浦沢町1849-5
少しだけ冷静になれた遼は、走りながら考える。
恐らくすぐに後を追ってくる天狗の身体が、思っていたものより大きかったのは気のせいだろうか。
犯人は佐藤の筈だ。
日曜日に業者の女性を殺害し、月曜日の朝に寺本にそれを発見させ、水曜日の朝にサッカーゴール前に羽を撒いて、そして
木曜日に宿直当番として泊まった学校の公衆電話から嫌がらせの電話をかけて来たのは、佐藤の筈なのだ。
だが先ほどの天狗を思い出すと、一本下駄を履いていることを差し引いても佐藤だとするには妙に身体が大きかった気がしてくる。
佐藤は体育教師だが割と小柄で、成長途中で170cmに満たない遼よりも少し大きい程度だ。
顔も小さく豆に似ている。
だが、先程の天狗はどうだろうか。
近付いてはいないし、逃げる事に必死できちんと確認は出来ていないが、木との比較から考えても佐藤よりももう少し大きかったように思える。
佐藤じゃ、ないのか…?
まさかと思う。
だが確かに妙だ。
昨夜の電話が学校にある公衆電話からならば、今日の電話はどこからなのだろうか。
同じく学校の電話だとすれば、佐藤は今までどこに居たのだろうか。学校に残っていれば宿直の教師に怪しまれるだろう。
そういえば天狗の衣装は家に一旦取りに帰ったのだろうか。
だとしたら家族に何と言って外出したのだろうか。
若しも昨夜の電話が学校の公衆電話ではなかったとしたら…?
今日の電話も、昨夜のものと同じものだったのなら…?
答えは出ない。
ただ、佐藤以外の人間が犯人だという可能性は大きくなる。
寧ろ先程見た天狗の身体の大きさで考えれば、佐藤は犯人ではない。
では、誰が?
走りながら纏まらない事を考えていると、祠が見えてきた。
祠の先には大きな木があって、その後ろは急な斜面で到底上ることが出来そうもなく、事実上の行き止まりになっている。
道を選ぶならば右か左のどちらかだ。
その道はどちらも”道”とは呼べないものだが、今は仕方が無い。
天空堂の裏手にこの山があると教えてくれたのは迦遊羅だ。
ならば、右でも左でも、兎に角進んでいけば少なくとも町に出ることが出来る。
上手く行けば天空堂に逃げ込む事だって出来る筈だ。
白い虎のお陰で天狗との距離が開けている今、身を隠すことを優先しなければならない。
会えば間違いなく当麻に冷たい目で見られるとしても、今は匿ってもらって身の安全を確保したい。
もう少しだ。
そう思った遼の身体がまた、バランスを失う。
肩にかけていたカバンの肩紐部分が切れた。
否、切れたのではなく。
「…………ってぇ…!!」
地面に叩きつけられる事も2度目となる視界には、明らかに鋭利なもので切られた肩紐が見えていた。
そして、今最も会いたくない天狗の姿も。
「………あ、……っ…」
余裕があると思っていた距離はいつの間にか縮められていた。
遼を見下ろす天狗の身体はやはり体育教師のものに比べると幾分か大きい。
その天狗の服は当麻の指摘どおりそれらしいシルエットをしているだけで、想像していたような物とは随分かけ離れていた。
背中の羽だって玩具みたいだし、その顔はただの面だ。
こんなにもお粗末なのに、もう自分には成す術がない。
もう逃げ場がないことを思うと諦めも恐怖も何もかもを通り越して、抵抗する気力さえ沸いてこなかった。
そんな遼にかかる天狗の影が動く。
結局、この祠って何がいるんだろう。
そんな事をぼんやりと、全く実感の沸かない頭で考えた。
その間に天狗はゆっくりと凶器を振り上げ、狙いを定めたようだ。
手斧が一直線に遼の頭を目掛けて下ろされる。
だがその先は、今度も遼に当たる事はなかった。
その代わりに金属同士がぶつかる音が聞こえる。
「…………………?」
ぼんやりとした目をもう一度天狗に向ける。
面を被った卑怯漢の凶器は、空中で止められている。
長い棒状のもの、よく見ると手斧を食い止めているのは番傘だ。
「…………、……」
遼の目に力が戻ってくる。
見間違いかと思ったが、やはり番傘だ。
それも通常の傘よりも長い。
「何をしている」
低くてよく通る声は聞き覚えがある。
番傘の上を視線で辿っていくとそれはやがて柄に辿り着き、そこを握る大きな手が見えた。
「…っ、せい、…っ!」
征士。
そう呼ぼうとすると同時に征士は番傘で天狗の持つ手斧を軽く弾き、そのまま傘の本体と柄を左右の手で掴んで、両側に引いた。
すると左右に引かれた傘と柄は離れ、その間から月明かりに照らされ静かな光を放つものが出てくる。
刃、だ。
傘の部分から刃を完全に抜いた征士は、それをくるりと返して今度こそ天狗の手から凶器をその後方へと弾き飛ばした。
「…………!」
驚いたのは遼だけでなく、天狗も同じだ。
その喉元に、征士はピタリと刃を突きつける。
「貴様が人心を誑かし日々の生活を脅かす物の怪の類ならば、元ある場所に還すのが私の役割だが…」
静かな声には有無を言わさない迫力がある。
その征士は突きつけた刃を再び返して、左手に持った番傘の中へと戻した。
「しかし貴様がただの人となれば、それは私が罰すべきものではない」
キンという音を立てた刃が完全に姿を消して暫くは天狗もその場に居たが、征士に自分をどうこうするつもりがないと気付くと踵を返して
弾かれたように茂みへと逃げ込もうとする。
「けれど、あなたをこのまま見逃がすわけにはゆきませんの」
今度は迦遊羅の声がした。
茂みの中だ。
漸く遼は身体を起こしてそちらに目をやると、突然の声に驚いた天狗が尻餅をついていた。
「…っ」
天狗が逃げ込もうとしたのは茂みで、そこから聞こえたのは確かに迦遊羅の声だ。
だが月の明かりがあまり届かない場所にいる筈の彼女の瞳は何故か縦に長い楕円でギラリと光り、口も遼の記憶にあるものより
遥かに大きく横に裂け、その中には鋭く尖った小さな歯が幾つも並んでいる。
そして彼女の後ろではまるで意思があるかのような長いものが、ゆらゆらと揺らめいていた。それも、2本も。
「わたくしどもの主人が、どうしてもあなたに一言申し上げたいと仰るものですから」
どこからともなく、にゃあ、と聞こえた気がした。
その彼女の視線が征士と遼の前を通った場所に注がれる。
それにつられて遼の視線も、天狗の視線もそちらへ流れた。
そこにあるのは、祠だった。
「はい、こんばんわー」
いつの間にかそこに当麻が、いる。
祠と木の間に、普通に。
いつもと同じTシャツとジーンズというラフな姿で、いつもと同じような口調で天狗に向けてひらひらと手を振っている。
「お前が遼が見たって言う天狗?」
そう言って尻餅をついたままの天狗を見下ろす当麻の目は、冷たい。
少しだけ黙ると、今度は大袈裟に溜息を吐いた。
「困るんだよなぁ、勝手にヒトを騙ってもらっちゃ」
ぐしゃぐしゃと髪をかくと、当麻はもう一度天狗を見た。
「しかもお前、騙っただけじゃなくて人を殺したんだってな。それも俺の”家”の前で」
本当、神経疑うね。
と続ける軽い口調とは違ってその声は随分と平坦だ。
当麻の細い手が祠の上部分をノックするように叩いている。
「ヒトは騙る、人は殺す、後片付けもしないどころか、また同じ事をしようとしてる。サイッテーだな」
「……ぅ、…ぅ、わぁ……!!!」
不様に上がったの天狗の悲鳴は、やはり佐藤のものとは似ても似つかなかった。
天狗は尻餅をついたままの体勢で彼は地面を這い、征士に弾かれた手斧を手にする。
その手は震えていたが、大きく振りかぶるとそれを当麻のいる方向に向かって強く投げつける。
だが遼は見ていた。
投げられた手斧が回転しながら飛び、当麻へと真っ直ぐに向かうのを。
勢いよく突き進んでくる手斧を、当麻がすんでの所で跳躍してかわすのを。
そして、その手斧が祠の後ろにある木に刺さり、その柄に当麻が、音もなく着地するのを。
「あ、………あぁ、……う、う………あ…」
「こんなモン、意味あるわけないだろ、馬ーぁ鹿。大体なんだよ、その汚い羽は。それにその面も何。顎は割れてるし眉毛はボーボーで太いし
鼻もブッサイクに長いしさぁ…本気で天狗がそういう顔だって思ってるわけ?」
木に刺さった手斧を踵で軽く叩いている足元は、相変わらずビーチサンダルだった。
「見せてやろうか?本物の”天狗”を」
そう言うと、当麻がまた跳躍した。
今度は天狗の目の前にまで飛び、そして再び音もなく着地する。
「これが、”天狗”の顔だよ」
「………っが、……!」
ずい、と天狗の鼻先に天空堂の店主の顔が寄せられると、天狗は喉に何かがつかえたような短い悲鳴をあげ、
そしてそのままゆっくりと仰向けに倒れていった。
*****
ブラックアウト。