満天の星空で会いましょう
その日の朝、当麻はいつもよりも30分早く起きた。
基本的に当麻は夜型人間だ。
子供の頃から朝はなかなか起きず、起こしにきた親を梃子摺らせる程だったが、それに拍車がかかったのは星に夢中になってからだ。
少しでも長く星を眺めるために夜は睡魔に抗えなくなるまで起きる。
寒いのが嫌いなくせに、流星群を見るためならば頭から毛布を被ってまで夜通し起きる。
その繰り返しが益々当麻を夜型人間にしていった。
学生時代は休み時間に眠ったり、時には授業中に眠ることもあった。
結果として多少教師に嫌われたりもしたが本格的にそれで困るような事にはならなかった。
人並み外れた天才はその程度では何ら困るような事などなかったのだ。
だが社会に出ればそうは言っていられない。
現代社会に於いて生活をしていこうと思うと、大抵の場合はまず生活費を稼がねばならない。
そして大半の仕事は陽のある内が就業時間だ。
今の仕事もそうだ。
児童館に併設されているプラネタリウムは、勿論子供たちをメインターゲットにしているために日中に開かれている。
一般的な企業に勤めているサラリーマンに比べれば出勤時間は遅めになるのが当麻にとっては救いではあるが、どちらにしたって眠いものは眠いし、
出来ることならば1分でも長く寝ていたい。
(実際に寝るとすれば1分なんて足らず、本音で言うと1時間は寝ていたい)
その当麻が、目覚まし時計を念入りにかけてまで30分も早く起きた。
他の人間ならば起きるのが苦にならない時間帯で、しかも早朝ではない時間の30分ならばすんなり起きれるのだが、兎に角当麻には辛い。
それでも当麻は頑張って30分早く起きた。
そして手早く身支度を済ませると朝食もそこそこに自転車に跨り、己の職場へと向かった。
これだけ早く出ればまだ人も疎らな筈だ、と。
昨日は沢山だったからもう充分だろう、と。
”人”も疎らというのは、ブループラネットの職員のことで、昨日の”沢山”というのは来場者数。
そしてもう”充分”というのは、短冊の数のことだった。
先週、くまのぬいぐるみを抱えて帰ってきた当麻の机にあったのは短冊と、何か願い事を書けというメモだった。
これには当麻もまいった。
願い事、といわれてパッと思い浮かぶものが何一つない。
そもそも願ってなんになるというのが当麻の意見だ。
七夕はクリスマスではない。サンタに欲しいものをリクエストするのとはワケが違う。
大体、ロマンがどうのという連中の考えでいけば織姫と彦星は年に1度の逢瀬なのだ。
夜の間のその僅かな時間、漸く会えた愛しい人との再会に、何が楽しくて見知らぬ連中の願い事に目を通さねばならないのか。
そんな彼らに自分たちの願い事を聞いてくれという意見を、ロマンがどうのという口で同じように言うのはどうなんだ。と、当麻は口を尖らせる。
実際にはこれらは口にしなかった。
ロマンがどうのと言っただけでぬいぐるみを買いに行かされたのだ。(選んだのは自分だけど)
ここでまた矛盾を突くような事を言って彼女達の言うロマンを否定したら、今度はどんな目に遭わされるか解ったものではない。
また上司の田上が純粋に彼女達の味方をしたというワケではないから余計に性質が悪い。
彼は単に当麻をからかって遊んだだけだ。
それが解るからこそ当麻は黙って、無理矢理に願い事をひねり出す事に専念した。
”平穏に暮らせますように”
これは本人的には充分考え抜いて出した願い事だった。
特別贅沢がしたいわけではない。
死ぬまで困らない程度に金を持ち、誰にも迷惑をかけないで死んでいける程度には健康で、そして少しずつ変わっていく星空を眺め続けたい。
当麻の願いはささやかで静かなものしかなかった。
ついでに言うと、他人の感性とのズレを多少は認めるので過剰にそれをからかわれない環境、という意味でも平穏には暮らしていたい。
だからそれらを込めて、素直に、そして短冊に収まるように書き綴った。
のだが、それを「書けました」と田上に渡した途端、結局大笑いされてしまった。
お前ナンダコレ!と涙まで流されながら。
その上、通りかかった柳生にまで見られ、だが優しい彼女は少し前に論議したロマンについては既に水に流していた為それで当麻を詰る事はなく、
しかしそれでもやはり滑稽に映ったのだろう、必死に笑いを堪え頬を引き攣らせながらも、
「羽柴君は静かに生きていたいのね」
とだけ言い残して、その後は突然走り出して女子トイレに篭った。
因みに直後にトイレから漏れる彼女の控えめな笑い声を当麻はバッチリと聞いた。
昨日の来場者数は沢山いた。
そして帰る前にさり気なくチェックすると、笹にはそれなりの数の短冊がかかっていた。
だから当麻は、もういいだろう、と判断した。
もう、自分の書いた短冊を回収してもいいだろう、と。
短冊自体は目に付いても中身まで読まれることがないようにと、自らの長身を生かして高い位置に、それも壁に向けて括り付けておいた。
見ようと思うのならば意図的にひっくり返す必要があるのだが、如何せん高い位置だ。高身長の人間でなければ無理なようにしておいた。
ブループラネットの職員専用の駐輪場にはまだバイクも自転車もない。
といっても通勤者の大半は駅から徒歩でくるのだが、それでもいつも駐輪場最後の職員が当麻であり、その当麻が今日来てみて
まだ誰もいないのならば、やはり充分に人気がないという事だ。
当麻はその光景に満足して、自転車に鍵をかけた。
裏口にパスケースを翳すだけでロックが解除された。
セキュリティのために掻けているキーの解除が必要とされなかったので誰かは居るようだが、それだって早く来るほどだ、何か自分の仕事があって
その為に早く来ていたのだろうと当麻は解釈する。
だったらスタッフルームに寄らずに、最初に短冊だな。
外しているところを見られるのも憚られるため、そう決めた当麻は足音を立てないようにしてドアの前を通過した。
笹が見えてくる。
昨日見た時の同じように、初日とは比にならないほどに短冊がかかっている。
このペースで行けば最終日には立派な七夕の光景が出来上がるだろう。
当麻はそっと笹に近付く。
その時に一緒に設置されている目安ボックスが視界に入った。
「……………………そう言えば今日、回収日か」
”美人”からのアンケートを密かに楽しみにし始めている当麻は、それだけで今日が良い日に思えてきた。
笑われた短冊もやっと回収できる。
そうだ、良い日だ。
そう思って笹に手を伸ばそうとした時だった。
「あら?羽柴君、珍しく今日は早いのね」
柳生の声だ。
昨日は休みを取っていた彼女の声に不審な気配はない。
純粋に、いつもはもっと遅い時間に来ている天才を不思議に思っているだけのようだ。
「……え、……えぇ、まぁ」
それに対して、当麻は明らかに狼狽えてしまった。
カバンの中にさほど荷物が入っているわけでもないのに少しでも身軽になりたいのかして、館内に入るとすぐにカバンを自分の席に置きたがるはずの自分が、
貴重品の入ったボディバッグを持ったままという状況も含めて、明らかに怪しいと解っていた。
どう言い訳しようかと内心焦っているうちに柳生は近付いて来る。
「あ、……の、…ですね」
何をどう言って彼女に引き上げてもらおうか。
そう考えていると、くすりと目の前で笑われる。
「………何ですか…?」
「ううん、羽柴君、あんな風に言ってたのに結構素敵な事を言うんだなと思って」
「……………。素敵?」
彼女の言う内容に思い当たることのない当麻は首を傾げた。
柳生はまだくすくすと笑っている。
そして、一昨日のことよ、と言った。
「一昨日。………俺、何か言いましたっけ?」
思い出せず素直に言うと、柳生は笑みを更に深めた。
「ほら、言ってたじゃない。一昨日の上映の最後に」
「最後?」
「七夕の日の雨は、織姫と彦星の嬉し涙だって。あなた、言ってたじゃない」
七夕伝説を何がロマンかと言った人間とは思えないほどに素敵な事を言うものだと、柳生は感心したのだという。
確かに当麻はそう言った。
それも、一昨日の上映で突然に。
上映内容が七夕に絡めたものに変わったのは少し前からで、それまでは彼もいつもと同じ文句で上映の最後を締めくくっていたというのに、
あの回だけ突然そう言った。
「しかもあのタイミングで言ったのはあの時だけでしょ?急にどうしたのかしらって思ったのよ」
「どうもしません」
短冊の事を咎められるでもないに安心した当麻は、微笑ましいもので見るような目を向けられて気恥ずかしくなった事も相俟って、
いつも以上にぶっきらぼうに答えた。
それに一瞬だけ柳生の眉が顰められたが、彼の気に障ったのではないと解るとまた笑みを浮かべる。
「そうなの?」
「そうです。単に解説の途中で思い出しただけです」
「嬉し涙を?」
「ええ。祖母が教えてくれたんですよ、昔。それで、ああそうだった、と思って」
「で、急遽最後に入れたってこと?」
「はい。ほら、その後からは解説の途中で言うように変更したでしょう?」
上映最後の言葉は、音響や映像、そして客の誘導をするために控えているスタッフとのタイミング合わせでもある。
全員手馴れているから大きな問題にはならなかったが、それを突然変えるのはやはり良くない。
だから当麻はあの後すぐにスタッフたちに謝り、そして解説の途中に嬉し涙だという説を混ぜるようにした。
「お婆様は素敵なことを教えてくれたのね」
素直にそう言った柳生だったが、それでもその場を去ろうとはしない。
話は終わった筈なのに、と当麻はまた焦り始める。
「ところで」
柳生はそんな当麻の顔を覗き込むような姿勢をとった。
「………羽柴君、もしかして」
間近に迫ってきた柳生は眉を顰めている。
自分が居るのは笹の傍で、そして短冊を笹につける事に最後まで渋っていたのを彼女は知っている。
再び言い逃れようがない状況だ。
当麻はゴクリと唾を飲み込んだ。
「………あなた……昨日、寝てないんじゃないの?」
「………………………………え」
だが柳生はまるで弟の悪戯を窘めるように、そう言った。
「いくら星が好きだからって夜更かししちゃ駄目よ?」
「え、……あ、……………………はい…」
バレていない。
ほっと安心した当麻だが、柳生はアラ?と首を傾げる。
「そう言えばどうしてここに居るの?」
「………っ!」
「カバンも下ろしてないし」
「………………………………………………」
「……羽柴君、あなた………まさか…」
柳生は形のいい眉が顰めると、さっきよりも当麻に心持ち近付き、顔を寄せてくる。
身長差があるため顔同士が寄る事はないが、自然と当麻は避けるように仰け反った。
嬉し涙のことで完全に気を抜いていた当麻に、用意できた言い訳なんてない。
「…そんなに”美人”からのアンケートが待ち遠しいの?」
「……はい?」
一瞬、何を言われたか解らない当麻は仰け反ったままの姿勢で眉間に皺を寄せた。
その鼻先に柳生はずいっと指先を伸ばす。
「気持ちは解るけど、駄目よ?幾ら夜更かししてテンションが上がっているっていっても。ほら、もう少ししたら田上さんが回収してくれるから、
それまで席で少し仮眠を取るなり何なりしてらっしゃい」
ね?と微笑んだ柳生は、「私も昨日休んだ分の仕事があるから」とそのままスタッフルームへと先に向かっていった。
見送った後、当麻は一旦脱力する。
随分と嫌な汗をかいた気がして額を拭ったが、それは意味のない行為にしかならなかった。
そして今朝、自分が早起きをした理由を思い出し、これ以上誰かに見つかる前にと大急ぎで笹に向き直る。
自分の短冊は高い場所にあるため、すぐに見つかった。
だが。
「………ん?」
自分の短冊のすぐ隣に、緑の短冊がある。
上のほうはそう手が届く人間がいないために短冊を吊るす場所は沢山あるはずなのに、ぴったりと寄り添うように。
それも自分と同じように願いを書いた面を壁に向けているから、余計に滑稽だ。
「何だこれ」
変なのがあるな、と当麻は遠慮無しにその短冊に手を伸ばした。
「……………………………」
文面を見て、そして固まる。
そこにあるのはここ最近、見慣れた文字。
”良い職人になれますように”
丁寧で誠実なその文字は、明らかに例の”美人”の文字だった。
「…………………………………………へぇ…」
何を思って自分の短冊と並べて下げたのかは解らないが、その願い事の内容を考えると恐らくあまり人目につきたくないのかも知れないと推測して、
当麻はその短冊を元と同じようにそっと壁に向ける。
そして自分の短冊を引き抜くことなく、その場を離れる事にした。
*****
そして自分の席に着くなり、爆酔。