浦沢町1849-5



さっきまで眉間に皺を寄せ眦を吊り上げ、険を含んだ声で罵り合っていた男女は、青い髪の人物の登場と共にその表情をがらりと変えた。
そして息ピッタリに声を揃えて、


「とうま!」


と青い髪の人物の名と思われる言葉を口にする。
そのあまりの天と地ほどの差に、これが”豹変する”って事かと、どこか逃避を始めた頭で遼は思った。

女の方は遼が店に来たときに見せたものとは桁違いの、花が綻ぶような美しい笑みを浮かべいる。
男の方は同性でも見とれてしまうほどに優しい笑みを湛えている。
そして「とうま」と呼ばれた男はというと。


「あれ?お客さん?」


と2人の呼びかけには答えず、あくまでマイペースな返事とは言えない返事をした。
いや、マイペースなのは口調だけでなく、彼の格好を見ても解ることだった。

どう見ても部屋着のグレーのスウェット上下は長袖で襟元が草臥れ、しかし足元は何故かビーチサンダルだ。
確かに遼の学校もつい先日衣替えしたばかりだから季節としてはビーチサンダルの頃に向かっているようなものだが、しかしまだ早い。
そこから考えるとスウェット上下というのは少し暑いのではないだろうかと思うのだが、本人は何故か涼しげだ。
その手にはコンビニの袋があって、透けて見えるのは週刊誌の表紙だった。恐らくそれを買いに出かけていたのだろう。
この格好で?多分、この格好で。


のったりと歩いて店の中まで入ってきた男から、まるで調べられるような冷たい目で見られて遼は身構える。
よく見ると彼は髪だけでなく眉も睫毛も、そして瞳も不思議な青をしていた。
垂れた眦は愛嬌があるが、全体的にどこか隙がなくて少し怖い。


「何だよ、お前らお客さんいるのにまた騒いでたのか?」


そんな遼を置いて、青い髪の男が美男美女に言う。言葉は窘めているようだが、その口調はどちらかと言わなくても笑いを含んでいた。
この様子からすると案外、さっきの光景は自分が原因なのではなく、日常茶飯事なのかもしれないと遼は少しだけ安心する。


「コイツが私に絡んでくるのでつい…」

「先に言いがかりをつけて来たのはそっちじゃありませんの」

「まーもういいから。…それより」


バツが悪そうにしている2人から再び遼に視線を戻した青年は笑いかけてくる。さっきの冷たい視線はもうなかった。


「いきなりビックリするもん見せて悪かったな。俺はここの店主の羽柴当麻。で、こっちがカユラで、こっちがセイジ」


そうして2人を順に示す。
すると女の方が先ず会釈をした。


「迦遊羅と申します。先ほどは失礼致しました」


そう言ってまた最初に見せてくれた時と同じ笑みを浮かべた。
店主が帰ってきたときのものと明らかに差があった。…勿論、彼に向けた方が美しかった。

今度はセイジと呼ばれた男が頭を下げる。無駄も愛想もないその動作は、実物を見た事はないものの、遼にはまるで武士のように見えた。


「伊達征士だ。先ほどは驚かせてすまなかった」

「だ、…て、せいじ?」


紛い物ではない金の髪に、こちらも生来のものと思われる紫の瞳で日本人名を名乗られ、遼は思わず聞き返してしまう。
若しかしたらハーフなのかも知れないが、何と言うか……意外すぎた。


「だぁれが”伊達征士”ですの。あなたの本名はセージ・デュナンガ」

「伊達政宗の”伊達”に、征服の”征”と武士の”士”と書いて伊達征士だ」

「伊達政宗が聞いて呆れますわね。正真正銘、混じりっけナシのイギリス貴族の出身で、カトリックのエク」

「だ、て、せ、い、じ、だ。此処で雇ってもらっている」


征士の自己紹介に横から割って入る迦遊羅が言葉がかなり気になるが、そこに気を取られている場合ではない。
張り詰めていた2人の緊張感は当麻の登場によって緩んだが、それが再び張り詰め始めているのだ。
また来るぞ、と遼は腹に力を入れて目をギュッと瞑った。
喧嘩をしていた時の征士の声は低くて腹に響く。そして迦遊羅の声は額に突き刺さるようだった。

見えないゴングが鳴るのを構えたその瞬間だった。


「まーまー。いいじゃん」


とやっぱり暢気な声がして、それを止めた。
当麻のものだ。


「ですがこの男が嘘ばかり言うものですから…!」

「いいじゃん。征士が”自分は伊達征士です”って名乗ってんだもん」

「…そう、……ですけども…」

「何にも困らないだろ?何か困る?」


食い下がる迦遊羅を責めるでもなくとてもシンプルな理由で聞き返す当麻に、迦遊羅は返す言葉が無いようだ。
少し俯き加減になって声が弱々しくなっていく姿は少し可哀想に見える。
遼に出来る事はキッパリとないのだが、それでも遼はどうにか言葉を挟もうとして、けれどやっぱり何もいい言葉が思い浮かばずにいると、
当麻がにぃっと笑った。


「迦遊羅は迦遊羅だろ?それと一緒。な?」

「………わたくしと…?」

「そ。で、俺は羽柴当麻であって、それ以上でもそれ以下でもない。それとも一緒。それで充分だろ?」


そう言いきると、迦遊羅の顔に再びあの綺麗な笑みが戻る。
あまり遼にはピンとこない会話だったが、彼らはそれで満足のようだ。
征士もゆったりとした動きで頷いていた。もう彼にも怒気はない。
だから遼もつい一緒に頷いてしまった。やっぱり意味は解らないままだったが、それはそれでいいような気になった。


何となく穏やかになった空気に浸っていると、当麻が椅子の傍にある、年代物の大袈裟なテーブルにコンビニの袋を置いた。


「さて、じゃあ改めて……いらっしゃいませ。当店にどんなご用件で?」


お爺ちゃんが変な壷買わされて来てその値打ちを調べてもらいにでも来た?と冗談交じりに言われた当麻の言葉に反応して、遼は慌てて首を横に振る。
そんな用件で来たのではない。


「…?どうした、お婆ちゃんの遺品整理してたら何か凄そうな掛け軸でも出てきたのか?」

「そ、そうじゃなくって…」

「じゃあ何?若しかして骨董品が好きとかそういうの?」


迦遊羅が座っていた椅子に腰を落ち着けた当麻は次々に言葉を投げかけてくる。
確かにこの店の雰囲気に高校生と言うのは妙に映るのだろう。
いや、それはこの町並み全体に言えることだった。
現代から取り残されたような古い町並みは懐かしいようで、少し不気味でもある。
そんな場所に明らかによそ者、それも高校生が入り込んできたのなら誰だって不思議に思うのだろう。

だが当麻の質問はあまりに矢継ぎ早だ。
それに答えるので精一杯になっている遼に気付いたのか、征士が「当麻」と呼びかけた。


「なに?」

「もう少し落ち着いて聞いてやれ。彼は何か話したい事があって来たのではないのか?」


そうだろう?と言わんばかりの征士の視線に、遼は何度も首を縦に振って答えた。


「あ、そうなん?悪い。で、何?」





昨日のことだった。

日も暮れ、部活が終わっても、いつまでもグランドに座って仲間と喋っているところに用務員のオジサンが現れ、遅いからそろそろ帰りなさい、
と声をかけてきた。
彼はいつもニコニコとしていて優しく、生徒達からのウケもいい。
だから誰も彼の言葉に文句を言わず、素直な返事をして帰る準備を始める。
その時になって、遼は借りた漫画を教室に忘れてきた事に気が付いた。
それを取りにいくという遼に、部活仲間たちは「じゃあ先に校門で待ってるから」と言い、彼らは一旦別れた。

校内に入り込もうと下足に向かうと、鍵がかかっている。
学校はいつも8時ごろには防犯の為に宿直室以外の場所の全てを施錠している。
少し前に用務員がグランドの様子を見に来たという事は、既に施錠済みだったのだろう。

困った遼は少しだけ考えて、そして僅かな可能性に期待して非常階段に向かった。


何をしていると聞かれれば素直に「忘れ物をしました」と答えるつもりだった遼だが、つい足音に気を使ってしまう。
それに伴って身を低くして4階までまで駆け上がり、そして校内に続くドアに手をかけたが、やはりここも既に施錠されていた。


「…まぁ、…当たり前か」


漫画を借りたが何もすぐに読まなければならないワケでもないし、明日返すと言う約束をしたワケでもない。
1日くらいならいいかと諦めた遼は、隠れるために丸めていた背を伸ばす。
不自然な体勢で階段を昇るのは少し疲れた。軽く腰を擦りながら、そこからの景色を眺める。
陽が沈み、グランドの端に申し訳程度で設置された照明に照らされた学校はどこか不気味だ。
寒くもないのに背筋がゾクリとするものを感じて、早くみんなと合流しようと遼は昇ってきた階段を降りようとした。

その時だった。

誰もいなくなったはずのグランドの隅に、人影が見えた気がした。
薄暗いために視界で捉えたのは一瞬だったが、確かあの辺りにあるのは焼却炉だったように思える。
一瞬、用務員の彼かと思ったが、下足が施錠されているという事は、彼は既に宿直室に戻っている筈だ。

誰…?

無視しても構わないのに妙に気にかかった遼は階段を降りると、校門とは逆の方向に走り出す。
目指した先は焼却炉だ。


急いだものの4階から焼却炉まではそれなりに距離がある。
遼が辿り着いた頃には既に人の影も気配もなくなっていた。
若しかして見間違いだったかと思ったが、ふと気付く。

門が、開いている。

遼が目をやったのは、近寄るなと言われていた裏門だ。
その門が開きっぱなしになっている。だとしたらさっきの人影はこの門の先に進んだのだろうか。
教師からも、そして先輩達からも近寄るなとキツく言い咎められている場所に、誰が何の用で入っているのだろうか。
この先に何があるのだろうか。
風が吹くと、少年を呼ぶように門がキィと鳴いた。

周囲には人の姿はない。
この先に何があるのか、気にはなる。

ちょっと見て、すぐ帰るだけだし。

そう思った遼はもう一度周囲を見渡して、そして門に向かって足を踏み出した。


門から先はすぐに山道になっていて木々が生い茂っている為に、見通しが悪い。
転ばないように、足音を立てないように注意しながら遼はその道を進んだ。
この先にあるのは祠だと言う。そこには近寄るなと言われていて普段から鍵がかかっているが、今そこは開いていて、そして見かけた誰かはそこへ向かっている。
別にその祠を暴きたいわけではない。
ただ、そこで何が祭られているのか、どうして近寄ってはいけないのか、訪れようとしている人物なら知っているはずだ。
それが知りたくて遼は只管に道を進んだ。

時間にして恐らく10分ほど。
けれど慣れない道を手探りで進んできたせいで、何となく疲れてきた頃だった。

少しだけ視界が開けた場所に出た。


「……………っ…?」


薄暗い景色の中に、ぽつんと祠らしきものがある。
そしてその前に誰かが立っている。

一体何が。

そう思うよりも先に、遼は驚いた。


大きな羽。斜め後ろからでも解るほどに大きな鼻。奇妙な服と足元には一本下駄。
それはまさしく。




「俺、天狗を見たんです…!」




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天空堂の表にある盆栽は売り物ではなく、征士さんの趣味のものです。褒められると喜びます。