浦沢町1849-5
食後、更に猛攻を仕掛けてくる睡魔をどうにか押さえ込みつつ5時間目と6時間目の授業を終えた遼は、終礼が終わると急いで下足室へ向かい、
既に集まっている他の部員と合流した。
担任の麻生は市民広場は解りやすい場所だと教えてくれたが、遼は実はちょっと方向音痴だ。
天空堂のように目安となる印が幾つかあるのならそれを頼りに辿り着く事が出来るのだが、ただ漠然と住宅街の中と言われると、それが如何に目立つ
場所であろうとも、どうしてだか見失って迷子になる。
入学してすぐの遠足で盛大になっていた彼の事をよく覚えていた麻生は、サッカー部の顧問に集まって行った方が良いとそれとなく伝えてくれていたようだ。
お陰で遼は迷うことなく、そして先輩を探さなければならないという焦りを抱えることもなくに部活に参加することが出来た。
広場は校庭より少し狭いくらいだったが、サッカー部だけで使うには充分な広さだ。
そこで30人ほどの部員が身体を解し、軽い運動を始める。
久々の部活で、そして例のカラスの羽の件で気が沈んでいたせいもあってか、みんなどこか浮かれていた。
ペアになってストレッチをしている間に話し声や笑い声がどこからか聞こえてくる。
それを顧問も怒らずに見守っていた。
ランニングは軽く広場を3周。
それを済ませると2チームに分かれての鬼ごっこが始まった。
ボールがないのだ、パス回しの練習さえも出来ない。
学校の体育倉庫にならあるが、校外への持ち出しは禁止だ。
今回、市民広場での部活動の許可は特別に貰えたが、ボールについての特別は認められなかった。
その許可を出すのは体育科の主任だが、その主任は佐藤だ。
学校の備品についての管理は厳しいから仕方がないと顧問は言ったが、これは佐藤からの嫌がらせに違いないと遼は密かに腹を立てた。
広場の隅に追いやられているがバスケットゴールと並んでサッカーゴールはあるのだから、幾つかある内の1つだけでも持ち出しの許可をしてくれれば
対抗戦くらいなら出来たのに、と。
だがその腹立たしさも持続はしなかった。
2チームに分けたと言っても、鬼の数は10人。
残りの部員がそれから逃げ回るのだが、如何せん鬼の数が通常よりも多い。
しかも挟み撃ちなどしてくるから逃げるのも結構必死になる。
鬼に捕まった者は交代。ではなくて、擽りの刑に遭うのだからそれは余計に必死にならざるを得なかった。
息が切れるまで走り、膝が力を失っても鬼の気配を感じれば走り出す。
余計な事を考える暇さえもなく広場を走り回るうちに、遼の中のモヤモヤとした気持ちも晴れてきた。
途中から何もないのにテンションが上がりすぎて逃げているだけでも笑ってしまう。
追いかける方もそれは同じようだった。
広場のあちこちを走り回る、成長の途中で身体の大きさはバラバラの生徒達は、まるで子供のように夢中ではしゃぎ続けていた。
チーム編成をし直し、休憩を挟んでもう一度というのを何度か繰り返すと少年達に疲労が見えてくる。
全員がある程度疲れたところで鬼ごっこは終了し、そしていつもの練習以上に念入りにマッサージが行われた。
久々の部活は、5日ぶりなのだ。
若い身体はそう簡単に鈍ったりはしないが、小さな油断が怪我を生む事を顧問はよく理解している。
生徒達にそれをしつこい程に伝え、そしてそのケアを続けさせた。
お陰で終わったのは7時半過ぎ。
辺りは暗くなり始め、サッカー部員達はその夕闇に紛れて汗に塗れた体操服を着替え、済んだものからポツポツと帰り始める。
中には久し振りだからと少し残って話しているものもいた。そしてその中には遼の姿もあった。
だが市民広場は住宅街の中にある。あまり遅くまで騒いでいては近隣住人の迷惑になってしまう。
そろそろ帰るよう顧問に言われ、仕方なく彼らも重い腰を上げた。
それぞれのカバンを肩にかけ、じゃあ駅に向かおうか、という時だ。
くぐもった音で音楽が聞こえてくる。
「誰か電話、鳴ってねぇか?」
先頭を歩いていた者が振り返って聞くと、みんな一斉に自分のカバンやポケットから携帯を取り出して確認した。
「いいや」「俺じゃねぇよ」という声がする中、遼は自分の携帯を見て固まっていた。
「遼、どした?お前のんじゃねぇの?」
友人の声が、少し遠くに聞こえる。
その間も携帯は鳴り続けていて切れる様子がない。
「…おい、遼?」
「ゴメン、先に帰っててくれないかな、俺、ちょっと電話」
少し硬い表情で言う遼を気にしつつも、彼らは頷いて「じゃーなー」と歩き始めた。
その背を見送った遼は再び携帯の画面に目を落とす。
遼が出るまで相手も切るつもりがないのだろう。
ディスプレイには、公衆電話、の文字が映し出されていた。
「…………もしもし」
さっきまでの楽しい気持ちは消え、またモヤモヤとした感情が腹の底から沸きあがってくる。
まるで部活が終わるのを待っていたかのようなタイミング。
それがまた腹立たしい。
「おい」
何も言わない相手に苛立って声を出すと、カァというカラスの鳴き声が聞こえた。
それに遼が苛立つ。
どうやら相手は、自分は天狗だと未だに思い込ませたいらしい。
だがその正体がただの人間だと解っている遼からすれば、それは馬鹿馬鹿しいことだ。
カラスの声だって実際に近くに居るのではなく、録音したものだろう。
羽を毟るのに捕まえているくらいだ、音声ならその時に幾らでも録れる。
そうでなくたってゴミ捨て場にでも行けば数羽見つけることが出来るのだから、今更鳴き声程度で怯える事等ない。
馬鹿にしやがって。
寧ろ悔しさや怒りが強く胸を支配していく。
自分を侮っているらしい相手を、これ以上好きにさせるつもりはない。
追い詰め、自供させるのはいつかと悩んでいたが、これは、今だ。
自分が有利だと思っている相手を、全てバレているのだと知らしめてやるなら、今だ。
遼は携帯電話をぐっと握り締めた。
「今からそっち、行ってやる…!」
電話に向かって語気を強めて言うと電源ボタンを押して、遼は学校へと駆け出した。
息を切らせて辿り着いた校門は、当然ながら既に閉まっている。
それくらいは遼にだって解っていたからそのまま学校の塀沿いに回りこんで、グランド側でも人気のない場所を目指した。
そこにあるフェンスは3メートルほどの高さで、越えようと思えば越えられる程度のものだ。
休校中に、自分が見た光景を警察に話すために訪れた時に使うことのなかった侵入経路を、今になって使う。
物音は聞こえないが、遼は注意深く周囲を伺った。
……学校の外に人は居ないようだ。
次は校内に気持ちを向ける。今夜の宿直が誰かは知らないが、極力音は立てないほうがいい。
同じく様子を伺ったが、少なくともグランドの近くには今は誰も居ないようだ。
遼はまずカバンを投げ入れ、そしてフェンスに手をかけると本人なりに気を遣って銀色のフェンスをよじ登り、そしてグランドに着地した。
ついカッとなってこれから行くと言ったはいいけれど、どこで天狗モドキを待ってやろうか。
暗がりの中で視線を巡らせ考える。
話を聞かれてしまっては、若しかしたら自供してもらえないかもしれない。
内緒話は得てしてこっそりとするべきだという事を考えても、出来れば自分と天狗モドキ以外には誰もいないほうがいい。
じゃあ、やっぱり。
遼は視線を焼却炉傍の裏門に定めると、足元に落としたままになっていたカバンを持って、そっと歩き出した。
*****
市民広場の端の、フェンスで仕切られたスペースにはテニスコートが2面あります。