浦沢町1849-5



その日、学校が急遽休校になることが解っていたから、遼はいつも使っている鞄に教科書も弁当も入れずに登校していた。
教室に着くなり案の定、担任は今日はさっさと帰るようにと真剣な顔で言ったので、遼はすぐに鞄を掴んで教室を飛び出した。

どこに行くのが正しいのか、昨日は悩んでいたが今日はもう答えは出ている。
正直、そこが正解かどうかは解らない。
そこしか頼る所がない、というのが正しいのだろう。

遼は兎に角走った。

校門を出て真っ直ぐ行った先の十字路を左に行けばいつも使っている駅だ。
何年も前から都市開発が進んでいるこの町の駅は比較的綺麗で、駅前も賑わっている。
ちょっとした飲食店が幾つかあるものだから、寄り道をする学生も少なくはない。
そして真ん中の道は新しく出来始めている住宅街に続いている。ここの住宅はどれも最近人気の外観をしていて、方向音痴の気がある遼が不用意に
足を踏み込んだ場合、迷子になる事は友人の誰もが解っていることだ。

その遼が進んだのは、右の道だった。

右の道が続くのは旧市街で、古い建物が比較的に多い。
特に目新しいものもなく、昔ながらの住人が住んでいるだけの場所には、仁志高校の生徒は誰も寄り付かない。
新興住宅地とは少し道を隔てただけだと言うのに道は狭く、電柱に張られている張り紙も古めかしい。
その光景は、寂しいと言うよりもどこか不気味な感じがしていた。

最近では見なくなった形のポストがある、営業しているのかいないのか謎のタバコ屋の角を曲がって遼は一度足を止めた。

確か先輩たちが言ってたのは、………。

逸る気持ちを抑えながら必死に思い出す。
入学して間もない頃、サッカー部に入部した1年生たちに先輩の1人が「ここだけの話」と言って聞かせてくれた道。


「タバコ屋の角を曲がった先の道を進んで、…きちんと数えた3つ目の細い路地を左だ…!」


確かそうだった、と遼は再び走り始める。



浦沢町1849-5。
そこに遼の求めるものはある。




学校が休校になったのは、学校のすぐ裏にある小さな山で殺人事件があったからだ。
事件現場は、何故そういう造りになったのかは解らないが、学校の中にある小さな裏門からしか行けない場所だった。
その先にあるのは小さな祠だけだ。何を祀っているのか教師たちも曖昧らしいその場所は、つまり学校の敷地を通らない限り入ることが出来ない。

その祠の近くで、女性の死体が発見された。

勿論、現在鋭意捜査中の情報は、女性の他殺体があったらしいという事以外は生徒達の耳には入っていない。
だが遼は知っていた。
凶器も、そして、犯人も。




きちんと数えた、と言われていた遼は3つ目になる場所の前で一旦考え込む。
タバコ屋の角から”きちんと”数えてきて、3つ目だ。
確かに、細い。
だが。


「…………これ、…路地って言うのかな…」


目の前にあるのは子供ならそのまま、大人なら身体を斜めにして漸く通れるような細すぎる道だった。
いや、これは道なのだろうかと少年は考える。
どちらかと言わなくても、家と家の間、と言ったほうがしっくりくるような細さだ。
だがその途中には電柱が1本、見えている。
よく見れば路地の先に「とまれ」の文字もあった。
ならばこれは立派に、道、なのだろう。
不安は残るが、先輩たちも言っていた。
”きちんと数えた3つ目の細い路地を左”と。

もうソコしか頼る場所のない遼は、まだ袖を通して間もない制服が汚れるのも気にせずに目の前の路地に飛び込んだ。




祠がある場所は、普段から誰も近付かない。
学校からしか入れない場所なのだが学校の敷地ではないらしく、しかしその場所に続く門の鍵は学校側についているために鍵の保管だけは学校でしているが、
それでも誰も近付かない場所だ。
入学して間もない頃にまず担任から言われた。


「焼却炉の脇にある裏門の先には絶対に近付かないように」


と。
そんな風に言われると興味を持ってしまう子供たちは一瞬目を輝かせたが、慣れたもので教師はすぐにそれに気付き、さっきの言葉以上に真剣な
面持ちで、成長途中の子供たちを見つめて言った。


「あそこには天狗がいるんだ。だから近付くんじゃない」




あの時、教師は確かに天狗だと言った。
だが同じ部活の違うクラスの友人に聞くと、のっぺらぼうを鎮めた祠があると言われたそうだ。
何だじゃあ嘘じゃないか、と話題になったが今度は先輩達にやめるよう、キツく言い渡されてしまった。
先輩たちもそこに何があるのかは正確には知らないというが、兎に角、ダメダ、の一点張りだ。
その代わりに教えてくれたのが、 浦沢町1849-5という住所だった。
そしてその時、先輩が言った。

怪奇での困り事は”天空堂へ”、と。




細い路地を抜けて左に進むと旧市街は更に寂れた様相を見せる。
古い木造の住宅が幾つも並び、その大半が恐らく商店だったのだろう雰囲気はあるのだが、どれも中が暗くてハッキリと見えない。
営業しているのでは無さそうだという事だけ解る。

人気のない道。
さっきまで目にしていたよりも古いポスター。
殆ど錆びてしまって文字が読めない看板。
なのに道だけはちゃんと舗装されていて、生活の痕跡だけ感じられる。

学校を出たときはあんなに急いでいた遼だが、ここに来て気味の悪さを感じて顔は俯き始め、歩調は遅くなっていく。
いつの間にか握り締めていた拳は汗ばみ、気持ちは徐々に帰ろうかとう方に傾き始めていた。

大体、怪奇って何だ本当にあるのかそんな店。実際に犯人を見たんだ。それを警察に言えば言いだけじゃないか。

そうは思っても到底信じてもらえないような内容を思い出し、そして自分が見た光景に背筋が寒くなり、拳を力を入れた遼はもう一度前を見た。
やっぱり戻れない。そう思って。


「……あ」


顔をあげた先、そこを見て遼は思わず声が出た。
開きっぱなしのガラス戸は古く、屋根に掲げられた看板は煤けている。
そこにある文字は、左から右ではなく、右から左に流れていた。


「天空、堂………」


あった。
確かに先輩達の言うように、その店はあった。
想像よりもずっと物々しい雰囲気で、目の前に。




「……すみませーん」


日光の降り注ぐ外に立ったまま薄暗い店内を覗き込んで声をかける。
…返事は、………ない。


「あの、すみませーん」


さっきより声を大きくしてみた。
それでも返事がない。
仕方なく遼は店内へと進んだ。

大きな壷や黄ばんだ掛け軸、戦後を描いた映画やドラマで見たような扇風機、そしてポツンといる女の子が遊ぶ用の着せ替え人形が1体。
妙な雰囲気の店は骨董品屋なのだろうか。
そう思うと全てが値打ち物に見えて、自然と遼の動きも慎重で丁寧なものになる。
足音さえも気をつけながら目を凝らすと、そこには大きな革張りの椅子が背を向けて存在していた。
その上の部分から僅かに人の髪のようなものが見えているのに気付く。

何だよ、いるじゃないか。

2度も声をかけたのに無視するなんて、と遼は思ったが、この店の雰囲気だ。
骨董品屋なんて入ったことはないが、イメージとして老人が経営している図が浮かぶ。
耳が遠いのかもしれないと思うと、一瞬は立った腹もすぐに収まった。
だが今度は心配が沸いてくる。
耳が遠いという事は、老人は相当な”老人”だ。
そんな所に相談なんてして解決してもらえるものだろうか。

やっぱりもう帰った方がいいかな、という考えがちらりと浮かび始めた途端、その椅子がゆっくりと回った。


「………!!」

「………あら?お客様でしたの…?」


あまりにも勿体つけた回転に、白骨化した死体が乗っている絵を想像した遼は心臓が止まるほど驚いたが、現実に目の前に現れたのは
全身黒尽くめの服に髪までも美しい黒の、キリっとした目が印象的な年齢不詳の美女だった。

言葉を失っている遼に、彼女は眉尻を下げて申し訳無さそうに微笑みかける。


「失礼しました、わたくしったらつい物思いに耽っておりまして…」


言いながら彼女はそっと椅子の手すりを愛しそうに撫でると、ゆっくりとした動きで立ち上がる。


「いらっしゃいませ。当店にどんな御用でしょうか」


鈴を転がすような声で話しかけられ、そこで漸く遼も我に返った。
彼女は店の人間らしい。店主かもしれない。ならば言うべきことがある。


「あ、……あの……!」

「主人気取りか」


すると今度は低く美しい声が聞こえて遼の出鼻を挫く。
声のした方に吸い寄せられるように目を向けるとそこには金の髪には少々不釣合いな着流しを着た、これまた美しい男が立っていた。
その表情は険しい。


「客を持て成そうとしただけで主人気取りだなんて、とんだ言いがかりですわね」


男の声につられて女の声も険しくなる。
その顔を見ると、顔も同じくだった。


「お前は主人の留守を守るだけでいいんだ。それを何だ、若い男と見ればすぐに色目を使うとは、随分とはしたない女だな」

「色目!?…っは!そんな風にすぐ下世話に受け止めるだなんて、あなたの方こそはしたないんじゃありませんの!?」

「私がはしたないだと…?私ほど清廉な人間はこの場にはいない」

「清廉が聞いて呆れますわ、偽りばかりのくせに!」

「私がいつ、何を偽った」

「偽っているじゃありませんの!ご自身のことから何から、全部!」

「何度も言っているがこれが私だ。偽りなど、神に誓ってない!!」

「神!あなたが神と仰るだなんて、ちゃんちゃらオカシイですわね!!」

「おかしいのはお前のほうだ!主人の留守もロクに守らず椅子に腰掛けていただけではないか!大方、椅子で妄想にでも耽っておったのだろう!」

「妄想ですって!?失礼な!!淡い乙女心を噛み締めていただけですわ!」

「乙女!?お前が乙女とは、それこそちゃんちゃらオカシイ話ではないか!!!」


と、激昂して罵りあう美男美女に遼はまた我を失いかけていたが、これはマズイ、と気付く。

どうやらこの2人、仲の良し悪しはさて置いても夫婦のように見える。
話しの流れからして天空堂の主人はこの金髪の美男で、そしてその留守を妻に守らせていたようだ。
そこに自分が来て二言三言交わしたせいで、どうやら夫は妻の浮気を疑っているのかもしれない。
確かにこんな美女だ。誰かに取られるのではと不安にもなるだろう。
それに夫も美しい男だが、きっと彼はヤキモチ妬きなのだ。
だが妻も妻で美しい夫が浮気をするのではないかと不安に思っているのかもしれない。偽りがどうのと言っていたくらいだ。
それを考えればこの夫婦、喧嘩はするがお互いに愛はあるのだろう。
という事は、これは立派な誤解ですれ違いだ。
しかも原因が自分だ。

となると、遼は慌てて2人の間に割って入った。


「ご、ご主人さんも奥さんももも、お、おおお、落ち着いてください!」


迫力のありすぎる美貌の間に入って必死に少年は声を張った。
自分はここに用事があって来ただけで、確かに奥さんは美人だけれど横取りするつもりなど微塵もないのだと伝えるために。

だが。


「誰がこんな腐れ外道の阿婆擦れを妻に娶るか!!!」

「誰がこんな器の小さい虚偽だらけのヘナチン野郎を夫になど!!!!」


などと両側から激しく怒鳴られた遼にできることと言えば、


「わああああああ!す、すすすすす、すみません……!!!」


と言って腰を抜かしながら涙目になって詫びることくらいだ。
ヘロヘロとよろめきながら後ろに下がる。
2人の視線は遼からまた互いに移り、そして口汚い罵りあいを再開する。

化け猫だの、堅物童貞野郎だの、正直その美貌では口にして欲しくない言葉の連発だ。
だがもう遼には割って入る勇気がない。
かと言ってこの場から去ることも出来ない。腰が抜けてしまっている。
ただ只管に嵐が通り過ぎるのを待つしかなく、一刻も早く彼らの喧嘩が終わることを神仏に祈るしか手段がない。

助けてください神様仏様、どうやってもいいので2人を止めてください…!

目を硬く閉じてそう思ったときだった。


「ただいまー。何やってんの?」


また別の声が入ってきた。
恐怖で固まった筋肉を必死に動かして声の方を振り返る。
店の入り口だ。
そこに人がいた。
今目の前で喧嘩している2人も見たこともないような美しい人だったが、そこに居たのは見たこともないような青い色の髪をした青年が、
まるで店内の喧騒など物ともしないように暢気で穏やかな雰囲気でそこに立ってた。




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駅から学校までの道のりにはなんとコンビニが3軒、それも全部別のチェーン店という豪華さであります。