浦沢町1849-5



事件発生から4日目になる木曜日に、遼はやっとの思いで清々しい朝を迎えることが出来た。


昨日、天空堂を伸と訪れた後は2人で地元の駅まで帰り、そして彼と別れた後で遼はすぐに家から少し離れた交番へと駆け込んだ。
家から一番近い場所にしなかった理由は、単に近所の人たちに交番にいる姿を見られたくなかったからだ。
何か悪さをしたわけでも被害に遭ったわけでもないのだが、何となく近所の人たちの遠巻きな会話の中心にされるのは嫌な年頃だ。
それはさて置き、交番に入ると待機していた警官に先日の事件直後の光景を見たと伝えた。
すると、制服姿の遼を気遣った彼は先ず奥の部屋へ案内し、そして担当している刑事たちに連絡をとって、交番まで彼らを呼んでくれた。

少しするとスーツ姿の警察官が2人現れ、そこで自分が見たのは天狗の格好をした男だったこと、時間が大体何時ごろで、どの位置からその光景を
見ていたかという事を全て話した。
警察の人間から聞かれたのは事件現場の様子の他に、当日もそのスニーカーを履いていたかという事だった。
どうも現場に残っていた足跡は祠の様子を見に行った用務員の寺本と、彼の悲鳴を聞きつけてやってきた佐藤のものしかなかったらしい。
天狗が履いていたのは確かに一本下駄で、自分が履いていたのはこのスニーカーだと答えると、2人の刑事は何かを考えて互いに頷き、
そして証言をしてくれた遼に礼を言いながら直に解決させてみせると誓ってくれた。
この時の彼らの言葉は安心させるためのものというよりも、もっとハッキリと確信を持っているように聞こえた。

お陰で遼はとても清々しい気持ちで目覚めることが出来た。

休校明けから既に通常授業に戻っているためにカバンの中には教科書と弁当が入っていて昨日と同じ重みがあるはずなのに、軽く感じる。
肩の荷が下りた嬉しさから遼は自然と小走りになって駅から学校へと向かった。




「……あれ?」


見慣れた校門が見えてくると遼の軽やかな足取りはペースが落ちた。
門の近くに用務員の寺本の姿が見える。確か彼は死体の第一発見者で、しかも発見時に腰を痛めたからと学校側から休みを言い渡されていた筈だ。
それには興味津々の学生たちから守るための意味もあったはずなのに、何故か校門前の清掃を、事件前と同じようにしている。
そして、やっぱり登校してきた生徒の全てではないが何人かに声をかけられていた。

遼もちょっと気にはなっていた。
自分が見た光景の数時間後を見た彼もきっと自分と同じように不安だったのではないかと思うと、妙な仲間意識も生まれてくる。
心配しつつその傍を通ったときに、遼は彼におはようございますと声をかけた。


「…?あ、ああ、おはよう」

「おはようございます。その…もう大丈夫なんですか?」


聞くと寺本が穏やかな笑みを浮かべた。


「正直、大丈夫じゃないんだけど……家で何もせずにじっとしてる方が色々と考えて不安になってしまうからね、無理を言って昨日の夕方からコッソリ
仕事に戻してもらったんだ」


そう言って箒を握る寺本の手は震えていた。
まだ乗り越えられていないのだろう。
天空堂に行って相談することで遼の不安や恐怖は軽減したが、きっと彼はそういう場を得られなかったに違いない。
それを思うと自分だけが楽にになったように感じて、遼の心は苦しくなる。


「そうですよね、…あんなの見たら、やっぱり怖いですよ」

「…………?」


痛いほどに気持ちが解る遼が言葉を口にすると、寺本がきょとんとした顔をした。


「……え?あれ?」

「……あ、ああ、そうか。キミはサッカー部だったね。そうだそうだ、あの時私がもう帰りなさいと声をかけた中にキミもいたな」

「はい、そうなんです」

「そうか……しかしキミたちも災難だったね」

「災難?」

「ああ…その、昨日聞いたんだよ佐藤先生から。何でもサッカーゴール前にカラスの羽が撒かれてたって……」


相変わらず震えたまま、怖かっただろうと気遣いを見せてくれる寺本に、今度は遼がきょとんとする番だった。


「え?佐藤…?」


大柄とは言いがたい、まるで豆のような容姿で口煩い教師の名を呼び捨てにすると、寺本が咳払いをした。
それに気付いた遼は慌てて、けれど小声で「…先生」と付け足した。


「あの、佐藤、…先生もオジサンと一緒で昨日は休みだって聞いたんですけど…」


腰を痛めた寺本と違い佐藤の方は至って元気だったが、生徒達の好奇の目から守るためにと彼も休みを言い渡されていた筈だ。
だから昨日、遼たちのクラスの体育の授業は佐藤ではなく、代理で他の体育教師が受け持ってくれていた。
佐藤は休み。なのに何故、その彼がカラスの羽の事を知っているのだろうかと不審に思って聞くと、寺本が「あ」と小さく漏らした。


「…しまった。若しかして内緒だったのかな」

「内緒?」

「うん、……その、……内緒なんだ」


今更内緒と言われても聞いた言葉を忘れる事は出来ない。
だから遼は首を傾げて、何が?というサインを送ってみた。


「うーん……私が言ったこと、内緒にしててくれるかな?」


ちょっと困ったようにしていた寺本だが遼に引く様子がないと悟ると小声になり、遼が約束を守ると誓った事を確かめて「じゃあ、」と切り出した。


「じゃあ言うけど…佐藤先生はね、実は昨日、学校に来てたんだよ」

「学校に?何で?」

「何でも1日休んだらその日が日曜日のように感じて、だから次の日を月曜日だと思っていつものように登校してきたらしい」

「いつものって……じゃあ7時ごろに?」

「うん。でも学校に着いてすぐに今日は月曜日じゃなくて水曜日だって思い出したらしくてね」


そして自分が休みを言い渡された身である事を思い出した佐藤は、生徒達に見つかる前に帰ろうとしたらしいのだが、そこに早朝練習で登校してきた
生徒達の姿を見て慌てて職員室に隠れたそうだ。
暫くやり過ごしてこっそり帰ろう。そう思って。
ところがそこに彼らのザワつく声が聞こえてくる。
だが何かと思っても姿を見せるわけにもいかない。
生徒達の気持ち悪がっているような声は気になるがどうにも出来ず、佐藤は仕方なくそのまま他の教師が職員室に入ってくるまでの間、
床に張り付いて過ごしていたという。


「……え、じゃあ佐藤、先生はいつ帰ったんですか?」

「私がこっそり学校に来た2時半頃に、私と入れ替わりで帰って行ったよ。その時にカラスの羽の話をしてくれたんだ」


2時半といえばまだ6時間目の授業中だ。
1日の最後の授業で生徒たちも疲れてきている頃なら、職員室でのことなど確かに誰もあまり気に留めていないかもしれない。
その時に佐藤は帰り、そして1人でじっとしているのが辛くなった寺本が仕事に戻っていた。

ふぅん、と相槌を打った遼は、何かの役に立つかもしれないとその情報を心に留めておく事にした。

当麻から言われていた通りに警察へ話したことですっかり肩の荷が下りた彼は、今やちょっとした探偵気分だ。
放課後にはまた天空堂に行くつもりをしていたから、これも当麻に話しておこうと考えていた。


「佐藤先生、他に何か言ってましたか?」


他に何か情報を聞き出せないかと考えた遼が聞くと、寺本は箒を握りなおして視線を空へ向けた。


「他は………佐藤先生もやっぱり1人になるのは怖かったらしくてね…奥さんがパートから帰ってくる時間だから、そろそろ帰るって言ってたよ」

「……他には?」

「他だと…そうだな、事件の事は佐藤先生も相当驚いたらしいけど、私が腰を抜かしてまで驚いていただろう?だから自分は未だ少し
冷静でいられたってお礼を言われてね……いやぁ、お恥ずかしい」


顔色は悪いまま、それでも少しはにかんだ笑みを浮かべる寺本に、遼もどことなく安心した。
やはりこういう事は1人で抱えるよりも、どんな些細なことでも他愛無いことのように誰かに話した方が気が楽になる。
実際、遼も当麻たちに話すことで随分と気が紛れたし冷静になることが出来た。

有益な情報はあまり手に入らなかったが、少しは寺本の役に立てたと思うと遼は誇らしい気持ちになる。

だがその向かいで寺本の表情がまた曇る。
何かと思って遼が目で問い掛けると、寺本は心配そうな顔で少年を真っ直ぐに見た。


「何にしてもキミたちも大変だったね……不気味だっただろう」

「いえ、俺たちは大丈夫ですよ。まぁ……不気味は不気味ですけど」

「そうだよね、…天狗がいるっていう祠の前で事件があって、それでカラスの羽だ…………でも昨日の朝は流石に休んでて良かったよ、
そんな光景を見たら私だったらまた腰を抜かしてしまうかも知れないし…」


深い溜息を吐いた顔は色が悪く、日曜日に見たときよりずっとやつれて見えた。
あんな光景だったものなぁと理由を知っている遼はその姿に深い同情を浮かべる。

これ以上は彼を疲れさせるだけかもしれない。そう判断した遼は、あまり考えすぎない方がいいとだけ告げてその場を去る事にした。




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遼のスニーカーは赤いラインが3本入ったシンプルなもので、サイズは26.5cm。