羽柴さん”ではなく、別のスタッフによるものだった。
最初はそれでも星の話に変わりはない、と思っていた征士だったが開始直後から違和感が付き纏った。
口調や解説内容が人によって違うのは当然だ。
だが仕事内容まで違うわけではない。
ドームの天井を空に見立て星を浮かべ、その1つ1つを説明してくれる。
見やすい場所、天候、そして見るときのコツ。その日のスタッフも丁寧にそれらを教えてくれた。
だがそれでも征士には違和感があった。
羽柴という男の声に慣れているからというのではない。
何といえば良いのか征士の中で上手く処理できないが、祖父の言葉を借りるのなら、「心がない」のだ。
ここで職員として働く彼らの経緯は知らないが、解説員をするほどだからやはり天体には詳しいのだろう。
色々な事は日々変わっていく。新しい発見もある。
きっと打ち合わせなどでそういった情報はスタッフ全員共有しているのだろうから、知識も大きな差は無いはずだ。
だけれど昨日の解説は征士には何の感動もなかった。
学校の授業で聞いた事より少し踏み込んだ程度の、”講義”のようにしか思えなかった。
時折挟むユーモアのセンスも理由かと考えたが、どうもそうではない。
その理由を考えてみると、やはり「心がない」、のだ。
あの羽柴という男は星を語るとき、聞いている側に知識がなくとも心から興味を惹かれるほどに、嬉しそうなのだ。
まるで宝物のように、愛を込めているように聞こえてくる。
丁寧に、しかし親しみやすい口調での語りには目に見えない至る箇所に「心」が込められているように思えた。
「………心か…」
思って呟く。
和菓子を成形するときに祖父にいつも言われるのは、心が無いという事だ。
生地もタネも見事に作り上げ、魂を作る事は出来ていると言われるのに、最後に形を整えるといつも、心が無いと言われる。
征士としては下準備を整えながらも、祖父や父の手元を盗み見てそれを辿っているつもりなのだが、祖父からすれば
大きく違うと言うのだ。
心。
それが解らない。
征士はずっとその「心」は、好きだと言う気持ちだと思っていた。
実際、羽柴の解説からは星が好きでたまらないという気持ちが溢れている。
その思いがスピーカーを通してドーム全体に行き渡ることで半円形の天井を本物の星空のように錯覚させ、
ただの照明でしかない筈の光を本物の星の瞬きのように感じさせる。
それは全て、声の主の思いが篭っているからだというのは、昨日の他の解説員の回を聞いて思った事だ。
では自分の、和菓子に対する思いはどうなのだろうか。
子供の頃から慣れ親しみ、美しく優しく、身近な存在を、征士はいつだって大切なもののように思っていた。
味覚の嗜好によって征士はあまり大量の甘味をとろうとは思わないなりにも、和菓子という食べる芸術品に対する思いは深かった。
だがその思いは足りず、寧ろ無いに等しいと評価される。
星に対する彼の思いとの差は何なのだろうか。
「……………?………、しまった…」
考えている間に信号を2度ほどやり過ごしてしまっていた。
あまり考えすぎてはいけないと父からも注意されているのに、つい。
征士は周囲に誰もいない事を確認してから、照れて小さく頭を掻いた。
昨日、プラネタリウムでもう1つ気付いた事があった。
どうやらアンケートは全てに回答がもらえるわけではないらしい。
一昨日の征士の投書に対する答えは、昨日の掲示板に貼り出されていなかった。
昨日の今日だし、それに征士だって返事が来るものとは思い込んでいなかったものの、
それでもやはり、少しだけ寂しく感じてしまった。
そして思い出してからまた、少し寂しくなってしまった。
その照れもあって、また征士は頭を掻くと、今度こそ信号が変わらないうちにと再び走り始めた。
”思い出通り”を抜けた先にある高台の小さな公園で折り返すのが、いつもの征士のコースだった。
雷光では常に客で賑わっているというわけではないが、カメラを携えた観光客がそれなりの頻度でやってくる。
地元の人間もそこに紛れて買い物に来るが、一度に購入する量はやはり観光客の方が多い。
箱で買い、包装して袋に詰めるのは店に立っている母と姉の仕事だ。
彼女達の凛とした声が作業場にも時々聞こえてくる。
その声の雰囲気と時間帯を頼りに、仕込んでいく量を調整する。
時計を見ると、そろそろ昼になろうかとしている頃だった。
生菓子も並ぶ雷光では午後に向けて徐々に作る量を減らしていく。
その、ふとした合間だった。
「ヒヨコはうちにはありませんが、一般的に言われているヒヨコ饅頭と同じ味のものならこちらになりますよ」
姉の弥生の声だ。笑みを含んだ丁寧な口調だった。
それを耳にした征士は、外国からの観光客でも来たかと思った。
日本に観光で来る外国人の大抵は解りやすいスポットへと出向くものだが、何人かはこの”思い出通り”を訪ねてくる。
妹の話によると、最近外国でも人気がある日本のとあるアニメの町並みにここが似ているそうだ。
そう言われてもアニメにも流行にも疎い征士はピンと来ないが、それで和菓子に興味を持ってもらえたのなら嬉しいくらいには思っていた。
だから今回の客について、どうやらそのうちの1人がヒヨコ饅頭を探してきたのだろう、というくらいには。
生憎、雷光ではヒヨコ饅頭やそれに近い造形の和菓子は扱っていない。
ただ饅頭としては普通のものだから、味で言えば同じものはある。
だから姉がそれを紹介したのだろう、程度に思っていた。
実際にそれで買う客もいれば、やはりヒヨコ饅頭がいいと諦める客もいる。
「えっ、…!こ、コレがヒヨコと同じなんですか…!?」
だがその客は、驚いたように声を上げた。
大きな声を出したことが恥ずかしかったのか、その後すぐに小さな声で「すみません」と謝るのも聞こえてきたが、
征士はそこで一瞬手が止まった。
驚きに鋭く出された声は、どこかで聞き覚えのあるものだ。
急な事に頭が真っ白になってしまい、うまく思考が動いてくれないのをもどかしく思いながらも、その声を辿る。
そして直後、征士は手に嵌めていた手袋を外し、作業場を飛び出して店へと出た。
「ありがとうございましたー」
姉が小さく手を振って客を見送っているのが見えた。
レジを打っていた母が、急に出てきた息子を不思議そうな目で見ている。
店内に戻ってきた姉は、客には絶対に見せることのない胡散臭い目を向けていた。
「なに、征士」
姉は声も厳しかった。
「い、……いや、…その………さっきのお客さんは…?」
「さっき?」
「ヒヨコがどうのと…」
「ああ、その人ならお饅頭を箱で買って今帰ったところよ」
理由は解らないが店に飛び出してきて立ち尽くす長身の弟が邪魔だったらしく、姉は弟の胸を押して「退きなさい」と無言で訴えてきた。
昔からこの姉は外面は良いが弟には厳しい。
幼い頃から叩き込まれた圧力に負けて下がる征士の目は、それでも店の入り口に向けられていた。
あの声は、羽柴さんだ。間違いない。
征士はそう確信した。
プラネタリウムで聞くより声は幼く、堂々と星の解説をするときとは違ってどこか人馴れしないように聞こえたが、
あの独特の甘い声は彼に違いない。
征士は、確信した。
「……この近くに住んでいるのだろうか…」
「何か言った?」
小さな独り言に反応した姉は、やっぱり胡散臭い物を見る目で弟を見ている。
征士が振り返ると弥生は顎をしゃくり、作業場に戻りなさいと示した。
確かに作業着のまま店にいつまでもいるのはあまり良くない。
それに征士は非常に見目のいい男だ。
過去に征士目当ての客が大挙して押しかけてきた事がある。
当時まだ彼は学生で店には出ていなかったが、それでも一目見ようという客が店に溢れかえっていた。
あの時は最終的に征士本人が迷惑だと言い切って徐々に収束していったが、またあの時のようになっては面倒だ。
容姿ではなく、和菓子の味を目当てにして欲しい。それは雷光の誰よりも、征士本人が強く思っていることだった。
いずれ店を継ぐ弟の気持ちを知っている姉は態度こそ厳しいものの、だから早く引っ込みなさいと弟に言うのだ。
それを解っているから征士も素直に頷いて作業場に戻っていった。
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姉の弥生さん目当ての客も来ますが、彼女のあしらい方は天下一品だと評判です。