満天の星空で会いましょう
夕食後に庭に出た征士は、物置から持ち出した梯子を屋根にかけた。
しっかりと固定されたか確認していると「何してるの?」と背後から声を掛けられる。
「……皐月か」
「何よその顔。…お兄ちゃん、屋根に上るの?」
声の主は4つ年下の妹、皐月だった。
普段なら祖父に見つからない限り店の作業場に入り、物思いに耽っている兄の突然の行動が気になって、こっそりと後をつけて来たらしい。
征士の傍に寄った皐月は声を潜め、何か面白いことでも始めるとかと期待に満ちた目で長身の兄を見上げた。
「そうだ」
「屋根の修理でも始めるの?」
雨漏りなんてしていないし、仮にしていたとしても不器用な兄にそれを頼む家族などいない。
だからそうではないと解り切っていても、皐月は態と遠いところから尋ねた。
「屋根はどこも悪くない」
「じゃあ屋根の上に子猫でもいるの?」
「いない」
「じゃあ、何するの?」
答えを待つ妹の目はキラキラと輝いている。
屋根に登るなんて小さな頃以来だ。
兄がこれから屋根の上で何をしようとしているのか知らないが、ある程度面白そうな事ならばそれに便乗して久々に屋根に上るのも
いいかも知れない。
末っ子でもある妹のその辺の感覚は伊達家の人間にしては珍しく、実年齢よりも幾分か若かった。
その妹から既に視線を屋根の上に向けていた征士は、やはり視線はそのままに一般的には素っ気無く、
彼にしてはごく普通に答えた。
「星を見るんだ」
「…………………………ほし…」
だがその答えはどうやら皐月の興味を一切擽らなかったらしい。
さっきまで何か悪戯をする子供のようにキラキラとしていた彼女の目はどこか胡乱で、それどころか胡散臭い物を見るような
目を征士に向けている。
「……ほしって、あの、星?」
言って指を空に向けた。
それを横目で見た征士が頷く。
「お兄ちゃんが?」
また、頷く。
「屋根に上って、星を?」
更に頷くと、皐月の顔が盛大に歪んだ。
「……何だ」
「お兄ちゃんが、星!?柄じゃない!!」
「失礼な…」
「だってお兄ちゃんって言ったら甘いのが好きじゃないくせに和菓子を食べて朝から晩まで和菓子の事ばっかり考えてるような人間なのに!?
靴を履くのは絶対左足からで門を出るのも絶対左足からで、ぬるいお風呂は嫌いで朝ご飯に味噌汁がなきゃやってられない人間なのに!?
そのおにいちゃんが、星!?ロマンの塊の、星を見るの!?屋根に上ってまで!?」
確かにそれはそうだ、皐月の言うとおりではある。
だがこういう時、身内は遠慮がない。
本人さえ意識していないような私生活の細かい部分まで持ち出されて全力で否定されては、征士だって落ち込みはする。
ただ元々表情が乏しいせいか、それは一切皐月には伝わっていないようだ。
「…………私だって気分転換くらい、する」
何と分類すればいいのか解らない悔しさを噛み締めながら征士がボソリと言うと、さっきまで「げぇー!」と言いたげな顔をしていた妹は、
ころっと表情を変えて大きく頷いた。
「それは本当にネ」
「…………………」
ただこうもアッサリと肯定されると、それはそれで悲しい。
間髪入れる必要もないほどに自分は煮詰まっていたのだろうかと、征士はさっきとはまた違った意味で落ち込んでしまった。
「で?お兄ちゃんはそれで星を見るの?」
兄が居た堪れなかったのだろうか。皐月は軽く溜息を吐いて話を元に戻した。
「………………ああ」
「星、ねぇ……」
見上げた先には幾つか星がある。
小学生の頃に授業で星の見方は習ったのだが、幾ら聞いても上手く見つけることが出来ず、結局そのまま興味は薄れていってしまった
事だけは覚えている。
その空を、兄は見ようというらしい。
「星……」
「皐月も見るか?」
夜空を見上げたまま呟く妹を誘ってみると、彼女はすぐに顔を戻し、そしていつもの生意気な表情を向けた。
「お兄ちゃんと見てもつまんないだろうから、いい」
可愛げのない事を言う妹が家に入ったのを見届けてから、征士は改めて梯子を掴んだ。
足元を確かめながら一段一段上がり、屋根に手をかけて体を上に引き上げる。
最後に屋根に上った時から随分と間が開いていることと、暗がりの中であまり足場が見えないことから征士は屋根の上を這うようにして
慎重に移動する。
「…ここくらいなら……大丈夫か?」
上のほうまで登って、寝転がることが出来そうな場所を見つけて寝そべった。
敷く物を何も持ってこなかったせいで背中に直接瓦が当たって痛い。
今度上るときは何かクッションになるものが要るなと思いながら、征士は空を見上げた。
まず探したのは北斗七星だ。
先週偶然訪れたプラネタリウムの、先週と同じ時間帯のプログラムに入り、先週と同じ席に座って今日も話を聞いてきた。
ナレーション担当は先週と同じ彼だった。
その彼が言ったのだ。
星を探すのならまず北斗七星を探すのが解りやすい方法だ、と。
柄杓に似た独特の形をしていて、明るい星が多い北斗七星は目印になりやすい。
彼の言葉どおり、征士もすぐに星を見つけることができた。
そしてその柄杓部分からずっと伸びた先に北極星があるそうだが、これに関しては恐らくこれがそうかと思えるものしか見つからなかった。
だが今夜の征士の目的は北極星ではない。
年中動かない星の捜索を諦めると、視線を再び北斗七星に戻した。
今度は柄杓の柄の部分から星を辿る。
他の星よりオレンジに光っているように見える星が見つかった。
『アルクトゥルス。うしかい座の一等星です』
昼間に聞いた彼の声が耳に蘇ってくる。
ドームの天井に映し出された人工の星はもっと鮮明だったが、実際の空でも彼の説明ならばすんなりと星を見つけることができる。
征士は記憶の中の彼の声を頼りに朱に光る星の更に先を探した。
白くて優しくて、けれどはっきりと存在感を示す星。
「…………あった…」
スピカ。
おとめ座の一等星だ。
目的の星を見つけて、征士は思わず笑ってしまった。
『このスピカはおとめ座に描かれた女神が持つ、穂の部分に当たるんです。ここからこう…星を辿ると、こう、こう、…そして、こう。
どうですか?女神の姿が見えてきましたか?』
ドームの天井を彷徨うように動いていたポインターを、征士も夜空に思い浮かべた。
幾つかの星は見落としたり曖昧だったが、ぼんやりとは描くことが出来た。
『さぁ、どうでしょう。夜空に浮かぶ女神。…………僕はねー、これがちぃっとも女神に見えないんです。ていうか星座の殆どが、
その名前のものに僕は見えたことがないんですよね、実は』
悪びれるでもなくそう言うと、それじゃあ、という声に続けて今度はドームに星座の絵が浮かび上がった。
この状態なら昔、教科書で見たことがあるので征士も納得が出来た。
こうして示されるとどの星がどの星座を象っているのかは解るのだが、確かに彼の言うとおりその姿を夜空に描くことは難しい。
『これならどうでしょう?…まぁ僕はこれでもちょっと解ってなかったりするんですけどね。内緒ね、内緒』
マイクを通した声で内緒と言った彼を想像して、征士はまた笑う。
彼の話は征士にとってどこまでも引き込まれるものだった。
『でもね、星はずっと僕たちが見ているこの位置にあったわけじゃないんです。昔は今と違っていて、そしてこれから何年も先になれば
僕たちが見ている位置からも少しずつずれていくんです。色んな時代の人たちが同じ星を見て、同じ星座を見ているけどちょっとずつ違う。
だけどそれは何百年も何千年も同じものなんです。…そう思うとね、僕は星が面白くて仕方がない』
静かな声には、その分、思いがしっかりと込められていた。
征士は一人頷く。
確かに彼の言うとおりだ。今まで特に意識した事はなかったが、ずっと続いていて、ずっと変化していて、けれどずっと同じもの。
こうしてゆっくりと星を見るなんて征士は初めてのことだったが、まるで馴染んだ行為のように心が落ち着いてくるのが解った。
『今日はとても天気がいい。今夜だったら星が沢山見えると思いますよ。だから僕は今日、スピカを探そうと思います。
もし良かったら皆さんも思い出したときでいいので、一度空を見てみて下さい。
まず北斗七星を探して、アルクトゥルスを探す。今度はそのまま伸ばしてスピカを探す。
ほんの少しだけ星を身近に感じることができるかも知れませんよ?』
「………………」
彼も今夜、この星を見ているのだろうか。
征士はふいにそんな事を考えた。
顔も知らない相手だけれど、それでも同じ目的を持った人がいるかも知れないと思うと不思議と心は浮かれる。
あなたのお陰で星が見つかりました。
そう、伝えたいと思った。
「………羽柴、さん…か」
その相手の名を呼ぶ。
征士が彼の名を知ったのは、プログラムが終わってドームから出た時だ。
先週、アンケート用紙らしきものがあったので感想を書いたのだが、今日、その近くを通ると先週は気付かなかった掲示板に何かが貼り出されていた。
何だろうかと近付くと、そこにはパソコンで打ち直された自分のコメントの下に、職員からの返信が添えられたものがあった。
”ありがとうございます。そこを褒めていただいたのは初めてなので照れますね。
だけど僕の話を全部聞いてくれてたって事は、最後まで眠らずにいてくれたって事ですよね?そっちも嬉しいです。
星は楽しかったですか?気が向いたときに夜空を見上げてあげてください。本物はもっと楽しいですよ。”
その最後に「担当:羽柴」とあり、征士はそこで声の主の名を知った。
はしば。
征士はそっと声に出して呟く。
どんな人物か知りもしないのに、空が似合う人のように思えて征士は知らず頬が緩んだ。
だがその表情はすぐに曇る。
「………途中で寝てしまうのは勿体無いと思うのだが…」
一文にあった”眠らずに”という言葉が引っ掛かる。
思い返してみれば最初のアナウンスの時にも、彼は寝ても構わないというという旨の事を言っていた。
それはつまり、寝てしまう人間がいるという事なのだろうか。
確かにプラネタリウムのドーム内は快適だ。
それに星空も綺麗だ。
ナレーションの声も耳に優しい。
確かに、あまりの心地よさに寝てしまうかもしれない。
しかしそれを上回るほどに彼の話は面白いのだ。
なのに、それを眠るだなんて。
「勿体無い」
征士はもう一度声にした。
そして少し胸が痛む。
「彼が本当はその事を気に病んでなければいいのだが……」
スピカを見つめたまま、いつしか征士はその事ばかりが気になっていた。
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伊達家は昔ながらの日本家屋。