浦沢町1849-5
あの日と似た時間帯に、今度は祠の前に堂々と遼は立っていた。
今夜は満月で外灯がなくともそれなりに視野は利く。
殺人現場となった場所は既に血の跡は拭い去られ、そして祠の方も手入れをされたのか、花が供えられていた。
あの日、見たのは天狗と、血を流して倒れている女性だ。
遼が目撃した時には既に彼女の息はなかったと聞いた。
だが若しもあの時、天狗だと勘違いをせずにすぐに通報していれば、若しかしたら彼女は助かっていたのかもしれないと思うと言いようのない
苦しさを胸が訴えてくる。
自分のせいではないと言われても、本当にそうなのかという気持ちは晴れない。
だからこそ、彼女のためにも犯人には天狗のフリなどせずにきちんと自分の罪を認めて欲しいとも思う。
遼はそこが彼女の墓ではないと解っていても、祠に向かって手を合わせた。
祈る内容も曖昧なままではあったが、そこにいるのが天狗だというのなら、それは山の神様だということに変わりはない。
暫く時間が経過した。携帯電話の時計を確認すると時刻は8時半少し前。
正直手持ち無沙汰だし、暇でもある。しかも久々の部活で走り回ったものだから、疲労もじんわりと感じ始めていた。
だが神様の手前、地べたに座るというのは気が引ける。
足に溜まる疲労を逃がそうとした遼は片足ずつを交互に上げてみたり、肩にかけた大きなカバンも右肩にしたり左肩に回したりとする。
今、この場を離れるわけにいかない。
行くといった以上、相手が来るのを待つしかない。
だがそうこうしているうちにも時間は過ぎる。
もう一度携帯の時間を見ると8時40分だ。
先ほど確認からまだ10分と少々しか経っていないが、話す相手もなく、じっと待つだけの身にはもっと長い時間が過ぎているように感じていた。
…………どうしようかな。
よく考えてみれば、遼は今から行くと言ったが相手は返事をしていない。
昨日ならば佐藤は宿直当番だったからすぐに来れただろうが、今夜は流石に違うだろう。
自宅から学校へ向かうまでの時間がかかるし、天狗の服の準備だって要る。
こんな時間に学校にとなると何故と問うのは家族だけではなく、遭遇すれば今夜の宿直の教師からも聞かれる可能性だってあるのだ。
茂みにいたのが誰かというのを相手が気付いているように、天狗の正体が誰かというのをこちらが知っている。
ただそれだけの状態になっただけだ。
正体がばれている事についての危険はあるが、今からそっちに行くと言っていた事から、若しかしたら警察には未だその正体について何も話してはいないと
相手にバレたのかも知れない。
それならば何も態々相手に合わせることなどせず、寧ろ待たせてこちらを消耗させる事だって選択肢に入ってくる。
その可能性を考えた遼が出した結論は。
「……………くそ、待たされ損かよ…」
少年探偵気取りで早まった行動に出たと流石に後悔をする。
結局自分は部活で疲れた身体に精神的な疲労まで上乗せして、時間を潰しただけに過ぎない。
やはり今日は帰ってしまおうか。
しんとした空気の中で冷静になった遼は山を降りることを決めた。
来た道を、来たときと同じように足音に注意しながら戻り始める。ここで宿直の教師に見つかって問い詰められるのは避けたい。
「………………」
そこでふと、遼は何かが気になった。
何かというのは自分でもハッキリ解らないが、何かがおかしい。
山のことだろうか。祠のことだろうか。
それとも事件当日のことか、翌日のことか。
何かはハッキリしないが、遼の中で違和感を訴えてくる何かが芽生え始める。
解らない何かの正体を求めるように祠を振り返ったが、祠はただそこにあるだけで、それ以上の何かを示すことはなかった。
「……気のせいかな…」
意識して明るい声を出した。
気持ちが落ち着いてくると、恐怖心がそろりと近寄ってくる。
ここは元々立ち入り禁止とされている場所であり、殺人現場になった場所だ。
そこで殺人を犯した人物と対峙しようとしていた事に、少し鼓動が早くなった。
何かあったらどうするつもりだ。
あの日、天空堂での当麻の言葉が頭に浮かんで、それを打ち消すように遼は頭を強く振った。
兎に角今は山を降りるべきだ。
そう思って少し足早に来た道を戻った。
「……………………あ、…れ?」
木々に囲まれた道を戻っていくと、視界が開けてくる。
もうすぐで裏門だ。
だが門の前に人影があり、こちらに向かってゆっくりと山道を登ってきている。
その姿をよく確かめようと遼は目を細めて、そして息を飲んだ。
「………………っ!」
天狗だ。
大きな羽に一本下駄。
校庭に設置された照明を背にしているからハッキリは見えないが、長く伸びた鼻も見える。
間違いなく、天狗だ。
否、天狗のフリをしただけの、人間だ。
だがその姿を見た途端、遼は混乱した。
何故なら。
「…う…そ、……だろ…」
遼は慌てて逃げ場を求め、帰るために辿ってきた道を再び祠に向けて体ごと振り返る。
裏門の方向を見る余裕などない。
今は兎に角逃げなければならない。
何故なら天狗の手には、手斧が握られていた。
何かあったらどうするつもりだ。
その言葉が、音声を伴って耳に帰ってくる。
何か。その何かが、若しも…あったら…?
遼は舗装されてもいない山道を蹴った。
思い切り蹴って駆け出したのに、後ろから聞こえる、木製の下駄が砂利を蹴る音はぐんぐんと近づいてくる。
遼が踵を返したと同時に相手も走り出したようだ。
相手に掴まるわけには行かない。手にあるのは手斧で、どう考えても平和的な目的で持っているとは思えない。
だから少しでも距離を開け、兎に角何処かへ身を隠さねばならない。
だが普段歩き慣れていない砂利の上をスニーカーのゴム底には滑り、少し角度のある山道は通常の道をよりも足にかかる負担が大きい。
部活での疲れで膝に力が上手く入らず、何より焦ってしまった気持ちは身体を上手く前に走らせてはくれない。
「………………っっっ!!!!」
荷物の詰まった大きなカバンが不安定に揺れ、よろめいた足がそれに振り回されるようにバランスを失って、遼は肩から地面に叩きつけられた。
天狗が何かをしたのではない。完全に空回っただけだ。
だが手斧を見てパニックを起こしている遼には自分がコケたことさえ理解できていない。
必死に足をばたつかせ、手で砂利をかいて兎に角前に進もうとその場でもがいた。
その視界に注ぐ月からの光を、何かが遮る。
一瞬で血の気が引く。
……殺される…!!!!!
予想される衝撃に身を硬くし目を強く瞑った遼の膝が何かを蹴ると同時に、狂気混じりの禍々しい気配を滲ませた殺人犯が、手にした凶器を
自分に向けて振り下ろす光景が遼の脳裏に浮かんだ。
「何かあったらどうするつもりだ」。それを悔いる間など、もう残されていない。
切られると、やっぱり悲鳴を上げるものなのだろうか。
身に起こることへの逃避か、遼は一瞬そんな事を考えた。
だが実際に聞こえたのは自分のものではない短い悲鳴。
そして、木々を震わす程の、
獣の、咆哮。
「…!?」
痛みはない。
ワケが解らず目を開く。
「……………………………え…っ…」
獣だ、獣がいる。
それもここが山だから、という事では済まされない類の獣だ。
獣の身体は成長途中にある遼よりも大きく、四肢は太く逞しい。
背中しか見えないが、綺麗に描かれているのは縞模様で、恐らくこれは虎だ。
こんな至近距離で見るのは初めてだが、長い尾も、しなやかな動きも、ネコ科の肉食獣そのものだ。
だがこの虎の毛は白く美しい。ホワイトタイガーという種類を聞いた事はあるが、実物を見るのはもっと初めてだ。
その虎が低い唸り声を上げ、地面に倒れたままの遼を庇うように天狗との間に立ちはだかっている。
彼(彼女かもしれないが)の向こうに見える天狗は、驚いて遼同様に地面に倒れていた。
「………………え、…っと、…」
状況は全く把握できないが、この虎が自分を守ってくれている事だけは解る。
それに安心した遼の耳に微かなシャッター音が聞こえてきた。
カシャカシャカシャと連続して聞こえる音は、勿論本物のシャッター音ではない。
聞こえてくる先を倒れたまま探ると、それは自分の膝の先にあるカバンからだ。
どうやら天空堂で購入したカメラ形のキーホルダーが倒れた時にカバンの下敷きになり、さっき膝が当たった拍子に石か何かがスイッチに当たって
押しているようだ。
だがその様子がいつもと違う事に遼は気付く。
LEDライト付だというそのキーホルダーは、どれほど試しても音が出るだけで肝心の光は出なかったはずだ。
しかし今、カバンの下敷きになっているキーホルダーからはLEDライトにしては随分と弱々しく光を出しているではないか。
それに気付いた遼が上体を素早く起こしてカバンを引き寄せると、そのシャッター音は止み、光も消える。
同時に、目の前にあった頼もしい白い背も、消えた。
「…………え、ちょ、……ちょっと……!」
折角頼りになるものがいたのに、消えてしまっては意味が無い。
遼は慌ててスイッチを押しなおした。
だが光はもう出ない。
それどころかカシャカシャという音まで段々と弱々しくなっていく。
当然、さっきの白い虎の姿ももう出てこない。
だが青褪めている場合ではない。
天狗は未だ地面に懐いたままだ。
虎は出ないが、チャンスは今しかない。
遼は立ち上がると膝に力を込めて、祠に向けて再び走り出した。
*****
息を切らせて走る。