満天の星空で会いましょう




朝から続けていた仕込も昼過ぎの客足を見てペースを緩め、そして征士が漸く昼休憩を取れたのは2時を回ってからだった。
これは珍しいことではない。
季節や天候によってもある程度の差はあるものの、雷光に居る職人はそれぞれの役割から手が空く時間を見つけて休憩を取る。
これ以上、餡や生地を作らなくていいとなるのは大抵が昼過ぎで、だから征士の休憩も一般的な社会人よりかは遅くなるのが常だった。

その休憩も、食事を済ませて一息つくとすぐに征士は食卓から立ち上がる。
個人経営の店舗だが休憩時間はきちんと規定どおりの時間がある。
それでも征士は立ち上がった。

気持ちが落ち着かないのだ。
少しでも何かしていないと、意識が和菓子とは違うものへ向かってしまいそうで、仕方ないのだ。


そんな征士を呼び止める声があった。
師でもある祖父だ。
作業場へと続く廊下を歩いている途中にある、彼の部屋から声は聞こえた。
「ちょっと来なさい」と。


「……何でしょうか」


祖父と孫ではなく、師と弟子として接する征士は障子をあけて入った部屋で、正面に師を見据えて問い掛けた。
用がなければこれから仕事に戻ろうという弟子を呼び止める人間ではない。

正面に座る祖父は、弟子でもある孫を同じく見据える。
容姿には確実に血脈を感じさせる2人だが、そこにある空気は違っていた。
凛としているのに何故か柔和な印象を与える祖父に対し、孫はどこか硬さがまだ残っている。
真面目すぎるほどに真面目。征士の美点であり、同時に欠点でもあった。

どこまでも硬い孫、いや、弟子に師は苦笑いをすると、「そう構えるな」と告げた。


「構えるなと言われても、お話があったからこそ呼び止めたのでしょう?それも、……仕事の後ではなく、今このタイミングで話しておきたいようなことが」


夕食の団欒時ではなく、仕事が休みの日でもなく、敢えて作業場が未だ使われているこの時間に話すほどのことが。

仕事と個人の時間はきっちりと分ける。
分けることでどちらにも張り合いが出て活力になり、結果としてどちらにも良い影響が出るし集中もしやすくなる、というのが雷光の祖の考えだ。
そんな征士の祖父だから、仕事の事を話すなら仕事をしている時だ。
しかし店を閉めた後にいつもしている修行の時も仕事中となる。だがその時ではなく、今、と判断したのは他の誰でもない、師だ。
何か大事な話としか思えない征士は、体全体で聞くためにも身構えてしまう。
それを構えるなと言われたって、真面目な男には無理な相談だった。

それが解っているから彼は師としてではなく、今度は祖父として苦笑いをした。


「まぁ、…こんな時に話すには少し曖昧になるかも知れんな、確かに」

「……?」


言わんとすることがよく解らず征士が首を傾げる。
硬さが少し、和らいだ。
すると変わりに今度は師が心持、姿勢を正した。


「…征士」

「はい」

「…………お前、最近、どうしたんだ」

「どう、…したと言われましても…………何が、でしょうか」


これには征士も困った。
今聞かれていることが師としてのことなのか、祖父としてのことなのか、状況と表情から判断がつきにくかったからだ。


「その………そうだな、私生活のことで言えば、この月曜日、お前は何をして過ごした?」

「月曜日?…一昨日の休みのことですか?」

「そうだ」

「一昨日でしたら、部屋に居ました」


部屋に居た。どこにも行かずに。
何をしていたと言われると、特に何もしていない。
敢えて言うのなら悶々としていた。


「和菓子の事を考えていたのか?」

「それは……」


その質問に、征士は困った。
確かに和菓子の事は考えていた。休みの日にまで考え込むなと常に言われていたが、それでも考えずにはいられなかった。
考えなければ、いられない理由があった。

その”理由”を突き詰めて考えるのは個人としても難しかったが、同時に職人としても征士には難しいことだった。

何となくでもそれが解ったのだろうか、祖父の顔から師の顔に変わった男は、「なら、」と切り出した。


「質問を変えよう、征士。…最近、お前の作るものがまた心がなくなってきている。何があった?」


心と言われ、硬かった征士の表情は更に強張る。強張ると行っても元々が他と比べて表情の乏しい男だ、そう親しくない人間にはその変化は読めない。
だが身内ともなると話は別で、その変化は手に取るように伝わった。


「…………………私には、……何が良くなっていて、何がまた悪くなっているのか解らないのです…」


師の口から直接聞いた事はなくとも、幼馴染の伸からその評価は聞いていた。
最近作るものが良くなってきていると。
先程の師の口調からすれば、良くなった理由は以前から言われている心が篭るようになり、しかしまたその心は無くなり、そしてその原因が
何かと問われている事は征士にも解った。

だが、その答えが解らないのだ。
そもそも自分はその”心”が何か解っていない。
解らないままに評価され、そして解らないままに心配されるような形で振り出しに戻っている。らしい。

ただ。


「1つだけ、私自身で自覚していることがあるとすれば、」


征士は唇を噛み締め、正面に居る師に向けて深々と頭を下げる。
俯いた表情を見られる事はなかったが、その口端は、己の情けなさに震えていた。


「私は雷光の職人として、最低な事をしました」




和菓子には様々なものがあるが、どれも美しく芸術品そのものだ。
そしてそれに対する価値も様々だ。
誰がいつどのようにしてそれを楽しむかは、そこに来る客層によって概ね決まる。
人を訪ねるときに携えていくに恥じない高級なものもある。
厳かな場に、華として添えられるものもある。
だが雷光のものは、そうではない。
見た目も味も、和菓子に対する職人の姿勢のどれをとっても高級と呼ばれる店に引けをとらないのだが、それでも雷光は気兼ねすることなく
訪れることの出来る店であることを信条としてきた。

和菓子は誰のものでもない。
それは師の言葉であり、姿勢であり、雷光に居る職人の志でもあった。

それなのに、と征士はもう一度唇を噛み締め、強く目を閉じて一層深く頭を下げた。


「私は、………………1人の人の事を考え、…和菓子を………作っていました」


誰のものでもない雷光の和菓子を、その人がどう思ってくれるかとばかり考えて。
美味しいと言ってくれているのだろうか、気に入ってくれているのだろうか。
そんな事ばかりを考えて毎日、生地を練り、餡を捏ねていた。

それは雷光の職人としては最低のことだったと、征士はここ3週間ほど思い悩み続けていた。

何が良かったのか、悪かったのか。心についてはまだ何も答えは得られていないが、最近の自分の事で言えばいつしか自分の気持ちが和菓子ではなく、
和菓子を通してただ1人の人間のことばかりを考えてしまっていた事への罪悪感が、一度は評価されたものがまた遠のいた原因かも知れないと考えた。
最低の職人だという、己を恥じる気持ちが腕をまた曇らせていたのではないか、と。


「……なるほどな」


頭の上で聞こえた師の声に、侮蔑を含んだような冷たさはなかった。
侮蔑さえ値しないということか。
否、そうではない。
寧ろそこにはどこか笑みが含まれているように聞こえて、征士は思わず顔をあげてしまった。

にやりと笑った祖父が居る。師ではない、祖父としての顔だ。
その瞬間に征士も「あ、」と思い当たる節があった。
慌てて首を横に振る。


「ち、違います、そうではないんです…!」


以前、祖父は征士に恋人か、或いは好きな人でも出来たのではないかと伸に探りを入れるよう言っていた。
それを征士は否定した。そういう相手ではないと。
伸がその結果を祖父に伝えたかどうかまで確認はしていなかったが、このままでは結局誤解を招きかねない。
置き場所に困る感情だという事はこの3週間のことで自分でも認めつつあるが、今は未だどうとも答えが出ないことだ。
だから未だ、誤解で自分より先に勝手な結論だけは出されたくない。

それが伝わったのか、それともあまりに必死になる姿を若いと捉えたのかは謎だが、にやりとしていた祖父はまた師の顔に戻る。
そして「征士」と弟子の名を呼んだ。
つられて征士の顔もまた、強張る。


「……はい」

「征士、”和菓子は誰のものでもない”。…そうだな?」

「…はい」


いつどこで、誰とどのようにでも良い。
構えて食べるのではなく、ただ楽しみ味わうためだけに存在する和菓子。
それが、雷光の和菓子。

子供の頃から征士が慣れ親しみ、尊敬してきた和菓子。

それを裏切った最低の職人が自分だと、征士は目は逸らさないままに、また唇を噛み締めた。
その表情を師はしっかりと見、そして幾分か口元を緩めて穏やかに口を開く。


「だが征士、忘れてはいけない」


『職人の心もまた、誰のものでもない』

そう言った声は師のもので、祖父のものだった。
その言葉は聞いた事がない。
征士は驚いて僅かに目を見開く。


「作られた和菓子は、誰がどうやって楽しむかはその人に委ねられるものだ。そこに職人の価値を押し付けてはいけない。
しかし、そこに込められる”心”は、その職人だけのものだ。他の誰にも、どんな理由であっても踏み込んではならない」

「………………」


込められる”心”。
征士は口の中でだけ繰り返す。


心とは何だ。

美味しいと思って欲しい。
美しいと思って欲しい。
それはずっと思って作ってきたことだ。
だが、誰に、というのはずっと無かった。
誰のものでもない和菓子だ、誰にというのはあってはいけないと思っていた。
曖昧にしたまま、考えようとした事が無かった。

込められるべきは、心。
己に無かったのは、心。


雷光の歴史はそう古くない。
今ほど誰もが物質的に豊かではなかった時代に出来た店だ。
祖父が始めたこの店だが、祖父の両親も親戚の誰も、和菓子に携わる仕事はしていなかった。
だが祖父は和菓子職人になった。そう幼い頃に聞いていた。

何故?と今更ながらに征士は疑問に思った。
それを見抜いたのか、祖父ははにかんだように微笑んで頬を掻いた。


「お前の婆さんがな、…甘いものが好きだったんだ」


殆どの人が、殆ど足りないものだらけの生活をしていた時代。
まだ少女だった頃の祖母は、甘いものが大好きだった。だが甘味などの高級品は、金持ちしか口に出来なかった。
それ以外の者はみな、芋などで口を慰めていた。
祖母もそれは同じだった。それを知っていた若き頃の祖父は、どうにかして彼女に甘いものを腹いっぱい食べさせてやりたかった。
理由は単純だ。少年だった頃の祖父は、芋を幸せそうに口にする彼女に恋していた。
どうにかして、彼女の気を引きたかった。

隣町の和菓子職人に弟子入りし、彼女のことだけを想って修行に明け暮れた少年は大人になり年老いた今も、その日一番に作った和菓子は
家事を一通り済ませた妻の下へと自ら運んでいく。
それは毎朝の光景だ。


「……こころ…」


征士は今度は声に出した。

今まで懸命に、祖父や父、他の職人の手元を見て技術を必死に学ぼうとしていた。
閉店後に修行として作った物は、見た目こそ祖父のものと変わりはなかった。
だがそれでも言われ続けたのは、心が無い、ということだった。

心が無かった。
心の向かう先が無かった。

自分の作ったものを食べて欲しい人がいる。
何故だか元気が無かったというその人が、この先も来てくれるかどうかは解らない。
それでも、居ても立ってもいられない。今すぐにでもその人のために何かを作りたくて、ここで座っている時間が惜しい。

征士が拳を握り締めたのを視界の隅で確認した師はまたにやりと笑い、目で退出を促す。


「お前が今一番作りたいものを作りなさい、征士」


その声に、征士は弾かれたように祖父の部屋を飛び出した。




*****
その人のために。