Apis mellifera
”あなたの願いを叶えたければ、今夜この場所を訪れなさい。”
あの謎の声が征士の気持ちを強く揺さぶる。
硬く透明な膜越しに外を見ると世界は既に暗く、丸くて黄色い月が優しい光を放っている。
願いを、叶えたければ。
その言葉を征士は自分でも口にして繰り返してみた。
朝、あれから巣に帰りつくなり当麻はすぐに征士の巣を丁寧な手つきで蜜が零れ出るように細工していた。
そこから流れてくる蜜の色は自分の腹と似た色をしていた。
全て彼女に捧げたというのに、優しい当麻はお前の分だと言って征士に故郷の蜜を分け与えてくれた。
全部お前のものだと固辞した征士だったが、当麻も譲らず、結局は征士が折れて彼女の優しさに甘える事にした。
嘗ては自分が食べていた蜜だ。
懐かしい思いと共に舐めると、それは優しい甘さを持っていた。
流れ出した蜜を指で掬って舐めた当麻も、美味しいと言ってくれた。
それが征士をこの上なく喜ばせた。
空に浮かぶ月を眺める。
願いを、叶えたければ。
願いならある。
叶う筈もない願いだ。
それを叶えてくれるというのだろうか。
一体誰が?
「………都合のいい幻聴か…?」
昨日、突然ニンゲンである当麻の言葉が理解できるようになったばかりだ。
きっと何かを聞き間違えたのだろう。
そう思って過度の期待をしそうになる自分を諌めようとした。
だが、気になって仕方がない。
有無を言わさないような強さと、そして惹き付けるような力を持ったあの声。
若しかしたらという思いを否定しきれないのは、その声のせいだった。
「ここに来い…か……」
暗がりの中を、見える範囲で目を凝らす。
はっきり見えずとも声が聞こえた大体の場所は覚えている。
ただ行こうにもこの透明の膜は強固で破ることが出来ない。
それがもどかしくて、征士は膜に張り付いた。
だがすぐに気付く。
そんなに都合のいい事などないのだと。
当麻と共にいたいばかりに冷静な判断が出来なくなっているのだと。
今日はもう休んだ方がいいのだろうか。
久し振りに巣の場所まで飛んだ。
飛んでみて思ったが、結構な距離があった。
何も食べずに無我夢中で飛んだ最初の事を思うと、若さだなと征士は苦笑が漏れる。
そう思ってしまうほど、若さを失い始めていた。
やはり今日はもう休んだ方がいい。疲れているせいだ。
そう思っていても膜から離れることが出来ない。
離れようとするたびに、あの言葉が何度も蘇ってきて征士を惑わせる。
「…せいじ…?何してんだ?」
何度も迷った末に、いい加減離れようと思った瞬間、当麻の声がした。
振り返ると部屋の入り口に当麻が立っている。
不安が滲んだ声。
いつも優しくて甘い声をしているのに、急に彼女が弱々しく見えてきて征士は胸がざわついた。
”守りたい。”
最初そう思ったのは、彼女を女王蜂と勘違いした時だった。
寛大な彼女は誰にも優しかった。
だがその優しさに付け入る者がいるかも知れない。なのに彼女はローヤルコートを連れていなかった。
だから自分が守る。そう決めた。
しかし彼女は実際はミツバチではなくニンゲンだった。
だがそれでも彼女を守りたいと思ったのは、あの図々しいオスが来た時だ。
あの時は彼を追い返す事に成功した。
それで満足だった。
けれど今、そんな対外的な危機ではなく、彼女を守りたいと思った。
傍にいてどんな悲しみからも、辛いことからも、彼女を守りたいと、そう思った。
「外に………出たいのか…?」
きっとミツバチとしての自分の自由を尊重してくれての言葉なのだろう。
だがその声ははっきりと不安が滲んでいる。
まるで、行かないで欲しいと言わんばかりに。
それが征士の小さな身体に決断をさせた。
朝と同じように大きく円を描いて応える。
「出たいんだな……?」
もう一度、大きく円を描いた。
征士が驚かないようにと当麻がそっと膜を開けてくれたのが解った。
こんな時でも当麻は征士を気遣ってくれる。
そんな彼女に、征士は更に思いを強くする。
当麻を守りたい。
「征士、…行っておいで」
当麻の声を受けて、征士は外へと飛び出した。
丸い月の明かりが草花を照らしている。
征士は一度当麻のほうを振り返った。
いつもの優しい顔をしているが、しんとした空気を通して伝わってくる彼女の感情は酷く寂しそうだった。
その彼女に、征士は声をかけた。
「とうま!必ず…私は必ず戻ってくる!」
自分の声が聞こえない彼女は静かに手を振って見送ってくれていた。
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満月に照らされたミツバチを見送るヒト。