Apis mellifera
記憶を頼りに声が聞こえたあたりを探した。
やはりただの聞き間違いか空耳かと思いはしても、ここまできて諦めきれない征士は暫く花や草の陰を探し続けたが、それでも
どこにも自分以外の生物の姿は見えない。
不慣れな夜間の飛行に疲れた征士は少し休もうと、黄色い小さな花に降り立った。
正面には自分が落ちていたと言われた地面が見える。
月の光しか存在しない世界は静かで、昼に目にするものとは違う。
空気はしんとして、花はどれも眠っているようだ。
自分の羽音以外で聞こえるのは草花の揺れる音だけ。
昼間に活動するミツバチは初めて見る光景に息を潜め、魅入った。
この光景を当麻と見たい。
そう考えていると、不意に視界が翳った。
見上げるとそこには1匹の蝶が舞うように飛んでいる。
「……お前は?」
月の光を受けて暗い緑に輝く蝶に話し掛けると、蝶は征士の頭上で円を描くように飛んでから同じ花に降りてくる。
「私は迦遊羅」
「かゆら…?」
名乗った声は朝に聞いたものと同じだ。
「あの声はお前だったのか」
「そうです」
「私の願いを、叶えてくれると…?」
僅かに疑いを滲ませて聞くと、迦遊羅と名乗った蝶はゆっくりと羽を動かした。
緑に見えた羽は暗く、角度によっては青くも光る。
不思議な色をしていた。
「信じるも信じないもあなたの自由です」
「………そうだな」
願いを叶えてくれるという彼女の言葉に縋りたい気持ちもある。願いならあるのだから。
しかしそれと同時に不安もある。本当に叶うのか。叶わなかった時はどうなるのか。
現れたのが見たこともない、不思議なモノだったのなら征士だってもう少し信じやすかったかもしれない。
だが迦遊羅はどう見ても普通の蝶だ。
その彼女がどうやって自分の願いを叶えてくれると言うのだろうか。
だが彼女の声には、どうしても無視できない不思議な力がある。
「”どうやって”」
「……?」
「”ただの蝶がどうやって願いを叶えるのか”。…そう、お思いなのでしょう」
「そりゃあ……」
考えていた事をそのまま言われ、征士は言葉を区切った。
一瞬、何故解ったと思ったが、こういう状況だ、誰でもそう思うだろう事に気付いて黙る。
すると迦遊羅がまたゆっくりと羽を動かした。
「…私は」
羽はキラキラと静かに輝いている。
「私は、12回に渡る冬を越えました」
「なに…?」
12回、彼女はそう言った。
征士の触角がぴくりと動く。
「12の冬を越え、12の春を迎えました」
「そんな馬鹿な。私たちにはそんなに沢山の季節を生きる事など出来ないはずだ」
姉が言っていた。
自分は暑くなり始める頃に生まれたけれど、寒い世界があるのだと聞いたと。
それは自分で見る事は出来ず、その世界を生きた姉の姉から聞いたのだと。
中途半端な時期に生まれた征士も、白くなる世界を見る事は出来ない。けれどそれは自分たちのように小さいモノは誰でもそうだと言われた。
沢山の世界を見ることが出来るのはもっと大きな身体を持っている生物だけだと姉は教えてくれたのだ。
羽を含めば征士より大きい迦遊羅だが、それでも身体の部分は同じくらいだ。
そんな彼女が変わっていく世界を幾つも見られるはずがない。
それを指摘した征士を、迦遊羅は大きな目で見つめ返した。
「普通の蝶ならばそうでしょう。ですが私は普通の蝶ではなくなったのです」
「……意味が解らん。蝶の姿をした別の何かだとでも言うのか」
「そうではありません。生まれたときは普通の青虫でした。そして蝶になったときも」
「………」
「ですが自らの羽で飛んだとき、私はある”まじない”を受けたのです」
「まじないだと…?」
言葉を繰り返して聞く。
すると迦遊羅は大きく羽ばたいて空に舞い上がった。
「私は生まれて間もない頃、葉の上から落ちて人間に捕まりました」
葉を食べる事に夢中になって、その先を確認していなかった迦遊羅は自分のいた”世界”が急に頼りない感触を返した事に気付くのが遅れた。
あっと思った頃には世界はぐるりと反転して、そして硬くて冷たいものの上に落ちる。
意識を失うほどではなかったが、強い痛みに顔を顰めていると何か大きな者の気配が近づいてきた。
「…………?」
見上げるとそこにはとても大きなモノがいた。
それが何か解らず首を傾げると、その大きなモノは弾かれたように自分から遠ざかっていく。
何が起こったのか理解できずにそこで佇み続けていると、上から声が聞こえた。
「アレはニンゲンだ」
見上げるとそこには蜘蛛がいた。
灰がかった白い体毛を生やした蜘蛛は目が1つ潰れているのかして、横目でこちらを見るようにしている。
そんな彼が迦遊羅を嘲笑うでもなく淡々と続けた。
「お前はアレに見つかった。もうオシマイだ」
残念だが、と言った声は僅かに憐憫が混じっている。
それに不安を掻き立てられ、迦遊羅は精一杯に身体を伸ばして彼の声を拾おうとした。
「ニンゲンとは何ですか?私はどうなるのでしょうか?」
「ニンゲンは生物の摂理を無視したものだ。お前はこれから自由を奪われ、狭い世界に閉じ込められる。その段階で命を落とすものもいる。
それも哀れといえば哀れだが、成長しても自由はないし、その姿で命を奪われ永遠に”観賞用”として飾られる場合もある。
生きても死んでも、何にしても哀れな結果しかない」
その言葉に迦遊羅はぞっとした。
これから自分は蝶となり、自分の命を繋ぐためにいずれは飛び立つのだ。
それが己の命の役割だというのに、それを叶えることも、頭上に広がる綺麗な青を飛ぶこともない生が待ち受けている。
そんな不吉な言葉に、生まれたばかりの身体は震えた。
「そんな…!私はまだ何も成していないのに…!」
「私に言うな」
蜘蛛はきっぱりと言いきった。
確かに彼に助けられても自分は餌にしかなれない。
だがそれでも他の生物の礎となる方が、生物としての尊厳を奪われるより何倍もマシだ。
「私を食べてくださって構いません!ですから、私に”生物”としての命を全うさせてください!!」
「だから私に言うなと言っている。私がお前を助ければ、今度は私がアレに見つかってしまう。ニンゲンどもの大半は私たち蜘蛛を嫌っている。
見つかれば今度は私の命だって危ないのだ。悪いがお前をどうしてやることも、私には出来ん」
「そんな……っ」
蜘蛛の顔には哀れみしかなかった。
するとニンゲンが戻ってくる気配がする。
それを感じた蜘蛛は咄嗟に葉の陰に隠れた。
迦遊羅は彼に助けを求め続けたが、そこに大きくて透明の何かが近付き、あっという間に捕らえられてしまう。
「助けて…!お願い、助けて……!!」
だがその声は届かず、彼女は大きなモノの巣に持ち込まれる事になった。
最初は何度も死を覚悟した。
だがそのニンゲンが新鮮な葉っぱと綺麗な水を迦遊羅のために用意してくれていたお陰で、命を亡くす事はなかった。
時々ではあるが迦遊羅には透明の入れ物から出してもらえる事もあった。
そしてそのニンゲンは不用意に迦遊羅の体に触れる事もなく、ただじっと、温かな目で見つめてくるだけだった。
私はどうなってしまうのかしら…
不安は常にあった。
あの蜘蛛が言ったように、成長したときにニンゲンに命を奪われるのだろうか。
そう思いながらも成長を止めることは出来なかった。
やがて迦遊羅は抗えないほどに眠くなり、糸を出して身を守るようにすると意識を失った。
どれ程の時間が過ぎたのかは解らないが、次に目を覚ましたとき、自分の身体が眠る前と変わっている事に彼女は驚きと喜びを覚えた。
確かめるようにゆっくりと羽を動かす。
少し身体が浮いたような感じがした。
見上げると自分を閉じ込めていた透明の天幕がなくなっている。
飛べる。
そう思うと迦遊羅は静かな空気を楽しむように羽ばたき、宙を舞った。
今まで体全部を使って這い、見上げることしか出来なかった景色を今は見下ろしている。
見ているものは同じ筈なのに全てが違って見える。
それが楽しくて飛び続けた迦遊羅だったが、慣れない体はすぐに疲れを訴えてきて、一先ず目の前にあった壁で身体を休める事にした。
「…………素敵…」
四角い枠の向こうに見えるのは、青い空だ。
あそこを飛べたらどれ程素晴しいのだろうか。
そうして気を抜いた瞬間だった。
何かに羽を掴まれ、自由を奪われる。
必死に肢を動かして抵抗したが拘束は緩むことなく、寧ろ自らの羽が千切れそうになるだけだった。
「…や、…やめて…!!」
世界が自分の意思と違う角度に倒れ、焦る。
その視界に、自分を捕らえたニンゲンの姿を見た。
いつだって自分の成長を見守ってくれていたニンゲンが、成長した迦遊羅を見て嬉しそうに笑っている。
”その姿で命を奪われ永遠に”観賞用”として飾られる場合もある。”
あの時の蜘蛛の言葉が蘇ってくる。
ニンゲンはこの時を待っていたのだろうか。
自分の命を大事にしてくれている相手に油断しきっていた事を迦遊羅は後悔した。
こんな事になるならさっさと空の元に逃げれば良かったのだと。
もう生物として存在も出来ない。
そう思うと余計に生への執着が生まれてくる。
生きたい。生きたい。生きたい!!!!
絶望の中で強く念じると、触角が震えるほど大きな音が鳴った。
ガラガラガラという音は不愉快で、迦遊羅の恐怖を煽る。
何が起こるのか、何をされるのか。
怯えていると、不意に世界が明るくなった。
見えるのはどこまでも広がる青い空だ。
「………え、…そ、ら…?」
羽は相変わらず掴まれたままだが、それでも迦遊羅は自分の体が閉じ込められていた場所から空に向けられている事に気付く。
ニンゲンが何事かを言っている。
それは理解が出来ない。
だが迦遊羅は強く思った。
生きたい。
その時だ。
不意に羽が軽くなった。
羽ばたくと身体が浮く。
逃げられる。そう気付くと夢中で羽を動かし、いた場所から離れた。
追いつかれる前に逃げるために。
しかしニンゲンの気配が自分を追ってくる様子がない。
恐る恐る振り返ると、自分を捕らえていた場所にいるニンゲンは大きな肢を左右に振りながら迦遊羅に向けて叫んでいる。
それは空の元に出たときにも聞こえた言葉だった。
”達者でなー。”
「あの時、私は彼の人から”まじない”を受けたのです」
「……それはまじないなのか?」
当麻の言葉が理解できるようになった征士からすれば、それは無事を祈る程度のもので、不思議な力を持っているとは到底思えない言葉だ。
だが空にいる迦遊羅はひらりと身体を反転させ、うっとりとした声で言い切る。
「私はあの時、生きたいと願いました。そして彼の人は私の無事を祈って送り出してくれました」
迦遊羅はもう一度征士の方を振り返る。
「彼の人の声が私の命を繋ぎました」
自分を捕らえようとしたニンゲンの網は、大きな穴が開いていて抜けることが出来た。
自分を餌にしよとしたカマキリは背後からオオスズメバチに襲われ、その隙に逃げることが出来た。
沢山の子を生み、次代に命を繋ぐことが出来た。
「生物として、私は充分に生きてきました。ですが」
ゆったりとした動きで迦遊羅が再び花に舞い降りる。
征士の足場が傾いだ。
「同時に私は沢山の命が終わるのを見届けてきました。それでも私の命は尽きませんでした」
「…………死ぬことが出来ないのか?」
生物の道理から外れたのかと尋ねると、迦遊羅は触角を横に振る。
「いいえ。もうすぐ尽きようとしています。その時になって自分が密かに持ち続けていた思いを、思い出したのです」
「何だ?」
それは、と言った迦遊羅の目が征士から流れて別の場所で止まる。
つられて征士もそこを向いた。
「…自由を得て間もない頃に、いつかまた彼の人に会いたいと思っていたのです」
彼女が見つめたのは、当麻が寝ている部屋がある場所だった。
「そして自分の命が尽きる前に彼の人に一目会いたいと思い、その姿を求めてずっと旅をしてきました。その想いも今日叶いました。
そして気付いたのです」
触角を撫でた風は優しい。
「私にはまだ成していない”使命”があります」
迦遊羅の羽ばたきから優しい香りがしてくる。
その匂いに征士は胸を突かれたような気がした。
「命が繋ぐものであるのなら、想いも、受けた恩も、誰かに繋ぐものなのです」
「…………それで、……私の願いを叶えるというのか?」
声が震えた。
長く生きたと言う蝶の羽も身体も、どこもまだ生命に溢れているように見える。
だが彼女が嘘をついているようには、征士には見えなかった。
「願いを言いなさい。彼から受けた”まじない”を、あなたに譲ります」
声も眼差しも強いのに、空気を振るわせて伝わってくる感情はどこまでも慈愛に満ちている。
「……………………私は…」
「迷わないで下さい。強く、想う事を口にしてください」
一度俯いた征士は、彼女の声に押されてもう一度顔をあげる。
月明かりに照らされた蝶がいた。
「私は………当麻と言葉を交わしたい…」
迦遊羅が空に舞い上がる。
月を背にして彼女がひらりひらりと羽ばたく。
「心からの願いを口にしなさい!思いが強くなければ願いは叶いません!」
「私は、……私は、」
叶わないかも知れない。
けれど、もしも叶うのならば。
「私は当麻と共に生きたい……!!!」
月明かりを受けて迦遊羅の羽が緑に青に煌く。
軽やかに舞い続ける蝶を眺めていた征士の体中から力が抜けていく。
ゆっくりと世界が歪み、重力に引っ張られた身体がそのまま花から滑り落ちていく感覚も途中で消えた。
最後に見えた景色の先で、不自然に抉られた土が見えた。
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蜘蛛の名前は、螺呪羅。