浦沢町1849-5
伸と別れた遼はスーパーの横を素通りしてそのまま道を進む。
「…あ、」
すると少し前に、見知った後姿を見つけた。
薄い緑の着流し姿の人物の髪は豪奢な金髪で、雨など降る予定も無いのに左手に番傘を持っている。
それは間違いなく。
「征士…っ!」
声を弾ませて走り寄ると、名を呼ばれた美丈夫はいつものように無駄のない動作で振り返ってくれた。
「遼ではないか。今帰りか?」
「うん。征士はこんなトコロで何をしてたんだ?」
追いつくと遼は首を大きく傾けて征士を見上げた。
背が高いのは解っていた事だが、思っていた以上に見上げなければならない状況になって初めて、遼は征士の横に並ぶのが初めてだと気付く。
幾ら日本人が小柄だとは言え同じ男としてこっそり悔しい思いをしている遼の気持ちなど知るはずもない征士は、表情が乏しいなりに笑みを浮かべて、
右手に持った袋を持ち上げて見せてくれた。
「…?なに、それ」
「タイヤキだ」
「タイヤキ……当麻に頼まれたのか?」
ヘンテコ店主が物を食べているのを見たのは昨日が初めてだが、どうやら甘いものが好きらしいというのはそれだけで充分解った事だ。
その彼が所望したのかと尋ねると、征士は頷いた。その動きさえ無駄がない。
「え、じゃあ今日、お客さん来てるのか?」
一昨日に尋ねた時、来客があるからと追い返されたことを思い出した遼が明らかにガッカリした声を出すと、征士は首を横に振る。これも無駄がない。
「いいや、そうではない。ただ頭脳労働をしていると糖分が必要になるらしくて、それでだな」
「頭脳労働?何してんの、当麻」
言葉だけでは想像がつかずに遼が更に尋ねると、征士は面倒な顔1つせずに付き合ってくれる。
…もしかしたら表情が乏しすぎて解らないだけかも知れないけれど。
「今日は月に1度の在庫確認と帳簿の見直しの日でな」
「えぇっと…………」
在庫確認というのは言葉のままに店の商品の確認だろうとは解る。
一方で帳簿というものはテレビの中でしか聞いたことのない遼にはピンとこない言葉だ。
だがそれでも、それが”仕事”だというのは解った。
「…じゃあ今日、俺、行ったら邪魔になるかな……?」
伺うように聞くと征士は「いいや」と言った。
「来ても構わん。当麻の気分転換にもなるだろうし、それに」
「それに?」
「お前の事は当麻も気に掛けていた。元気ならその顔を見せてやってくれ」
前は徐々にいつもの自分の日常の世界へ戻るかのような気持ちで辿った道を、今度は徐々にあの不思議な町並みへと向かう。
迦遊羅と駅に向かった時の景色とは逆の光景だ。
左にあった乾物屋は右に、本屋は左に。
当たり前のことだがそれが何故か面白く感じる。
最初はそんな風に考えていたのだが、少しずつ無言で歩くことが気まずく思えてきて遼は隣に要る征士を盗み見た。
白く綺麗な肌に金の髪。瞳の色は薄い紫で明らかに日本人とは違う色彩。
どういう経緯で日本に来たのかも、どうしてこんな格好をしているのかも謎の人物は、よく考えてみれば迦遊羅が最初に零した情報以上の
事を何も話してはくれない。
よくよく思い出してみれば何くれと話しかけてくれる迦遊羅や、一を尋ねて十も百も返してくる当麻と違い、彼はあまり口数が多いほうではないようだ。
だが話しかけられる事に対しての嫌悪感は見られないことから、特別沈黙を好む性質でもないらしい。
遼はといえば、実は親しい人以外との沈黙は苦手な方だった。
伸のように気の置けない友人ならば平気なのだが、幾ら安心できる相手とは言っても征士とはまだ知り合って日が浅い。
迦遊羅の時同様に、遼は何か話題を捜す事にした。
「あ、あのさぁ、征士」
「………何だ」
相変わらず顔は前を真っ直ぐ向けたまま、視線だけで征士が遼を見た。
たったそれだけの事なのに、まるでドラマや映画のワンシーンのように見えて何だか気恥ずかしくなった遼だが話をやめるワケにもいかず、目は逸らしつつも
腹に力を込めて気合を入れた。
「征士って…その…………クリスチャンなんだよな…?」
初めて天空堂を訪れた日に迦遊羅が言っていた。
イギリス人で貴族でカトリックの、何とかと。
社会科の授業はあまり得意ではない遼でも、カトリックがキリスト教だという事くらいは知っている。
日本人だと言い張る彼に聞くのはあまりよくない話題かとも考えたが、それでも彼を知りたくて思い切って聞いてみた。
「………………」
「………………」
だが返事がない。
いきなり拙いことを聞いたかと恐る恐る視線を上げると、征士が仕方がないというように溜息を吐いた。
「迦遊羅が言った以上はもう隠せないが……そうだ。私はクリスチャンで、そして…………日本人ではない」
「………………………………うん」
知ってた。
ていうか、多分、この商店街の人たちも、みぃんな知ってると思う。
と言いたいのを遼はぐっと堪えた。
「だが私の心の故郷はこの国なのだ」
「……何で?」
決してふざけているのではない征士に、遼は質問を重ねる。
今度は溜息は吐かれなかった。
「私が生まれたのは海を渡った先だ。だが私はずっと違和感を感じていた」
「違和感?」
「ああ。生まれた土地で、生まれた家なのに何故かずっとしっくり来なかった。ベッドも椅子も、言葉も空気も全てが」
思い出した生まれた土地の事を、嫌悪感ではなくただ淡々と征士は語る。
誰が嫌いだ何が嫌いだという事ではないのに、ただ只管に少しずつ落ち着かなかった、と。
「私はそれを邪な何かが原因だと思い、神に仕えることで払拭しようとした。だがそれでも上手くいかなかった。
決して教義に納得がいかないのではない。だがどうしようもない違和感だけはずっと続いていた」
「…辛かった?」
彼があまりにも淡々としているので不安になり、遼が聞く。
すると征士は首を横に振って「いいや」と短く答えた。
「そういう物なのだと思っていた。私自身が理想を追いすぎているのだろうと。…だが出会ってしまったのだ」
「何に?」
「…………………浮世絵だ」
「………………」
宝物の名を呼ぶように浮世絵と言った征士は、今までと違いうっとりとした表情を見せる。
「私はそれを見て、これだと思った。この国こそ私の本来の故郷なのだと」
「…それで日本に?」
つまり、迦遊羅の言うとおり本当に”日本かぶれ”だったワケだ。
何かもっと深い事情を期待した遼は、勝手ながらガッカリしてしまう。
だが征士はまた首を横に振った。
「日本に来たのはそれだけではない。神に仕える身としての使命を全うするためだ。…確かにその場として日本を選んだのは私自身だが」
「使命って…………あぁ、布教?」
「いいや、私の仕事はそちらが主ではない」
「じゃあ何しに来たんだ?」
「それは明かせない」
遼が聞く事に澱みなく答えてくれていた征士が、ここでキッパリと拒否を見せる。
だから遼も無理に食い下がらない事にした。
あの店の人間に関しては解らないことが多いが、それを全部聞き出すのは正しい事とは言えない雰囲気がある。
尤も、間違った事とも言い切れないのだが、兎に角、有耶無耶のままで良いものはそのままが良いのだろう。
「………そっか。…今もその仕事をしながら天空堂で働いてるのか?」
「いいや、神に仕える身としては必要がある時にのみ働く。基本的には私は天空堂の従業員だ」
「浮世絵、好きだから?」
あの骨董品屋にそんな物があったかどうかは解らないが、偶々置いていなかっただけで普段から目にすることも一般よりかは多いのかと
思って軽く聞いてみれば、征士からは苦笑いが返ってきた。
「…?」
「私が天空堂にいるのは浮世絵や日本古来のものが多いからではない」
「そうなのか?」
「ああ。私があそこにいる理由は、当麻だ」
「とうま…」
浮世絵よりもずっと丁寧に店主の名を呟く征士に、遼は迦遊羅の話を思い出した。
彼女は当麻の事を”素晴しい”と語っていた。
では、征士も…?
「その、………迦遊羅から聞いたけど…」
「何をだ?」
「迦遊羅と争ってるときに当麻と出会ったって」
内容は詳しく知らないが征士と先に出会って、そしてその直後に当麻に出会ったような事を彼女は口にしていた。
そしてよく解らない流れであの店に居ついているという。
余りにも内容が曖昧だったので、征士の記憶ではどうなのだろうかと遼の好奇心はそちらに向かった。
「それ、本当?」
「ああ」
「え」
何か脚色があったのではと少し思っていた遼には意外な答えだった。
やはり征士と迦遊羅は何かの理由で争っていたらしい。
「それってどういう事…?」
聞いて答えてくれるかは解らないが、それでも遼は尋ねた。すると征士は「あの時は」と口を開く。
「私は自分の知る世界だけが正しいと思い込み、そして迦遊羅は自分の欲求にのみ従う事こそが幸せだと思い込んでいた。
私たちの意見はいつまで経っても平行線で互いを否定することしか出来なかった。その私たちに当麻は教えてくれたのだ。
全ての命が1つから見た面の正義に従って生きているのではないという事と、欲求を追い続けても満たされる事はないのだという事を」
「………………………」
やっぱりよく解らない。
ただ何となく征士自身の話と重ねてみると見えてくる事がある。
征士はクリスチャンだ。それも、多分、敬虔な。
そんな彼と、欲求を追っていたという迦遊羅は意見が相容れない。
恐らく彼女は無心論者か無宗教者だったのだろう。
だからこそ神を信じる征士と神を持たない迦遊羅は互いに意見がぶつかり合い、そして言い争いになっていたのを当麻が止めに入ったのだろうか。
「……………」
ちょっと考えてみると、これが中々に遼の中でしっくりと来た。
つまりはそういう事なのだろう。
そして喧嘩を仲裁した後で彼らを家に招き、食事を作ってやった、と。
「あの時、私は当麻に甚く感銘を受けた。改宗をしようと真剣に思った程だ」
「え、じゃあ今ってクリスチャンじゃないのか?」
「いいや、私は今もそうだ。…改宗をすると言った私に、当麻が言ったのだ」
「何て?」
「何も全てを捨てる必要はない、と。国も名も捨てた私に当麻はそう言ってくれたのだ」
「…そうなんだ」
なるほど、確かにそれを聞くと随分とルーズな格好をしている店主だが、とても寛大で慈悲深い人物に聞こえてくる。
その言葉に感銘を受けたのは征士だけではなく、迦遊羅もそうだったのだろう。
だから彼らは”素晴しい”当麻の傍で生きることを選んだのだろう。
思い返してみても、そういえば当麻は言葉は兎も角として、常に冷静で真っ当なことを言っている。
そう言えば元々自分は人見知りなのに彼には自然に近付くことが出来た事に遼は改めて気付いた。
近寄りがたい雰囲気があるのに、何故かその傍は居心地が良い。当麻は不思議な空気を持っている。
「当麻って何か……面白いな」
そう口にすると征士も笑い、そうだなと言ってくれた。
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タイヤキはオーソドックスに餡のみが80円。栗が入ったものは120円。
当麻はカスタード入りも売って欲しいと思っていますが、店長さんに言わせるとそれは邪道なのです。