浦沢町1849-5
普段から落ち着きが無いというわけではないが、それなりには快活な息子に元気がない。
寝不足かと遠回しに聞いてみたものの、ここ数日どうも彼の様子はおかしい事は知っていた。
それを気にした母が、どこが具合が悪いのかと尋ねるのに、遼は気だるげに首を横に振って答える。
「ううん、大丈夫だよ」
「でも遼、顔色もよくないし、……それに何だか…、その、疲れてるみたいよ…?」
「平気だって。最近、部活がないから調子が狂ってるだけだと思う」
急に4日も休みになったから、と言う息子をこれ以上追求しても平行線だろう。
あんな事件が身近にあったばかりだからと無理矢理に納得した母は、「そう」とだけ言うといつものようにお弁当を作り始めた。
昨日の朝とは打って変わって、重い足取りで学校へ向かう。
校門が見えてくると、そこには佐藤の姿があった。
仁志高校では宿直当番だった教師は大抵、校門に立ってこうして生徒に朝の挨拶をしている事が多い。
佐藤がそこにいる、という事はどうやら昨日、彼は何と宿直として校内に寝泊りしていたという事だ。
殺人事件を目撃して1人になるのが怖いと言っていた割に、当番はきっちりこなしているらしい。
相変わらず豆に似た容姿で両足を肩幅に開き、そして腕を組んで登校してくる生徒に「元気がない!」だの「背筋を伸ばせ!」だのと
怒鳴り散らしている。
その声を遼は集中して聞き取ろうとした。
「見つけた」。
そう言った声は、低く、そして掠れていた。
意図的にああいう声を出そうと思えば、誰でも出せるだろう。
不鮮明な声は誰のものかハッキリとは解らないものの、それでもその声が知っている人間のものだと心のどこかが主張している。
その声と、佐藤の声。
これが重なるか必死に聞き取ろうとしたが、やり場のない苛立ちと腹立たしさと羞恥と、そして少しの恐怖に加えて寝不足で鈍くなった頭では判断が出来ない。
…絶対に証拠を掴んでやる。
カラスの羽も、そして祠の前の殺人事件も。
意地になりつつある遼は佐藤にバレないように、けれど気持ちをそのままストレートに視線に込めて、体育教師の足元を睨みながら
彼の横を通過して校内に向かった。
「おー、真田。いいところにいた」
下足でのろのろと靴を履き替えていると、自分を呼ぶ声がする。
振り返るとそこに居たのは担任の麻生だった。
「あ、先生。…おはようございます」
「おう、おはよう。真田、今日な、サッカー部の練習するって顧問の小林先生から伝言を預かってるぞ」
「え」
初耳だ。
スパイクも何も持ってきていない遼は、驚いて目をパチクリとさせた。
それだけで何が言いたいのか解ったのか、麻生は苦笑いをして教え子を見た。
「今朝急に決まったんだよ」
「え、でもグランド、使えないんじゃ…」
「ああ。あのカラスの羽のせいでな。だから市民広場を借りる事にしたそうだ」
「市民広場?」
「そう。学校を出て真っ直ぐ行った先の住宅街があるだろ?あの中に市民広場があるんだ。割とすぐ解る場所で……って解るか?」
「……多分」
「まぁ自信がなかったら先輩たちについていけ。大丈夫、みんな今日聞いたばかりだから何も持ってきてないさ。だから体操服で、運動靴で、
それで軽く身体を動かす程度に部活をする予定らしい」
3年生が部活最後なのに、何も出来ずに引退じゃ可哀想だろ。
そう言って麻生は笑った。
言われてみればそれもそうだと遼も納得する。
自分は未だ時間があるが、3年生は夏休み前に引退する事が決まっている。なのに部活が思うように出来ないのでは、何だか締まらない。
「じゃあ、…わかりました」
「うん。朝礼の時に言おうかと思ったんだけど、うちのクラスのサッカー部は真田だけだからな。覚えてるうちに言えてよかったよ」
そしてまた麻生は笑う。
30代半ばの担任は快活だ。
だがその麻生の表情がすぐに曇った。それを遼が訝しむ。
「…?どうしたんですか?先生」
「あー、…いや………うん…」
彼にしては珍しく歯切れが悪い。
それどころか何故か周囲を見渡して、何かを伺っているようだ。
何か気になることでもあるのだろうか。
それを尋ねようかと思った遼に、麻生はある方向を指差す。
「真田、ちょっとだけ時間、いいか?」
示した場所は生徒用の下足室ではなく、来客が主に使う通用口もある方向だった。
通用口の近くは教師がたまに通る程度で、この時間帯に生徒が通る事はない。
だから今、そこに居るのは麻生と、その麻生についてきた遼だけだった。
「…どうしたんですか?」
改めて聞く。
すると麻生は何かを決めたように、遼を見つめた。
「真田、……お前、何かあったのか?」
「え?何かって……?」
麻生の目は真剣そのものだ。
遼はそれに首を傾げて見せたが、麻生が畳み掛けるかのように口を開く。
「お前、休校明けから少し変だろ。一昨日は落ち着きがなかったし、昨日は妙に浮かれてた。で、今日は全然覇気がない」
一昨日は、早く警察に行かなければという事ばかり考えていた。
昨日はやっと警察に行った事で、心が軽くなっていた頃だ。
そして今日は例の電話(と、当麻との事)のせいで気持ちが晴れない。
麻生の言う通りだ。
だがそれにどう答えて良いのか悩んで、遼は何度か口を開きかけてはやめてという事を繰り返す。
それを見た麻生は、一度深呼吸をして、そして遼に体ごと寄って「あのさ」と切り出した。
「真田、お前……もしかして”あの事件”のこと、何か知ってるんじゃないのか?」
「……!?」
イキナリ出された言葉に、遼は素直に反応してしまった。
「お前、休校中に学校に来てただろ?……若しかして、警察に話があったんじゃないかって…思ったんだけど…」
「そ、……それは……」
麻生の考えは正しい。
だが今は言えない。犯人として確率が高いのは学校の関係者だ。
遼が思うに、それは佐藤で、その佐藤がこの近くの廊下を通らないとは限らない。
そんなところで素直に答えるわけにはいかない。
どうしよう。
そう思って目を泳がす。
その視界の、麻生の斜め後ろにある物を見て遼は固まった。
「…………………、」
公衆電話だ。
携帯電話の普及で今ではあまり見かけなくなった公衆電話は、それでも病院や駅、道でも時折見かける事はある。
万が一の場合の連絡手段として設けられたそれを普段では遣う事がなかったから気付かなかったが、そう言えば学校にも設置されていた。
宿直だった佐藤。
校内には公衆電話。
そう言えば入学直後に緊急連絡先として、自宅の電話番号の他に携帯電話の番号とメールアドレスの提出を求められた。
個人情報だからと言って生徒たちに互いの連絡先が公表される事はなかったが、教師たちはそれを持っているはずだ。
それが紙なのか、パソコンのデータなのかは知らないが、それでも教師ならそれがどこに保管されているか、知っているはずだ。
靄のかかっていたような遼の脳が、一気に活性化する。
伸が言っていた。昨日、佐藤は職員室で何かしていた、と。
それは、”何”だったんだろうか?
「…真田?」
急にある一点を見つめて動かなくなった教え子を不審に思った麻生がその視線を辿ると同時に、8時40分のチャイムが鳴った。
*****
公衆電話はかなり古いタイプで、緑色のものです。灰色じゃない。