満天の星空で会いましょう
気分転換を命じた祖父の言葉に従い、征士は白い作業着を脱ぐと少し外を出歩く事にした。
爽やかな青空は、征士の足取りとは対照的だ。
いつもならすっと伸びている背筋も若干、草臥れたように見える。
家を出てすぐの信号が目の前で赤になり、征士は思わず溜息を吐いてしまった。
お前の作るものには、心がない。
3年間言われ続けた言葉は今日もやはり同じように言われ、決して悪意からではないからこそ余計に征士の心を重くした。
誰もが見惚れてしまうほどに整った表情は暗く、視線を自らの足元に落として征士は祖父の言葉を反芻する。
心がない。
祖父が始めた和菓子屋は征士で3代目となる予定だ。
老舗というには少し歴史が浅いものの、店は既に名店として名が知れ渡っている。
征士はその伊達家の長男として生まれた。勿論、祖父が是非跡継ぎにと考えてくれている事は本人も知っている。
その期待は決して征士を困らせる事はなかった。
祖父の作る和菓子はどれも繊細で優しい姿をしていた。味もそれに相応しいものだった。
それらを作り出す祖父の手を征士は尊敬していたし、憧れてもいた。
婿養子ではあるが同じ職人の父のことも、勿論。
だから自分がその跡を継ぐという事は寧ろ誇りにさえ思っているのだ。
征士が和菓子職人として修行を始めたのは大学卒業後からだった。
学業と修行の両立を祖父も、そして父も認めなかった。
職人として修行するにしても学生としての生活を満喫するにも、全力でやれというのが彼らの考えだ。
そしてどうせならばある程度学問も修めておいた方がいいという考えも、彼らは共通で持っていた。
だから征士は、同じように子供の頃から職人を目指す同世代より遅くこの世界に入る事になった。
その征士に言われたのは、心がない、という言葉だった。
いつまでも落ち込んでいても仕方がない。
言われた言葉は胸に刻んで、しかし頭を切り替えていかねばならないからこそ、祖父は孫に気分転換を命じたのは征士も解っている。
だから気分を切り替えたいのだが、それでも上手く行かないのには他にも理由があった。
3ヶ月前、付き合っていた恋人から一方的に別れを切り出された。
人並み以上に整った容姿の征士にとって、彼女は何も初めての恋人ではない。
これまでだって何人かと付き合ってきた。そして別れてきた。
初めてでない経験。しかしそれでも落ち込む原因となっている理由。
あなたが解らない。
征士君にちゃんと愛されてるか自信がない。
征士は本当は私の事、そんなに好きじゃないでしょ?
恋人たちの言葉はそれぞれだったが、話を聞いていけば結局行き着くのはいつだって同じ事で、つまりそれは。
『心が、ない』
そう、いう事だった。
征士としては彼女達の事はちゃんと愛してきたつもりだし、大事にしてきたつもりだ。
誕生日にはちゃんとデートもしたし、彼女が好きな物を調べてプレゼントも贈った。
人込みは本当は得意ではないけれどクリスマスには大きなツリーが飾られた、ムードタップリの場所にだって出向いた。
バレンタインには実は苦手だという事は黙ってチョコレートをちゃんと受け取って目の前で食べたし、ホワイトデーにはささやかでもアクセサリーで返した。
泣けば慰め、悩めば相談に乗り、出来る限りちゃんと向き合ってきた。つもりだった。
なのに、いつも別れを切り出される時は同じ事を言われ続けた。
和菓子に対してもそうだ。
確かに征士は甘いものが得意ではない。
だが和菓子という存在を愛でていたし、味を知る為に毎日口にするようにしている。
修行中の身である征士が和菓子を作る時は閉店後の、祖父の指導の下だけだったがそれでも店に並ぶものの下拵えはいつも征士がしている。
その1つ1つの作業に思いを込めて接している。つもりだ。
なのに、祖父も、そして過去の恋人たちもみんな言うのだ。
心がない。と。
「………一体何をどうすれば、心を表現できるんだ…」
苦い気持ちを小さく呟く。
気分転換をと言われた以上、気持ちを切り替えて店に戻らなければならない。
だがただ歩いていても頭の中は言われた言葉でいっぱいになり、視線は気持ちそのままに下に向けられたままだ。
このままでは、いかんな。
解ってはいるが自分ひとりではどうしようもない。
思い切って顔をあげると、真っ青な空があった。
「……そうだ」
悔しくなる位に爽やかな空を見上げた征士は、思い立って歩き始めた。
この町には昔から児童館がある。
図書館がメインだったその場所は、幼い頃の征士もよく母に連れられて通った場所だ。
確か最後に行ったのは小学生の頃だったと征士は思い返しながら、懐かしい道を辿る。
子供の頃の記憶にはあった電話ボックスはもうなかった。
小学校の近くにあった文房具屋は駄菓子も売っていたが、建物は残っているがもう営業はしていないらしい。
道沿いにあった住宅も建て替えられたのだろう、征士の記憶にある姿とは変わったものが多かった。
それに空き地は既に新しい住宅が建っている。
知らない間に色々なことが変わっていた。それに驚くと、ほんの少しだけ頭を悩ませていた言葉が薄れる。
征士はそれに手ごたえを感じて、真っ直ぐに児童館を目指した。
児童館が数年前にリニューアルしたというのは姉から聞いていた。
元からあった図書館は敷地を広げ、確か多目的に使えるスペースも増設された筈だ。
他にも何かあったはずだが、その話を聞いた時の征士は自分には関係がないことと決め付けてあまり話を聞いていなかった。
行くなら図書館か。
そう思いながら歩いていくと、目当てのものらしき建物が見えてくる。
「………………」
町並みもそうだったが、児童館も記憶にあるものとは随分と姿が変わっていた。
昔はレンガ造りで蔦が絡まっていた建物は、真っ青で近代的なフォルムをとっていて思わず足を止めてしまった。
1階に入り口はなく、一瞬、どこから入っていいのか征士は戸惑ってしまったが、よく見ればスロープが地下に向かって続いており、
今は日陰になっている場所に自動ドアが見える。
そこへ行けばいいのかと征士はまた歩き始めた。
ほんの少し歩いただけで辿り着いた自動ドアに映った自分の顔がどこかやつれて見えたのが悲しい。
その思いを振り切って中に入る。
「ようこそ、ブループラネットへ」
入るなりかけられた声に、征士はまた驚く。
目の前の円形のカウンターには制服姿の女性が2人いた。
どちらもマニュアルがあるのか、同じようににっこりと笑って征士を見ている。
どう返すのが正解かわからない征士は何となく軽く会釈をして、彼女達の横へ足を向けた。
「あ、お客様…!先にチケットの購入をお願いします…!」
「………チケット?」
慌てて呼び止められ、復唱する。
チケット。何の、と振り返ると飛び込んできたのは、プラネタリウム、の文字。
「プラネタリウム……?」
「はい、こちら”ブループラネット”は有料のプラネタリウムとなっております」
「プラネタリウム…」
そういえば姉が新しく出来たとか言ってたな…
姉の弥生の言葉を思い出した征士は、ポケットに入れていた財布を無意識に取り出していた。
プラネタリウムは中学生の時に1度だけ、見た。
初めての彼女と、隣町にあるものだった。
見たいと言い出したのは彼女の方だったのに、空調が効き過ぎて寒いと彼女は最初から最後まで不機嫌だったのを思い出して、
征士は「いかん」と頭を振る。
この彼女の最後の言葉も「心がない」という事だった。それを思い出すような事は考えない方がいい。
気分転換にと来たのは偶然とはいえプラネタリウムだ。
だがどうせなら楽しみたい。
係りの案内について入った部屋は記憶の中のものとは違い、空調は適温だった。
適当な席に座ると、映画館よりもずっと深いリクライニング設定によって、視線は体ごと自然に天を向く。
ゆったりとした椅子は平均以上の身長を持つ征士でも窮屈に思う事はなかった。
プラネタリウムは征士の他にも疎らに客がいる。
どれも親であったり友人であったり、恐らく恋人同士だろうものばかりで、征士のように1人で来ているものはいないらしい。
何となく居心地の悪さを覚えて、意味もなく征士は身を小さくした。
そのタイミングで部屋が徐々に暗くなりだす。
始まるようだ。
ドーム状に張られたただのスクリーンだった場所に最初に映ったのは星。ではなく、非常口と書かれた文字と、矢印だった。
「本日はブループラネットにお越し頂き、ありがとうございます。皆様に先ず、非常口のご案内を申し上げます」
淀みない女性の声ですらすらと伝えられる非常口は全部で4つ。
その場所を征士も目で確かめる。一番近いのは右側上段の物だった。
案内が終わると、今度はプラネタリウムでのマナーについてのアナウンスが始まる。
携帯電話の光は他の客の邪魔になるから電源を切って欲しいこと。
飲食禁止であること。
勿論、喫煙は不可。
前の座席は蹴らないこと、と言われるとまるで映画館に来たような気持ちになるなと征士はぼんやりと考えた。
一通りの注意が終わると、いよいよ星が瞬き始めた。
1つ2つと見えてくる。
まるで自分が空に浮かんでいるような錯覚を感じる頃には、立派な星空が頭上いっぱいに出来上がっていた。
「みなさん、こんにちは。改めまして、ブループラネットへようこそ」
最初のアナウンスの女性の声ではなく、聞こえてきたのは男性の声だ。
低くもなく高くもない声は、深い青が滲んだ夜空によく似合っているように思えて、征士は思わず目を閉じて声に集中した。
「星の話を始める前に、さっきとは別で少しだけ」
少し笑みを含んだ声。
親しみやすい距離を作ってくれるその声に、征士は求められてもいないのに頷きを返す。
「星が幾つもあるのは、見えますよね?すごく綺麗です。僕はこの星空が大好きです」
子供に伝えるような言葉。優しい声。
彼の好きだという星空を観るために、どこか惜しいと思いながらも征士は閉じていた目を開いた。
さっき見たはずなのに、その星の多さに静かに感動してしまう。
「こうして見てるととても気持ちよくなりませんか?椅子もね、そうそう、ここの椅子は実はすごく良いのを使ってるんです。
ただでさえ星空が綺麗で気持ちいいのに、椅子まで気持ちいいでしょ?」
そこまで言うと、声の主が笑った。
さっきまでの笑みを含んだものではなく、もっと、どこか大人に隠れて悪戯を画策する子供のような笑い方だ。
ついつられて征士の口端にも笑みが浮かぶ。
どんな悪戯を彼は提案してくるのだろうか。
顔も知らない相手だが、征士はすっかり彼の距離に心地よさを覚え始めていた。
「それで、ですね。………人間、誰だって気持ちいいと眠くなるもんだと思います。…少なくとも、僕はそうです」
どこか照れたような声に、また征士は頷く。
自分でも身に覚えがある意見だ。
「だからもし、今日ここで眠くなって寝てしまっても構いませんよ。ここは勉強っていうより星に親しんでもらうための場所ですからね。
リラックスして気持ちよくなって、星を見て。皆さんの好きな方法で星に接してあげてください。
大丈夫、終わったらちゃーんと係りのお姉さんが起こしてまわってくれますよ。あ、お姉さん、僕の場合は途中で寝てたら起こしてくださいねー」
ふざけたように言うと、非常口の近くで待機していた係りの女性が噴出すのが聞こえた。
それを合図にしたようにドーム内でも小さな笑い声が起こり始める。
共に笑いあう相手がいないなりに征士も声を殺して笑った。
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プログラムは45分間。大人600円の施設。