浦沢町1849-5
土曜日は学校が休みだ。
いつもより遅く起きた息子を、母親は特に咎めずに迎えてくれた。
昨夜、当麻たちが去ってからすぐに駆けつけた警官たちによって、天狗モドキは逮捕された。
ぐったりとした彼がパトカーに乗せられ、そして別で来ていたもう1台のパトカーに遼も乗せられ、警察署へと向かった。
そこで温かいお茶を貰い、綺麗な女性の警官に傷の手当てをしてもらっていると自分の両親と、そして担任の麻生がやってきた。
誰かが何かを言うよりも先に、麻生に泣きながら頬を張られた。
どうして何も言ってくれなかったのか、と。
そして今度は遼の親に向き直って、彼は深々と頭を下げた。
自分が頼りないばかりに生徒を危険な目にあわせたと詫びながら。
人がいる前で母親に抱き締められるのは久々だったが、その母の手が震えていた事に遼も胸が締め付けられる。
人前で泣くところを見た事がない父の目にも涙が浮かんでいて、尚更だ。
何かあったらどうするつもりだという当麻の言葉は天狗に襲われた時も身に染みたが、それ以上に今の方がしみてくる。
自分が無茶をしたせいで、自分を愛してくれている人たちがした心配は想像もつかないほどだ。
謝らねばと思うのだが、遼も急に涙が止まらなくなって上手く言葉に出来ず、途切れ途切れの言葉で「ごめんなさい」と言うことしか出来なかった。
犯人は、寺本だった。
逮捕されてすぐに意識を取り戻した寺本は、抵抗を諦めたのかしてすぐに自供を始めたという。
数年前から学校の金を横領していたこと。そしてその横領を出入りしている業者の女性に知られ、強請られていたこと。
それに耐え切れなくなり、一番実行しやすい日を狙って、万が一見つかっても誤魔化せるかもしれない方法を使って彼女を殺害したこと。
カラスの羽は、休暇を言い渡された日にゴミ捨て場でカラスを数羽、根気よく捕まえたと言っていた。
夜中の電話は、自宅近くの薬局前の公衆電話からだそうだ。宿直をこなす仕事柄、元々夜には強い。だから深夜に電話をしたと。
一見普通そうに見える人が一番怖いとは、確か隣のおじさんの言葉だったと遼は記憶している。本当にそうだなとどこか冷静な頭が思った。
ところで、1人になるのが怖いと言っていた佐藤は何故、宿直を断らなかったのか。
その答えは麻生が教えてくれた。
生徒には絶対に言わないで欲しいと言われているから、絶対に言うなと釘を刺しながら。
死体を発見した時の佐藤は、ただ怖いという感情しかなかった。
だが間違えて出勤してしまった日にカラスの羽が撒かれていたと知ると、今度は焦った。
学校の裏手にある祠で殺人があり、そこは天狗がいるという。だがどうせ犯人は人間だとは思っていた。
何にしたっていずれは逮捕され、自らの罪を償うだろうというくらいに考えていたのに、殺人自体を天狗のせいだと擦り付けるような行為は、
流石にまずい気がしてきた。
犯人が誰かは知らないが、天狗は得体の知れない存在だ。若しも、万が一にも生徒達に何か悪いことが起きてしまったらと思うと、佐藤は焦った。
だからその翌日の、ちょうど自分が宿直に当たる日に、佐藤は天狗へのお参りに行く事を決めた。
宿直の夜ならば他に誰もいないのだから普段は進入禁止の場所に立ち入っても大丈夫だろうと踏んだのだという。
それを決めた佐藤は、祠に天狗がいると信じている麻生にお供えは何がいいのかと相談を持ちかけた。
だがそれは麻生だって知らないことだ。素直にそう答えると、彼は今度は不慣れなパソコンで調べ始めた。
結局何がいいというのは見つからなかったので心を込めて掃除をする事にした。それが一番いいのかもしれないと思って。
夜を待つと佐藤は掃除用具を手に祠へ向かい、丁寧に掃除をして死者への弔いも込めて花を供え、そして懸命に祈ったというのだ。
生徒達を、どうか守ってください。と。
実際、すぐに検分に入った警察からは遼と天狗モドキの寺本の足跡の他に、佐藤のものと見られる足跡が見つかった事は聞いている。
厳しく檄を飛ばす体育教師は、口にはせずとも生徒達の身を案じてくれていた。
若しかしたら当麻たちがあの時来てくれたのは、佐藤の祈りが通じたのかも知れないと思うと、遼は何故か誇らしい気持ちになってくる。
そして体育教師に対して、申し訳ない気持ちにも。
足跡といえば1つ、不思議なことがあった。
現場に残されていたのは天狗の下駄の跡と、遼のスニーカーの跡。それから佐藤のスニーカーの跡。
それだけだったというのだ。
当麻のビーチサンダルの跡も、征士の草履の跡も、迦遊羅のヒールの跡も何も残っていないらしい。
彼らは確かにあの時そこにいて遼を守ってくれたのに、どこにもそんなものは残っていないというのだ。
足跡がないのだ、勿論、祠を軽く叩いていた当麻の指紋も残ってはいなかった。
だが、遼はもうそんな事はどうでもいい気がしていた。
征士の持っている番傘が実は仕込み刀になっているだとか、迦遊羅の目が光って尻尾らしきものが2本もあったことだとか、
当麻が常人にはありえないほど身軽だったことだとか、もう全部、どうだっていいことだ。足跡がなくたってそれは同じだ。
征士は征士で、迦遊羅は迦遊羅で、そして当麻は当麻だ。
ヘンテコな自称日本人と、鰹節と店主が好きすぎる美女と、だらしない偏屈店主。
それ以上でもそれ以下でもない。
出会った当初に当麻もそう言っていた。
ならばそれはそれでいい事だ。
夕べ、危ない目に会ったばかりの息子が何故か清々しくしているのを母親は不思議に思いつつ、けれど安心して
子供の前に牛乳の入ったコップを差し出した。
それを遼は一気に飲み干して、何かを思いついて台所に戻った母親の背に声をかけた。
「母さん、俺、昼からちょっと出かけてくるよ」
「あら?…大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。ちょっと遊びに行きたいトコがあるんだ」
「………1人で?」
振り返って不安そうに聞く母親に、息子は笑って元気よく頷いた。
「うん。でも行った先に友達がいるんだ。大丈夫、夕方には帰ってくるよ」
あのグータラ店主曰く自分は彼のオトモダチなのだから、逆も同じだろう。
きっと今日訪ねて行っても、彼らは昨日までがそうだったように何ら変わらない態度で迎え入れてくれるに違いない。
店主はあの椅子にだらしなく座っていて、美女は雑務をこなし、自称日本人は盆栽の手入れをしているのだろう。
若しかしたらまたあの2人が言い争いをして店主がそれを笑っているかもしれない。
そう考えただけで遼は笑いそうになってくる。
通学で遣っている駅で降りて階段を下ったら、学校へは向かわずにスーパーの方向へ向かおう。
途中でタイヤキを買って行ってもいいかも知れない。
あの店主は甘いものが好きなようだから、幾つか持っていけば喜んでくれるだろう。
タイヤキはそんなに高いものではないから遼のお小遣いでも買える代物だ。
それを10個買おうか、それとも12個にしようかと考えると、遼は頬を緩めて朝食を頬張った。
**END**
箒で掃き掃除をしている迦遊羅が「あらようこそ」と迎え入れてくれて、
盆栽を触っていた征士が「もう怪我は大丈夫なのか?」と聞いてくれて、
最後に椅子に座ってる当麻が「それってタイヤキ?なぁ、タイヤキ?」って聞いてくるのだと思います。