満天の星空で会いましょう




普段から伊達家の夕食時は騒がしいという事は無いが、会話が無いわけではない。
一般的で平和な日本の食卓といった感じの光景だった。
だがこの日の夕食時は違った。
家族全員の視線が、遠慮がちではあるが征士に向けられている。
そしてその視線を向けられている征士は家族の様子に気を回すことさえ出来ないほどに、気分が昂揚していたのが表情にも出ていた。


祖父に呼び止められた昼下がり。
自分の中にあった重苦しい悩みを吐き出し、迷いは吹っ切れた。
そして「一番作りたいものを作りなさい」という祖父の言葉に後押しをされ、作業場へと戻って作ったのは、”きいろ”だった。

ブループラネットで解説をしている羽柴はいつも幾つかの和菓子を買ってくれていたが、”きいろ”だけは必ず買っていた。
だから征士は、どうしても自分の手で”きいろ”を作り上げたかった。

餡と生地をいつもどおりに作る。
普段店に出しているものはこの後、他の職人の手に作業は委ねられ、”きいろ”の形になっていく。
修行として作っていたものは征士が最後まで遣り遂げるが、いつも師でもある祖父が隣で見守り、緊張感の中で作られている。

だが今日の”きいろ”は、征士の思うまま、征士が想うままに全行程、それこそ紙に包むまでを1人で遣り遂げた。


その”きいろ”は、今までで一番不恰好だった。
しかしその仕上がりを見た師は、今までで一番良い出来だと言ってくれた。

それだけでも今日は嬉しかった。
なのに、作業場を片付けている時だった。
時間としては閉店間際の事だ。

店のドアが開く音は微かに聞こえた気がした。
雷光は観光客以外にも近隣の住人が買いに来る店でもあるから、この時間の来客は珍しくはない。
だから征士もいつもと同じで、ああ誰か来たな、という位にしか思っていなかった。

のだが。

聞こえてきたのは、今一番、聞きたい声だった。
必死で、一生懸命で、いつだって心に直接響くような、あの甘い声。

その声が懸命に叫ぶように言っている。
自分を、良い職人だと言ってくれている。
如何に自分の作るものが素晴しいか、如何に幸せになれるか。
心が無いと言われ続けていた自分の作ったものを、それでも不器用なりに懸命に、本人なりに懸命に込めていた心を、その人は褒めてくれた。

1人の事を思いながら作っていたものを、その人にはきちんと伝わっていた。


ともすれば強烈な告白を聞いた征士は、後片付けの途中だった手を止め、その嬉しい言葉を全身で聞いていた。



そんな事があった今日だ。
幾ら表情が乏しいといわれている彼でも、気分が昂揚するのを抑える事は出来ない。
食事を終えて腹を満たしても、気持ちの中で何かが無限に溢れ続けているような気がして、興奮が収まらない。


「少し走ってきます」


服を着替え、今日作った”きいろ”をお守りのようにポケットに入れた征士は靴紐をきつく結ぶと居間にいる家族に聞こえるようにそう言い、
そのままいつものコースへと出て行った。




久々に晴れた夜だ。
走りながら時折空を見上げると、暗い空には星が幾つか見える。

たまに見上げる事もあった星空は、ブループラネットに通うようになってから、綺麗だと思えるようになっていた。
だが今夜は格別綺麗に思える。
星空がこんなにも綺麗で面白いものだというのを教えてくれたのは、他の誰でもないあの人だ。

アンケートに書いた事に丁寧に返される返事が嬉しかった。
その遣り取りが楽しかった。
彼からすれば自分は客の1人に過ぎないだろうが、それでも良かった。
素敵な物は素敵だと、素直に伝えられることが心地よかった。

その彼が、羽柴が自分の事を知ってくれていた。
そう知ったとき、征士は全身が震えるかと思うほどの衝撃を受けた。
しかも自分の作った餡が美味しいと言ってくれたのだ。

職人としても、そして1人の人間としても、最高に嬉しかった。


「………そう言えば、この時間に来たのは初めてだったな…」


考えながら走っていると、いつしか折り返し地点にしている公園に辿り着いていた。
階段の先にあるのは少しの遊具とベンチと、そして植え込みで仕切られた広場だ。
子供の頃は幼馴染の伸や他の友人とそこにある遊具や広場で遊びまわったが、最近では足を踏み入れることも無かった。
ここまで来ること自体、ジョギングのコースになっているだけだ。
階段を上ってまで公園内に入る理由は無い。

だが今夜は何となく、上がろうかという気になった。

元々この近隣は高い建物の無い旧市街だ。
征士の家の屋根に上るだけでも見晴らしは充分に良いのだが、この階段を上った先の公園は周囲の家より少し高く、そして周囲に木を植えているため、
公園内に設置された街灯以外で、外の光が入ってくることも少ない。
場所を選べば、殆ど暗いところもあるだろう。

そこなら、もっと星が良く見えるかも知れない。

そう思って、征士は階段を上り始めた。



公園内に人の気配は少ない。
遠くに見えるベンチの方に目を凝らせば、恐らく若いカップルだろうか。2人で身を寄せ合っている影が見えた。

征士は彼らの邪魔をしないよう気遣いながら、公園ではなく広場の方へと足を進める。
途中で空を見上げると、やはり自宅の屋根で見るよりももっと星は綺麗に見えた。
羽柴の解説にあった事を思い出しながら北斗七星を辿って、そしてスピカを見つける。
いつかの時に、自分の誕生星だと言っていた声が耳に戻った。
その記憶に征士の頬が緩む。


「…………。……あまの、がわ…」


空の低い位置が、ぼんやりと明るいのに気付いた。
ひとり、小さく呟く。

すると、違うよ、と声が聞こえた。


「………っ!!?」


この場に居るのは自分1人だと思っていた征士は驚く。
いや、驚いたのは声がしたからだけではない。
その声は、明らかに。


「は、……羽柴、さん!?」


そうだ、間違いない。
プラネタリウムでマイクを通して聞くよりももっと親しみやすくて、どこか幼い声だったが、間違いない。
きっぱりと語尾を切ってもどこか甘く聞こえる声は、彼独特のものだ。
聞き間違うはずが無い。

だから思いっきり反応して、そして名を呼んでしまった。
すると征士の胸くらいの高さまである植え込みの向こうで、何かがビクリと跳ねるような気配があった。

そこに、いる。


「………え、……え、……?え、何で、…俺の…名前……」


急に名を呼ばれた事で明らかに動揺しているのが伝わって、征士は姿の見えない相手に向けて必死の身振りで慌てて訴える。


「あ、その、違います、その、…!わ、私はその、ブループラネットに行ってて、それで、それでそこで、あなたの名前を…!」

「え、あ、そ、…そうなんですか、あ、ど、……どうも…!」


灯が少ないとは言え姿が見えない。どうも植え込みの向こうに座り込んでいるらしい。
姿が見えないなりに、お互いに妙な緊張をしながらぎこちなく挨拶を交わす。
その後、すぐに言葉は途切れた。
気まずい沈黙だ。


「………あ、…あの、……天の川、ではないのですか、あれは」


どうにか会話をしようと、征士が切り出した。


「あ、そ、そうです、違います。あれは駅のほうの明かりが強すぎて、空が明るくなってるだけです」


そして羽柴もそれに答えてくれた。
だが、会話はまたも途切れた。

しかし征士は、このまま「じゃあ」と言って帰りたくは無かった。
気分は雷光での一件よりも昂揚している。
もう少しだけでいい、彼と話がしたかった。

だが心はそう思っていても普段から不器用で口数の少ない征士に、提供できる話題は少ない。
直向な性格は不器用でもあり、機転の利いた話の振り方さえも知らない。

困ったな。そう思っていたときだった。

ぐぅううう……

という、非常に間の抜けた音が聞こえたのは。


「…………………………。…今のは、…羽柴さん…ですか?」


思わず聞いてしまった。
立派な腹の虫の鳴き声は、2人きりの空間に綺麗に響いた。
が、相手によっては失礼に当たるような質問だった。


「……え、…えぇ、まぁ………その、………………夕方から、ここにいるもんで…」


羽柴の最後のほうは消えそうな声になっていた。
夕方から、と言うと恐らく雷光を出た後からだろうかと征士は考えた。

叫び声をあげながら店を出て、そして今の時間までここに。
となると、喉も渇いているだろうし、今の音からして腹も減っているのだろう。
そして、「あ」と気付いた。


「な、なので俺、そろそろか、帰ろうかなって…お、思って、きた、かな…」


それと同時に羽柴がそう言った。
帰る、だなんて。征士は咄嗟にポケットに手を突っ込んだ。
体温で少し温まってしまってはいるし見た目も不恰好だが、尊敬する師に褒められた”きいろ”がある。
そしてジョギングに出るため携帯していたドリンクも。


「よ……良かったら、これ、食べませんか……!」

「え、…”これ”?」


薄暗い中、しかも植え込みを挟んで会話している相手に向かって、これ、と言っても当然見えるわけがない。
少し考えれば解ることだったと反省して、征士は今度は落ち着いて伝える。


「あの、”きいろ”です。雷光の」

「…………らいこうの…?」


しかし雷光と聞いた途端、羽柴の声に警戒が滲んだ。
征士はまた慌ててしまう。


「そ、その、…わ、私はその、そこに職人で、それで、その、…こ、これ、私が作ったんです…!大丈夫です、夕方に作ったばかりなので傷んでませんし、
そ、その、店に出すものではないですし、よ、良かったら食べて下さい!飲み物もありますから、大丈夫です!」


そう言いながらポケットから”きいろ”を取り出し、植え込みに近付いた。
どこかから回りこんだ方がいいかと周囲を見渡す。
それが空気から伝わったのだろうか、羽柴の警戒は今度は種類が変わって、慌てたものになった。


「あ、アンタ、雷光の職人さん!!?」


悲鳴に近い声。
相手は驚いたようだが、征士も充分に驚いた。


「え、ええ、そうです」

「雷光の、れ…………レジの人の、弟!?」


レジの人。は、確かに姉の弥生だ。


「そうで、す」


素直にそう答えて、そして気付いた。
と同時に植え込みの向こうから、「ぎゃー!」と言う声が上がった。

あれだけ熱烈なメッセージをくれた後で、悲鳴を上げて店から飛び出したということは、つまり恥ずかしくなって逃げたと考えていい。
そんな事をした人間に向けて、自分がそのメッセージの相手ですと言われたら誰だって恥ずかしくて堪らないだろう。
自分の身に置き換えてもそうだと征士は1人反省した。


「あ、あの羽柴さん…!」


兎に角、名を呼ぶ。相手はまだギャーだのワーだの言っているが、その場から動く気配が無い。
バタバタとした音は聞こえるから、恐らくだが、その場で悶えているのだろう。
その相手に征士はさっきより大きくて、でも精一杯優しく声を出す。


「羽柴さん、聞いてください、お願いです」

「………………………はい…」


相手から返事が来た。
それに安心した征士は小さく深呼吸して、自身も落ち着かせる。


「羽柴さん」

「………………」

「……夕方は、ありがとうございました。あなたのお陰で、私は職人としての自信が少しつきました」

「…………………そうですか…」

「…それと」


”きいろ”を握っていない手を握り締める。汗ばんでいるのが自分でも解った。


「あなたは私の作った餡が美味しいといってくれましたが、そう変えてくれたのは、あなたなんです」

「………へ?」

「あなたの星の解説を聞いて、それまで悩んでいた自分の気持ちが少しずつ楽になっていってたんです。そして、あなたがどんな人か考えるようになって、
…それで、私の職人としての腕も良くなってきていた、と師匠にも褒めてもらえるようになりました」


ありがとうございます。
一層丁寧にそう言って、征士は植え込み越しに”きいろ”と自分の持っていたドリンクを差し出す。


「これを、食べて下さい。あなたに食べて欲しくて作りました」


一世一代の告白をする気持ちで告げると、植え込みの向こうでまた音がする。
立ち上がろうとしてくれているのかも知れない。
それに気付いた征士の心臓が、強く跳ねた。


「あ、あ…った、立っていただかなくて結構です…!これを、そのまま受け取ってさえくれれば……!」


耳が熱い。
これは、恥じらいだと征士は思った。


「その、………お互いに今、顔を合わすのは恥ずかしい、…ですから…っ」


まるで初めての恋をするような気持ちになりながら、征士は精一杯に伝えた。
相手がそれに気付いたかどうかは知らないが、「そうですね」と小さく返って来た声はどこかはにかんだようだった。
それにまた征士は胸の辺りが擽ったくなり、曖昧に微笑む。

植え込みの下から伸びてきた手は、細くて長い、肉の薄い手だった。
それが”きいろ”を掴んで、そして続けてドリンクも受け取る。

ありがとうございます。と同時に言った。


「……………」

「……………」

「……そ、それでは私はこれで……ジョギングの続きに戻りますから…!」


何もかもが照れ臭くて、征士は夕方の羽柴と同じようにその場から走り去ろうと背を向ける。
その背に、羽柴の声がかかった。


「職人さん…!」

「は、はいっ」


立ち止まって振り返る。
植え込みがあるだけで、姿はやはり見えない。
言葉の続きを待っていると、また植え込みから肉の薄い手が出てきた。


「次に晴れたら、……星の見える夜がきたら、俺はまたここに居ます…!もし良かったら……一緒に星を見ませんか!?」


細い指が天を指した。
征士はそれに力強く頷き返事を返し、そして今度こそ頬が緩むのを堪えきれない表情のまま公園から走り去った。




*****
次の晴れを待つ約束。