Apis mellifera



「こうしておけば………」


持ち帰った巣は表面を削って、そのまま濾すための布の上に置いた。
その下には大きなボウルを用意して、垂れてきた蜜はそこに溜めていく。


「明日の昼くらいには、ある程度蜜がたまってるだろ」


”垂れ蜜”というのを親しくしている養蜂家から教わってきた当麻は、早速それを作ろうと取り掛かった。
因みに当麻が分けてもらったニホンミツバチの百花蜜も同じようにして採られたものだ。
こうして採られた蜜は純度が高くて上質な甘さを持つ、濃い琥珀色の液体になる。
セイヨウミツバチのものがどういう味になるかは解らないが、当麻はそれを楽しみにして音程の外れた鼻唄を歌った。

そしてその蜜とは別に、軽く絞っただけの蜜を少量、征士の前にも置いてやる。


「それは取敢えずのお前の分。明日になったらコレも分けてやるからな」


そう話しかけると言葉を理解している征士は不服そうに当麻の鼻先に止まって、何か言いたげに肢を動かした。
どうせ「全部お前のものだ」とか言ってるんだろうなと何となく思った当麻は、苦笑いをしながら鼻先にいる彼に指を差し出して、そこに移動するよう促す。
すると征士は素直にそこに乗って、それでもまだ肢を動かし続けていた。


「だから、俺のものにしたじゃないか。俺が、俺のものをどう使おうと俺の自由だろ?」


だからコレは、一先ず征士の分。
もう一度蜜を指差して言えば、征士は少し考えるような仕草を見せたあとでその蜜の近くに降り立ち、漸く少し舐めた。
その前には前肢を合わせて「いただきます」のようなポーズをとっていたのが面白くて、当麻はまた笑う。

征士が来てから当麻はよく笑うようになった。
別に今まで笑わない人間だったわけではない。単に一人で暮らしていたから声を立てて笑うことが滅多になかっただけだ。


征士が蜜を舐めたのに倣って当麻もボウルに少し垂れ始めた蜜を指で救い、一舐めする。


「うん、ニホンミツバチのとはまた違った味で美味いな。何の蜜だろう?」






夜。
建て付けの悪い雨戸に今日も苦戦を強いられた当麻がやっとの事で寝室に入ると、征士が窓際にいた。
いつもなら彼専用の部屋として与えている巣の近くにいるのに、何故か窓に張り付くようにして外を見ている。


「…せいじ…?何してんだ?」


声をかけると征士が振り向く。
その姿に当麻は胸がざわつくのを覚えた。


「外に………出たいのか…?」


日中に比べれば夜は涼しいが、ミツバチは夜行性ではない。
夜間に飛行することなど滅多にないはずだ。
だが今、征士がそれを望んでいるような気がして、当麻はそう尋ねた。

すると征士は、朝と同じように綺麗な円を描いて当麻の目の前を飛んだ。


「出たいんだな……?」


征士はもう、充分な時間を飛べるほどに体力が回復している。

彼は、オスバチだ。

オスなのに活発に動くし蜜だって探せる。勇敢でもある。
孵化して何日経っているか解らないが、彼の使命は女王蜂と交尾をして優秀な遺伝子を残すことだ。
彼ならきっと、いや、絶対に優秀な子を残すことが出来るだろう。
いつまでもここで暮らして、その遺伝子を残さないのは彼の本能が許さないだろう。当麻だってそれは嫌だ。

だが寂しい。止めたい。
蜜だってまだ分けきっていない。
それを理由に引き止めたい。窓を開けたくない。

けれど、解っていることだ。


”飛べるんだから、閉じ込めてちゃ可哀想だ。”


朝にも思ったことだ。
止める権利がない事は、もうずっと前から知っていることだ。

変わり者の征士のことだ。多分、世話をした自分への礼のつもりで自らが生まれた巣をくれたのだろう。

そんなもの、別に要らないのに。
そう思いはしても、彼の気持ちを断ってはいけない。
彼の思いを無碍にしたくはない。

あの蜜は有難く貰う事にしよう。
そうする事で、気持ちを割り切ろう。




当麻は窓の鍵を外すと、征士が驚かないように静かに窓を開ける。


「征士、…行っておいで」


”また帰ってきてくれよ”。
その言葉は辛うじて抑えることが出来た。


征士は一度だけ振り返って、そして月明かりに照らされた庭に出て行った。




*****
満月のもとを飛ぶミツバチ。