満天の星空で会いましょう




休みを取った火曜日、当麻は雷光へと足を運んだ。
家に置いてある和菓子のストックがなくなってきた。職場の机においてる分も。
そして、やっと晴れると聞いた翌日の夜は天体観測をすると決めていたから、その時のお供も必要だ。

当麻は傘を差し、機嫌よく雷光へと歩いていった。

今日は火曜日。ならば明日は水曜日だ。
毎週水曜日はアンケート開封の日と決まっている。
以前までなら特別楽しみでなかったその日を待ち遠しくさせたのは、”美人”からのアンケートが毎週投函されるようになってからだった。
その日が来ると、毎回毎回、上司の田上はいっそ鬱陶しく感じるほどの絡み方で当麻に件の用紙を渡してくる。
鬱陶しく感じても上司の事は根本的には嫌いではなく、アンケートの内容も週を重ねるごとに楽しみになってきてた当麻からすれば、
朝のその遣り取りは寧ろ待ち遠しいものになっていた。

その前日に雷光へ行く。
雷光じたいも、当麻にとっては楽しみになっていた。

ふと思い立って寄った店だったが、雷光は良い店だ。
店内は慎ましやかで凛としていて、寛ぐための店ではないはずなのに居心地が良い。
がら空きではないのにショーケースの中の和菓子をじっくりと見ていても、人の気配が苦にならない。
これは人込みが苦手な当麻にとって、大きかった。
対応してくれる店員も親切だ。
日本人の顔立ちなのに海外暮らしの長かった当麻は、和菓子について一切の知識が無い。
そんな人物相手があれこれ聞いてくるのに、対応してくれる女性はいつも丁寧に、これはどういうものか、どういう味かを親切に教えてくれる。
しかもその女性はとても美しい。
控えめだが芯のある美しさ。これぞ大和撫子だと、初めて見たときに当麻は思ったくらいだった。


店に着くと、雨だというのに店内にはちらほらと客が居る。
当麻はその事に、何となく安心した。

雷光は良い店だ。
店の雰囲気も、店員の対応も。
だが面倒臭がりの当麻は、それだけの条件ではわざわざ雨の日にまで出かけようとは思わない。
別に甘味ならば近所のスーパーでも、駅前にあるコンビニでも、そこそこのものは手に入る。

当麻が天候など関係なく、わざわざ雷光まで来る一番の理由はただ1つ。
この店の職人が、とても良いことだった。
それを他の客も同じように思っているからこそ、雨でもやってくる。それが嬉しかった。

和菓子の形は勿論、素晴しい。
煌びやかではないが色は優しく、形は美しい。
だがその味は他では決してないものだった。

甘い、旨い。これはどの甘味にもあるものだ。
だが決定的に違うのは、味にも優しさや誠実さ、美しさがあることだった。
食べるだけで癒される。優しい気持ちになれる。
そして寂しい気持ちが無くなる。
星しか慰めるものが無かった当麻に、新しい受け入れ先が出来たようなものだ。

だから当麻は雨でもその店に来た。
すると最早常連でもあるその姿を見つけた店員が、微笑みながら「いらっしゃいませ」と言ってくれた。


「今日はどちらになさいますか?」


いつもショーケースの前で真剣に考え込む姿を見慣れている彼女の問い掛けに、当麻も軽く笑う。


「えぇっと…いつもの”ひよこ”みたいなのは欲しいです」

「”きいろ”ですね」


いつまで経ってもちゃんとした名前を覚えない当麻に、店員は気を悪くするでもなく笑いながら商品名を告げる。
当麻も笑いながら、そう、と答えた。


「あとは………どうしようかなぁ…」


迷いながらケース内を見ると、見慣れない和菓子があった。
焼かれた生地が、優美な曲線を描いて折り曲げられている。


「…これ、何ですか?」

「ああ、それは出し始めたばかりの物ですよ」

「…………”むらさき”…」


商品名を声に出す。
雷光の和菓子の全てが色の名前がつくわけではないが、幾つかはそうなっている。
店主の趣味なのだろうかと当麻は思いながら、どこが紫なのか腰を曲げて商品をじっくりと見た。


「…あ。…アンコが紫だ」

「そうなんです。紫芋の餡なんです」

「だから、”むらさき”」


言うと、彼女が微笑ましそうに笑う。
当麻は姿勢を戻すと、その和菓子を指差した。


「この餡も、ここで作ったんですか?」

「勿論です」


答える女性の誇らしそうな顔に、当麻は小さく頷くと指差したまま「コレ下さい」と言った。


「はい、幾つにしましょうか」

「じゃあ10個で」


そう言うと、慣れたもので店員は「ありがとうございます」と和菓子をショーケースから言われた数だけ出し始める。


「紫芋かぁ……どんな味か楽しみだなぁ」


つい口に出た言葉に、店員がフフと笑った。


「甘くて美味しいですよ」

「そりゃそうでしょうね。だってここの和菓子はどれも凄く美味しいですから。特に餡の類は最高です」


何故か店側の人間でもないのに誇らしくなった当麻がそう言えば、店員はさっきまでの微笑ましいという表情から、
どこか感謝するような表情に変わった。


「そう言って頂けると、弟も喜びます」

「…おとうと…?」

「ええ、餡を作っている職人は弟なんです」


家族が主となっている店とは言え珍しく身内の話をし始めた彼女は、周囲に気遣って声を潜めた。
つい当麻も少し耳を寄せる。


「弟さん、職人さんなんですか」

「ええ。真面目にやっているんですが、いつも悩んでいて…」


彼女はすっかり店員の顔から、弟を気遣う姉の顔になっている。
兄弟のいない当麻にはそれが羨ましく思えた。
同時に、その弟のことも思う。
彼が思い悩みながらも真面目に作っているからこそ、この店の餡は優しい味なのだと。
心から作ってくれてくれているからこその味なのだと。


「真面目にやっているからこそ、悩むものなんでしょうね」


悩むことは何も悪いことではない。
一生懸命だからこそ彼は悩んでいる。

どう言えば良いのか当麻には解らなかったが、その姿勢に敬意を持ってそう口にした。
姉でもある店員は、また嬉しそうに笑っていた。





職人の事を少しでも知れてどこか浮かれていた当麻は、前日から楽しみにしていた事もあって、その水曜日の朝にかなり強烈な肩透かしを食らった気分だった。

水曜日は目安ボックスと名付けられたアンケート回収ボックスの開封日だ。
なのにその日の朝、田上は一向に当麻のところに来なかった。

さては焦らし作戦に出たか。
昼頃までの当麻はそう思っていた。
昼休憩が済めば、いつものようにニタニタと笑いながら絡んでくるだろう、と。

だが昼休憩を終えて席に戻っても来ない。
じゃあ午後一番の解説が終わってからかと思ったが、それでも来ない。

時計を見ると4時になろうとしている。

アンケートは今日の閉館後に張り出して明日からの掲示になるのが常だった。
アンケートには日時の記載が無いため例の美人がいつ来ているのかというのは解らないが、いつも回答があったものが無くなると、
傷付くのではないかと当麻はソワソワし始める。
それに、閉館直前に渡されたって目を通して返事を書くまで、それなりには時間が要ることだ。
昨日まで続いた雨のせいでろくに天体観測に行けていないのだから、久々に晴れた今日は何が何でも行きたい。
そのためには行く前までに食事を済ませたり風呂に入ったり、荷物の準備だって要るのだから、なるべくなら早く家に帰りたくもある。
だから、あまり焦らされても当麻だって困るのだ。

早く貰ったほうがいいと判断した当麻は、少々癪だなとは思いつつ、自分の机で仕事をしている田上の元へと近付いた。


「………田上さん、」

「うぉっ…!羽柴、お前、無言で近付くなよ!ビックリするだろうが」

「呼びかけましたよ、今」

「真横に来てからじゃないか、もっと早い段階で声掛けろ!」


やけに焦る上司の姿に、当麻は片眉を上げた。
珍しく早くなった口調に何か疚しいことがあるように見える。


「何も透明人間じゃないんです、気配くらいあったでしょう」

「ない!お前、足音もあんまりしないし」

「しますよ。…あ、スニーカーか」

「そうだよ!…ったく。ってーか羽柴、近い近い」


会話をしながらも当麻の視線は田上の机の上を走っていた。
特に怪しいものは無い。
幾つかのファックスと、何かの企画書くらいだ。

てっきり机の上にアンケートを置いていると思っていた当麻は、眉間に皺を作る。
どこかに隠し持っているのかも知れない。


「………俺が近いと困ることでもあるんですか?」

「ある」


疑って言えば、あっさりと認める返事が返ってくる。
それに少し拍子抜けしつつ、当麻は「どうしてですか?」と少し意地悪く聞いた。
すると田上は目を見開いてから溜息を吐く。


「…?」

「あのなぁ、羽柴。お前、身長幾つだよ」

「…178ですけど」

「そんな身長のヤツがさ、座ってる人間の真横に立ってみろ。見上げるのに首をどれだけ傾けなきゃいけないと思ってるんだ」

「…………でも俺、猫背ですよ普段」

「ちょっとしか意味が無い!ついでに言うとお前、今日は眼鏡じゃないだろ」

「ええ、コンタクトを入れる時間があったので」

「それだよ!」


それと言われても意味が解らず、当麻は首を捻る。
田上はもう一度溜息を吐いた。


「おうおう、自覚無しだ。天然ものの男前は自覚がないんだなー」

「…意味が解らないんですけど」

「だからさー、お前みたいな男前がね、そんな至近距離に来たら、幾ら男だってドキドキするよって事だよ」

「………………………それは関係なくないですか」


男前と言われる事は人生で何度かあったが、人とのコミュニケーションに未だに悩みがある当麻は言われるたびに、どう返すのが
正解なのかわからない。
今回も曖昧な表情で口を歪めながら、どうにか切り返すので精一杯だった。

そもそも眼鏡の有無だけで反応を変えられたって、こちらにはどうする術もない。
目が疲れているときはコンタクトよりも眼鏡を選ぶが、眼鏡だとレンズの外が見えにくいし眉間のあたりが疲れてくる。
基本的にはその日の気分や体調で選んでいるだけの事なので、そんな事で一々ドキドキされたって「知るか」と言いたいのが
当麻の本音だったりする。

兎に角、この話題はこれ以上広がらない。本人もあまり触れて欲しく無さそうだと判断した田上は、さっさと話題を切り替える事にした。


「で、羽柴。何か用か?」


自己解決能力に長けている天才は、滅多と上司に指示を仰ぐことが無い。
質問にしたって、本人だけで判断すべきではないと正しく結論を出したときに尋ねてくるだけだ。
その当麻が特に困るような事があったわけでもなさそうなのに自分の席まで来たことに、田上は疑問があった。

だが自分から席にやってきたはずの当麻は、そう聞き返された途端に、急にモジモジとし始める。


「………羽柴…?」

「いや、………あの、………その…」


明らかに様子のおかしい当麻に、田上は「ん?」と極力優しい声で聞く。
当麻は口を引き結んでから、さっきまでの毅然とした言葉よりずっと弱い声で、今日は、と切り出した。


「今日?どうした?」

「今日は、その…………水曜日、じゃないですか…」

「おお、水曜だ。明日はお前、休み取ってたよな?ちゃんとシフトに入ってるから安心して休んでて良いぞ」


全員のスケジュールを張り出したボードを差して田上が言うと、当麻は、ええ、とか、はい、と歯切れ悪く答える。
何が言いたいのか解らない田上は訝しみながら、どうした?とその顔を下から覗き込んだ。
目元が赤い。
それに一瞬だけ驚いて、それでも田上は詰問にならないよう気をつけながら、もう一度「ん?」と声をかけた。


「あの、だから………」

「…おう」

「その、…………水曜日なので…」


アンケート、無かったですか。
消え入りそうな声で言う姿に、それがどういったアンケートを指しているのかすぐに解った田上は上がりそうになる口端を必死に押さえながら、
なるべく単調な声で「ないよ」と言った。


「…え」

「今回は美人さん、アンケート入れてなかった」

「え、え」

「嘘じゃないぞ。他のは開示しただろ。お前だって朝のミーティングの時に一緒に見たじゃないか」

「そう、…ですけど、でも」

「個人宛っぽいやつは朝のうちにちゃんと配布してる。だから、」

「美人さんのは、……なかったんですか…」

「おー、無かった」


キッパリと告げられた言葉を受けて席に戻る当麻の背中は、明らかにショックを受けていた。
流石の田上でも、それをからかえない程だった。





アンケートが無かった。
それは充分なまでに当麻には衝撃的だった。

週に一度の楽しみが無かった。
ショックだった。
しかし、ならば星に慰めを求めようと帰宅して手早く準備を済ませ、夜を待って自転車に跨ると一目散にいつも天体観測に使っている公園に向かう。
カバンにはいつものように小銭入れと身分を証明するもの、それから雷光で買って、この日のために取っておいた”むらさき”を入れて。

しかし公園についてすぐに自分のミスに気付いた当麻は、ここでも少し落ち込む破目になった。

雨は昨日まで続いていた。
公園はコンクリートの箇所もあるが、そこは街灯があり、星を見るのに邪魔になる。
しかもベンチがあるため、デート中のカップルもいる。そんな場所で星を見るために寝転がるのは、幾ら当麻だって嫌だ。
だからいつも星を見るのは明るい場所から離れていて、しかも植え込みで目隠しになっている芝生の上なのだが。


「…レジャーシート、…忘れた…」


雨が続いたせいで湿った地面は、夜になっても湿ったままだった。
このままでは寝転がるどころか、座ることも出来ない。


「しょうがない……今日は諦めるか…」


空には星があるが、流石に一晩中立ちっぱなしは辛い。

せめて、と思った当麻は持ってきていた”むらさき”を1つ、カバンから取り出す。
ペットボトルのお茶を一口含んでから、丁寧に作られた和菓子を一口齧った。


「……………?」


あれ?と思ってもう一口齧る。


「………?……あれ?…」


甘くて美味しい。
姉だという店員はそう言っていた。
確かに甘いし美味しい。
だが、違う。


「………何で…?」


どれもこれも甘くて美味しい雷光の和菓子は、食べるだけで幸せになれた。
それなのに、この”むらさき”は。


「……何か、……嫌だ…」


食べると美味しいのに、落ち着かない。
まるで職人の迷いがそのまま形になってしまったかのような味がする。
こちらまで不安にさせられてしまうほどに。

そんな馬鹿なと確かめるために何口か齧った当麻だったが終いには耐え切れなくなってしまい、食べ差しの”むらさき”をもう一度包みに戻すと
カバンに入れなおして、田上の席から戻る時と同じように足を引き摺って公園を後にした。




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楽しみにしていた”楽しみ”が、全部叶わなかった日。