浦沢町1849-5
あれ程までにあからさまな好意だ、当麻が気付いていないとは思いにくい。
3人の暮らしは一体どうなっているのかと考えているうちに遼は何だか落ち着かなくなり、椅子の上でもそもそと姿勢を変えた。
「当麻、去年のノートですが、この中にあると思いますわ」
そこにそう言って迦遊羅が戻ってきて、遼は驚きに小さく肩を揺らした。
彼女の持つ段ボール箱は 一抱えほどで、とても大きいという物ではない。それを抱えてスタスタと机の傍まで近付いてくる。
すると当麻は、やっぱりここでも顔をあげないまま「そっちの机の上に置いといて」と遼の目の前にあるテーブルをペンの先で示す。
迦遊羅が指定された先に向きを変えたので、何も机に足を乗せていたというわけではないが遼は少し足を縮める仕草をした。
「ありがとうございます」
意味のない行為だったが、それでも迦遊羅は微笑んで礼を言ってくれた。
その笑顔にドキドキ半分、当麻の貞操問題についてもドキドキ半分の遼の目の前に箱が近付いた。
遼のカバンの方が大きく見える段ボール箱。それが机に置かれる。
ドスン、という、重い響きを伴って。
「………………!?」
明らかに、物凄く重い物が入っている音だ。
思わず遼は段ボール箱と迦遊羅を交互に見た。
ここに現れた時の彼女は重い物を持ってきたという雰囲気など微塵もなかった。大きさも遼たちの学校で配られるA4の用紙より少し大きいものが
みっちりと入れて1000枚ちょっとくらいだろうか、その程度の大きさに見える。それを彼女は抱えてきた。
「…?どうかなさいましたか?」
見られた迦遊羅が不思議そうに聞き返してくる。
その彼女の腕はとても細い。病的な細さではないが、ほっそりとしていて、何というか華奢で儚げだ。
それが、ドスン、だ。
「え、あの、………重そうな音がしたなって思って…」
「紙1枚だと弱い風でも飛びますけれど、束になればそれなりに重みはありますからね」
うふふ、と迦遊羅は笑って言った。
「雑誌も3ヶ月も溜めると結構な重さになるしな」
「ですから当麻、目次を見てから買えばよろしいと何度も言っているではありませんか」
もう仕方のない人、と言わんばかりに迦遊羅はクスクスと笑っている。
だが遼が言いたいのはそういう事ではない。
「最近思ったのだが、雑誌を買わずに本になるのを待って買えばいいのではないか?」
そこに湯飲みを4つ乗せた盆を持った征士も加わってくる。
その意見は確かに同意できるが、だから遼はそういう事が言いたいはない。そういう話がしたいのではない。
紙も束になればかなりの重量になる事は遼だって知っている。
だがそれを迦遊羅のような細腕の人物が、まるで洗濯物の入ったカゴを運ぶような足取りで運んできた事に驚いたと言いたかった。
しかしもう彼らの話はそれとは違う方に向いてしまっているし、そこに割って入るだけの話術も自己主張の強さも遼は持っていなかった。
少々消化不良だが仕方がない。
彼らのこういう所は寧ろ好きな方だし、それにこういった普通の遣り取りを見ているとさっき浮かんだ懸念は消えていく。
だから、まぁ良いか、と思う事にした。
「おい、迦遊羅。この箱をどけろ。お茶を置く場所がない」
「あら……どうしましょう、当麻」
「えーじゃあどっか適当に置いといて」
当麻がそう言うと、やっぱり迦遊羅は重そうな段ボール箱をひょいと持ち上げて、今度は当麻の使っている机の足元に箱を置いた。
またドスンという音が響く。
箱がなくなったスペースに征士は盆を置き、一緒に運んできた台拭きで机をさっと拭くと、先ずは当麻の机に湯飲みを1つ。
それから遼の前に1つ、その隣に1つと自身の目の前に1つ置いた。
「当麻、そろそろ休憩にせんか」
「うん、でもあとちょっと」
やっぱり当麻は顔をあげない。
征士が軽く溜息を吐いた。
「あまり根を詰めるな」
「いや解ってるけどさぁ」
「タイヤキは要らんのか」
「要る」
「なら後で食べるか?」
「今食べたい」
「では休め」
「無理、口に入れて」
俯いたままで、あーん、と口を開ける様は間抜けそのものだ。
だが本人はあくまで真剣なつもりらしく、ノートから目を離さず、ソロバンもパチパチと弾いたままだ。
仕方無しに征士が手にしたタイヤキを半分に割り、それを口元に持っていくと当麻はそれを咥えて、手も使わずに器用に食べ始める。
それでいいのか…
遼はちょっと呆れてしまった。
その遼の隣に腰を下ろした迦遊羅が、お茶を一口飲んでから「そう言えば」と切り出す。
「遼、あなた何か良いことがあったのかしら?」
「え、」
向かいで征士も頷いている。
「ここに来て一番、元気そうにしているな」
「良いこと、あったのですわね」
「あ、……そ、そうそう!そうなんだ!」
良いことと言われると少し違うかもしれないが、それでも心が軽くなる事はあった。
それを話したくて今日はここを訪れたことを思い出した遼は大きく頷く。
「俺、昨日、やっと警察に行って話してきたんだ」
「ほお」
「あら」
胸を張って言えば、2人のつり上がった目が大きく開いた。そしてゆっくりと優しい目になる。
「そうか、良かったな」
「これでもう、不安はありませんのね」
「うん」
喜んでくれたのは征士と迦遊羅で、ノートから顔をあげていない当麻の声は聞こえない。
一番褒めて欲しかった彼からの言葉が無いので、遼はそっと横目で盗み見た。
「そうか、良くやったぞ、遼」
気配で気付いたのか、当麻も言ってくれた。声は平坦だったが、それはさっきからずっとだ。
仕事をしながらだからそれは仕方がない。
何より、聞いてなかったか、それかそんな事の報告に態々来るなと思われていたらどうしようと少し不安になっていたから、良くやったと言われて
遼はとても嬉しかった。
「うんっ」
さっきよりも力強く頷くと、当麻はソロバンから手を離して机の上の何かを探し始める。
何を、と思っているとそれに気付いた征士が立ち上がり、その手に湯飲みを渡してやる。
それを受け取ると、少しだけ顔をあげた当麻はお茶を飲み、そしてまたノートに向かって俯いた。
「………忙しいか?」
「仕事してんだから忙しいのは当たり前だろ」
余り長居すると迷惑かと気遣って聞けば、ぶっきらぼうな答えが返ってくる。
短い付き合いなりに当麻の性格から考えると、別に迷惑ではないらしい返事に遼はまた安心してタイヤキに手を伸ばした。
タイヤキを2つ食べてお茶も飲み干して、そして一息つくと遼は当麻の様子をもう一度伺った。
食べたタイヤキは1つ。お茶は2回おかわりしていた。
その間中、ずっと領収書の処理をするか過去のノートを見て何かを考えるばかりで、一向に椅子から降りる様子がない。
会話には参加してくれているが、誰の顔も見ようとしない。
やっぱり忙しいのかと思って多少は気を遣った方がいいのかと他の2人を見ても、どちらも仕事にかかりっきりの店主に構うことなくいつも通りに
遼の何気ない話に付き合ってくれている。
って事は、当麻は忙しそうだけど別にいいのか。
店主の姿勢が違うだけだと思えばいいのだと判断した遼は、いよいよ一番話したかった事を切り出す事にした。
「あのさ、当麻」
「んー?」
「今日、学校に行ったらさ、用務員のオジサン、来てたんだ」
「用務員って…あの死体見ちゃったオジサン?」
ニュースだけでなくワイドショーでも例の事件は取り上げられている。
第一発見者が学校にいる用務員だという事も殆どの人間が知っていることで、それは当麻も知っている。
その彼が来たことを遼は告げた。
「うん。本当はもう少し休みの予定だったんだけど、家にいるのが却って怖いって仕事に戻ってきたんだよ」
「へー……まぁでもそうだよな。家に1人でいると色々考えちゃうんだろうな」
「うん、オジサンもそう言ってた。それから……」
意図的に遼は声のトーンを落とす。
ここからが彼に一番聞いて欲しい事だ。
「体育教師の、佐藤ってのも来てた」
「佐藤って誰」
間髪いれずに返事。
「死体を見ちゃったオジサンを助けに行った教師」
「あぁ、通報した方の発見者か、その佐藤先生ってのは」
遼が呼び捨てにしたものを当麻は律儀に”先生”とつけて呼んだ。
何気ない事ではあるが、彼の普段の発言からは思いも寄らない言葉に遼はちょっとだけ言葉を呑む。
そして少しだけ間を置いてから頷いた。
「うん、……で、その佐藤、」
思案して、それから。
「…先生なんだけど、実は昨日も来てたって」
「どこに」
「学校」
「そりゃ先生だからな。何か駄目なのか?」
当麻がノートを捲る。
何かを見つけたのか眉間にしわを刻んでから、領収書の束を捲り始めた。
「学校の先生だけど、佐藤、先生も死体を見たから、学校側から休めって言われてたんだよ」
「あ、生徒の余計な好奇心を煽らないようにっていう配慮ね」
「うん、そう」
領収書の束から目当てのものを見つけたらしい当麻はまたノートに何か文字を書き込んで、それから過去のノートと見比べている。
ここに来てから今までずっと忙しなく手を動かしているが遼の話はちゃんと聞いてくれているようで、生返事はしていない。
いい加減な対応ではない様子に遼は内心喜んで、そして意気込んだ気持ちそのままに上体を当麻の方に傾ける。
「それなのにさ、佐藤先生は学校に来てたんだ」
「1人でいるの、先生も怖かったんじゃないのか?」
「でもさ、それなら最初からそう言えばいいのに何て言ったと思う?」
「さぁ?」
普通こう聞く時は、少しは考えて欲しいという気持ちがあるというのに、当麻の答えはつれない。
彼はいつもこうだから別に気にしなくてもいいのだが、それでも遼は物足りない気持ちになって口を尖らせた。
「ちょっとは考えてくれよ、当麻」
「それは俺が考えなきゃいけない事じゃないだろ。で?何て言ったんだ?」
「………………………。…”休日があったから月曜日と間違えた”って」
「あーなるほどね」
「でもさ、それで朝早くに来たんだぜ?」
「普段の月曜日は早く来てるとかそういうのとは別で?」
「……………まぁ、確かに佐藤先生は毎週月曜は早いけど…」
「じゃあ普通だろ。間違えて学校来ちゃったんだ、律儀な上にご苦労なことだな」
俺なら絶対に寝てるなぁと言う当麻を、遼はもどかしい思いで見た。
確かに自分の言葉は随分と足らなかっただろう。それは反省する。
だがこういう話を振っているのだ、言いたい事を少しは汲み取って欲しい。
「でもさ、当麻、ちょっと考えてくれよ」
「だからそれは俺が考える必要があることか?」
「そうじゃないけど……だってその佐藤が早かった朝に、カラスの羽が撒いてあったんだぜ?」
まだ誰も来ていない学校に、月曜日と間違えたといって来ていた佐藤。
校門からすぐ見えるのは校舎であり、その校舎内を抜けるか、迂回しなければグランドには出ることが出来ない。
廊下に窓はあるが、グランドを見ずに職員室に行く事は可能だ。寧ろグランドを見ようと思うと態々そちらに目を向けなければならない。
特に気になっている事がなければ生徒達だってグランドを見ずにそれぞれの教室へ行く。遼もそうだ。
だが、だとしても気にはなる。
「佐藤はいつもの月曜日と同じ時間に学校に来たって言ってるけど、誰も見てないんだ、もっと早くに来てる可能性だってあるじゃないか」
「あーなるほどね」
「それに佐藤は月曜日に通報して警察との話が終わった後はずっと休みだった筈なんだ、時間なら沢山あるだろ?」
「沢山あるから何だよ」
当麻の顔が漸くノートから離れた。と言っても遼の方を見るではなく、机の引き出しを漁っている。
中から判子と文房具屋でも見る朱肉を出してきた。
「じ、時間が沢山あるヤツが、カラスの羽を撒いたんじゃないかって言ったの、当麻じゃないか!!」
思わず遼が立ち上がって半ば叫ぶように言った。
だが当麻は朱肉につけた判子を、ポンポンとテンポ良く紙に押している。
自分の方を見ないし、話を聞いていないではないにしてもあまりに素っ気無いその態度が、雑な対応に見えてきて遼は苛立った。
「で?」
「佐藤がカラスの羽を撒いたんじゃないか言ってるんだよ!朝のうちに来て撒いて、知らん顔で職員室に逃げ込めば誰かが気付くだろうし…!
それに死体の発見だってさ、用務員さんの普段の仕事の順番を知ってたら充分手回しできる方法だし、死体を見たのにオジサンを抱えて逃げて、
通報まで出来る位に冷静だったのって変じゃないか!オジサン、腰抜かして、しかも痛めたくらいなのに!」
「つまり何が言いたいんだよ、お前は」
あくまで、冷静なトーン。
それが余計に遼の気持ちを逆撫でした。
「だから……っ!…あの事件の犯人が佐藤じゃないかって言いたいんだよ!!」
学校の教師なら裏門の鍵の保管場所くらい知っている。理由は知らないがどうにかして鍵を取り出し、女性を誘き出してそこで殺害する。
祠への道は砂利だ、足跡は箒などを使えば簡単に消せるのだろう。あの時、遼を追ってこなかったのは後処理をしていたからに違いない。
そして後は裏門を開け放ったままにしておけば、翌日には焼却炉を動かしに寺本がそこへやってきて勝手に気付いてくれる。
自分はそこに後から行って通報すればいい。
誰か(遼)に見られたのは予定外だったが、それでもあの場所は天狗の祠だといわれている場所だ。
それに因んだ嫌がらせをすれば、学生くらい、脅せると思ったのだろう。
それが遼は腹立たしい。
その思いもあって当麻に話した。
何のかんので尤もな事を言う彼からこの考えについて同意を得られれば、遼としてはもう殆ど正解と言っていいとさえ思っていた。
なのに当麻の態度はこれだ。
どうしても聞いて欲しくて、つい、遼は声を荒げてしまった。
それを恥じて耳まで赤くすると、漸く当麻がノートから顔をあげ、椅子ごと遼のほうに向き直ってくれた。
「遼」
「……………うん、…」
仕事を中断させた事が、申し訳ないという気持ちまで連れてくる。
折角目を合わせてくれたのに、遼は耐え切れずに俯いた。
「前にも言ったと思うけど、ここは警察じゃない」
「…うん」
「探偵でもない、ただの骨董品屋だ」
「……………………」
もう遼のほうを向いてくれているのに、当麻の声はあまりにも冷い。知らず、遼は拳を握り締める。
「お前の少年探偵気取りの推理をお披露目する場所じゃない」
少年探偵。
そう言われて遼は頭に血が上る。
そんな得意げに語ったつもりはない。
ただ、彼からの同意が欲しかっただけだ。
別にそれで何がしたいというわけではない、なのに。
「そういう事は、そういう事でお金を貰ってる警察のオジサンたちが頑張ってくれることなの。お前が首を突っ込むことじゃない。解るな?」
「……………………」
「好奇心旺盛なのはいいけど、それで何かあったらどうするつもりだ」
いつもだらしないくせに。
到底”大人らしい”とは思えない人間のくせに。
「…………………ったな…」
「ん?」
「仕事の邪魔して、悪かったな!俺、帰る!!!」
グルグルと出口のない怒りのような悔しさのような、恥ずかしさのような感情が腹の中で渦巻いて、遼はカバンを掴むと振り向きもせずに天空堂を飛び出した。
誰の声も、姿も追って来てくれなかった。
それが余計に遼の感情をかき乱した。
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帳簿は毎日ある程度整理はしているものの、きちんと書き写すのは月に一度。
電卓ではなくソロバンを使うのは当麻の趣味です。