満天の星空で会いましょう
いつもと同じように受付でチケットを買い、征士はドーム内へと足を運んだ。
既に何人かの先客が席についている。
半分ほどはカップルのようだ。
征士は、平日なのに結構いるものだなと驚いてから、後ろの方にある席を目指した。
腰を下ろすと座席は殆ど横になり、自然と視界が天井に向かう。
今はまだ明るい天井が青い闇になるを待つ征士は目を閉じて、妙な緊張を連れて来ようとする中学時代の思い出を寄せ付けまいと深呼吸をした。
『ブループラネットへようこそ』
上映が始まると、いつもの声が聞こえてきた。
最初の女性のアナウンスにもあった注意事項を砕けた口調で繰り返した後、身近な話を適当に入れてくる。
外は蒸し暑いからドーム内に寝泊りしたいくらいだと言ったところで、年配者たちからの笑い声が上がった。
頻繁に通っている征士には聞きなれた笑い声だ。どうやら彼らもここの常連らしい。
羽柴の解説は、相変わらず聞いていて心地よかった。
東の空から南へ伸びる、ぼんやりと明るい帯が天の川だと彼は言った。
正直、見つけにくいですけどね、と笑いながら。
『雲じゃないですよ。うっすらと白いもの。町の明かりがあるとなかなか見つからないです。そうだなぁ……山や川へ行ったら見やすいですね』
そこから教科書でも学んだ覚えのある夏の大三角の話へと流れ、そして今回の上映内容の本題でもある、こと座とわし座を構成する
星の話へと移ると征士の眉間に僅かに皺が刻まれる。
先日から始まっている内容を知った上でプラネタリウムに来たのは自分だと解っていても、やはり過去の苦い思い出はそれだけで抑えきれるものではない。
幼い頃の小さな失恋だ。
青かったと笑い話にでもすればいい事だが、あの時に言われた「心がない」という言葉は大人になった今でも同じように言われ続けている。
それが征士の鼓動を僅かに早めた。
いつの間にか硬く握り締めていた拳を無理に開いて意識的にゆっくりと息を吐き出し、征士はリラックスを計る。
スピーカーからはいつもと同じ羽柴の声が続いていた。
織姫と彦星。
ベガとアルタイルはアラビア語で、それぞれ”落ちる鷲”と”飛ぶ鷲”を意味すると言う。
こと座の形、見つけ方。
わし座の形、見つけ方。
そして落ちる鷲としての見方と、飛ぶ鷲の見方。
色々な事を羽柴は語った。
そして恐らくここに来ている客の何人かが楽しみにしていた七夕伝説へと話は入っていく。
征士はもう一度、ゆっくりと息を吐き出した。
物語は織姫という若く美しい、働き者の娘に、真面目に働く青年、牽牛を紹介したところから始まる。
2人は互いに惹かれあったのだが、己の仕事を放り出してまで会うようになってしまった。
ついには織姫の父の怒りに触れ、2人をそれぞれ天の川の西と東に引き離して仕事に従事するように言いつけられる。
引き裂かれた恋人たちが会えるのは、1年に1度の決められた日だけ。
それでもその日に雨が降ってしまうと天の川はたちまち増水してしまい、織姫と彦星はその年は会えなくなってしまう。
羽柴はその話を映像に合わせ、普段星を語るよりも幾分か優しい声で語っていた。
だが、征士にはそこだけ随分と事務的に聞こえた。
彼が星を語る時はいつだって心が篭っていた筈なのに、と征士は首を捻る。
そしてすぐに、もしかして、とある可能性に気付くと今度は頬が緩む。
羽柴の解説は既に、まるで息抜きのように七夕に絡んだマメ知識へと進んでいるが征士の耳には入ってこない。
只管に口元を押さえ、笑いを堪えるのに必死になっていた。
七夕伝説をロマンチックだと捉えられない人間は自分だけではなかった。
そりゃ全員が全員、自分とは違う側だとは思っていなかったが、よりによってその同族が羽柴だ。
てっきり心がないからロマンチックだと思えないのだと心の隅でいじけていた征士からすれば、星が好きでたまらないであろう羽柴も同じだったことが
嬉しいやらおかしいやら、兎に角笑いたくて仕方がない。
だがまだプラネタリウムは上映中で、他の客はその解説を聞いている。
笑って邪魔するわけにもいかない。笑いを堪えて震えて、連結されている座席を揺らすのも申し訳ない。
椅子に納めた長身の体を必死に抑えながら、征士は自分の笑いも鎮めようと必死になっていた。
プラネタリウムの上映時間が終わり、ドームの東側がうっすらと明るくなり始める。
この時の決まり文句はどの職員も同じで「そろそろ太陽が昇ってきましたよ」と口にする。
だがこの日の羽柴は違った。
そうだ、と何かを思い出したように口を開くと、
「七夕の日に降る雨は織姫と彦星が嬉し泣きをしているからだ、と僕は子供の頃に聞いた事があります」
2人は空の上に居るから、地上で雨が降っても出会えるのかも知れませんね。と軽やかに言い、その言葉が終わるとちょうどドーム全体が明るくなった。
殆どの客が出て行っても、征士は席を立つことが出来なかった。
笑いはもう収まっている。それでも立てなかった。
雨が降っても彼らは会える。
征士はそんな話は初耳だったが、なるほど確かに考えてみれば本来星は地球から離れた位置にあり、雨を降らす雲の方がずっと地上に近い。
もし当日に雨が降ったところで天の川が増水するわけなどないのだ。
それならば案外、彼らが無事に出会えたことが嬉しくて泣いているものが雨として降り注いでいると考える方が、ずっと微笑ましい。
1年間ずっと会うことを我慢していたのだ。涙を流す年もあるのだろうと征士は誰に向けるでもなく頷き、漸く立ち上がった。
「………くま…」
プラネタリウム開始前と違い、すっかり足取りが軽くなった征士はいつものようにアンケート用紙のある場所へと向かったのだが、そこにはなんと
先日見かけた大きな熊の人形が2体、仲良く並んで鎮座していた。
鎮座だなんて大袈裟なと思われるかもしれないが、可愛らしく椅子に腰掛けている2体は織姫と彦星を意識したのだろう、本格的なものではないが
衣装を身に付けているのだ、それが成人男性ほどの大きさで存在しているのだから、最早この迫力は”鎮座”というに相応しいと征士は心で言い訳をした。
何にしたって、熊だ。
間違いなくこれは、あの日に見た熊だ。
思わず征士は首を巡らして周囲を見渡す。
人形の設置は今日ではないだろうし、運んだ職員が近くに居るわけではないと解っていても、ついその人物を探してしまった。
あんな奇特な人間が、こんなにも近くに居ただなんて…
驚きを隠さない征士は、ちょうど出口のドアを閉めにきた女性スタッフと目が合った。
彼女は優しく微笑みながら会釈してくる。
つられて征士も頭を下げた。
「大きくて可愛いくまでしょう?」
微笑んだままの声は、ドーム内に入ったとき最初に注意事項を告げてくる女性のものだった。
征士は思わず「あ」と短く声を発したが、彼女は征士が何か意味のある言葉を続けようとしたのではないと気付いて、そのまま手で机を示し、
「もし良かったら大人の方も、短冊にお願い事を書いていってくださいね」
と、熊の隣で佇んでいる笹の存在を告げてドアを閉めた。
熊にも驚いたが、笹だ。
しかも願い事を書けと彼女は言った。
見ればまだ笹にかかった短冊は少ない。賑やかしの為にも彼女はああ言ってくれたのだが、真面目な征士は、それはそれは真面目に悩んだ。
願い事、と一言に言われても征士は困る。
子供の頃の事を思い出してみても、自分も友達も短冊に書いた願いは「背が伸びますように」や「サッカーが上手くなりますように」などといった
非常に微笑ましいものだ。
だが大人になった今、一体何を書けばいいのか解らない。
他人の願いを勝手に見るのはよくないと解ってはいても、つい、視線だけで盗み見た。
あったのは、やはり「野球選手になれますように」や「ダンスの大会で優勝できますように」という、幼い字で書かれた微笑ましい願いばかりだった。
「………大人も書いていいとは言われたが…」
下げた目線の先のどこにも大人の願いはかかっていない。
困ったな。と征士は軽く頭を掻く。
「…?………あれは?」
笹の上のほう、殆ど短冊のかかってない高さに1つの短冊がある。
それもひっそりと人目を避けるかのように。
周囲に人が居ないことを確認した征士は、悪いと思いつつも手を伸ばしてその短冊の文字が見えるように捻った。
「…………………………………………深い…のか?」
願いの主が神経質なのか、縦に長い文字は窮屈そうに青い短冊に並んでいる。
だがその言葉は短い。そのせいでスペースが無駄に余りまくっている。
その妙な短冊に書かれた文字を、征士は目で追った。
”平穏に暮らせますように”
ただそれだけが書かれている。
どう見たって子供の字ではないし、願いの内容も微笑ましいと取れば微笑ましいが何だか暗いものを背負っているようにも見えて、色々な意味で”深い”。
よくは解らないがあまり考えすぎても仕方が無いかと開き直った征士は、緑色の短冊に自らの願い事を書き綴った。
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縦に長い文字は、しかも角ばっています。