Apis mellifera
朝がくる。
昨日まで顕著だった、全身に行き渡るような激しいまでのエネルギーの成長を感じなくなっている。
その代わりに内側に篭る、燻るような力が育ち始めていた。
自分の交尾期がピークを迎えようとしているらしい。
という事は、この時期を越えれば徐々に肉体は衰え始めるのだろう。
幸せな時間の終わりが見えたような気がして、征士はゆっくりと羽を動かした。
「とうま」
伝わることのない声で、丁寧にその名を呼ぶ。
彼女の身体にそっと降り立つと、その感触で彼女の意識が覚醒していくのが触角を通して伝わってくる。
眠りを妨げた自分に優しい気持ちを向けながら、花が綻ぶように当麻の唇が動いた。
「おはよう、征士」
昨日、彼女の言葉を聞いた。
それは昨日だけの錯覚かと思ったが、そうではなかったようだ。
彼女の言葉が今日も聞こえる。
征士はそれに満足して、触角を彼女の頬に寄せた。
「おはよう、とうま」
彼女に朝の挨拶をした後は、ある覚悟を決めて自分に与えてくれた部屋に戻る。
そこで必死に、自分の声が聞こえない彼女に見えるように、記憶の中の姉の行動を思い出して真似てみた。
腹を震わせ尻を振り、何度も同じ方向に向けて進んでは元の位置へ戻り同じ事を繰り返す。
自分たちの命も大切にしてくれる彼女だから、きっと意図に気付いてくれるだろうと信じながら。
「お前、俺に蜜の場所を教えてるのか?」
伝わった。それが嬉しくて征士は当麻の傍を飛んだ。
まずは庭で水遣りをしてからだと言う彼女が、征士は誇らしい。
どんな時でも命を平等に扱ってくれる。
彼女にとって全ての命は等しく貴いのだろう。
色んな人間がいるという遼の言葉を思い出す。確かに彼女は、その中でも特別良いニンゲンだったようだ。
そんな彼女の傍にいられること、愛せたことが誇らしい。
彼女が水を撒くと、そこに不思議な色の反射が出来た。
いつもぼんやり見えていたが、今日ほどハッキリ見えたのは初めてだ。
これも忘れてしまわないように覚えておこう。
あと何回こうして彼女と朝の光景を共に出来るか解らないが、今日のこの光景も忘れたくはない。
全ての瞬間を記憶して、いずれくる眠りの時にはその幸せに包まれていたい。
征士はそう思いながら一生懸命にそこに現れた七色の光を眺める。
彼女の巣の外にある花の蜜も覚えておきたくて花に向かった。
いろんな種類があるここの花の蜜全ての味も覚えておきたいが、そこまで時間があるだろうかと考えながら吸う。
全てが彼女の恩恵と愛情を受けたものだ。
出来ることならば、傲慢かもしれないがその全てを知っておきたい。
征士は幾つかの花の蜜を少しずつ吸う。
どの花もそれぞれに甘かった。
けれど、当麻の唇についた蜜が一番甘くて一番好きな味だ。
あれに勝る蜜はない。そう思った。
ある程度腹を満たすと、約束どおり彼女をある場所へ案内する。
その為に、征士は当麻を呼ぶように花の傍で旋回した。
それに呼応するように当麻が足を踏み出す。
声は聞こえずとも意思の疎通が出来ている事が征士を喜ばせた。
当麻が近くまで来たことを確認して先に進もうとした時だった。
”あなたの願いを叶えたければ、今夜この場所を訪れなさい。”
そんな声がどこからともなく聞こえた。
遼の声ではない。
煩く鳴いている蝉たちのものでもない。
聞いた事のない軽やかな声は妙に心に引っ掛かる。
その主を征士は探したが、どこにも姿は見えない。
聞き間違いか、他の誰かに話し掛けたものだろうか。
気にはなるが、今は当麻をある場所へ連れて行くことの方が大事だ。
征士はその声の事は一先ず忘れて、自分が倒れていたという場所を越えて更に先へと飛んだ。
自分の命があとどれくらい残っているのか解らない。
当麻が今後、誰かを愛するかもしれない。
自分はミツバチで、彼女はニンゲンだ。
いつか、そう遠くない未来に別れの時は来るだろう。
だから征士は、何かを彼女の元に残したいと思った。
言葉も交わせず、想いを届けることも出来ないだろうが、自分が愛したヒトに、世話になった礼も込めて何かを残したいと思った征士が思いついたのは、
自分の生まれた巣だった。
いつもニホンミツバチの蜜を食べている彼女だ。
きっと甘い蜜が好きなのだろう。
自分の巣の物を彼女が気に入るかどうか解らないが、それでも彼女に捧げたいと思った。
もう誰もいない巣だし、若しかしたら他の生物に奪われているかもしれない。
それでもまだ残っているのなら彼女に捧げたい。そして自分の生まれた場所を彼女に見てもらいたい。
征士は時々彼女がついてきているか振り返った。
後ろを歩いてくる当麻が真剣な眼差しを自分に向けてくれている事に、征士は胸が熱くなった。
もっとあの目で見て欲しい。
もっと彼女と同じ時間を過ごしたい。
だがそれは叶わない事だ。
解っているからこそ、征士は自らの生まれた巣を目指して飛んだ。
徐々に森が静かになっていく。
風が草木を撫でる音しか聞こえない。
征士が目を覚ましたときと同じ世界が、まだそこにはあった。
だが本当にまだ残っているだろうか。
意識を取り戻してから一度も訪れてはいない。
段々と征士は不安になってきた。
もし巣がなくなっていても当麻との散歩だと思えばいいのかも知れないが、意を決して来たのだ。
彼女に何かを残したくて、自分を思い出してくれるものを残したくて来たのだ。
絶対に残っているとは言えないが、残っていてくれなくては困る。半ば祈るような気持ちで征士は記憶を辿って巣を探す。
暫く進むと古く大きな木が見えてきた。
長い年月を過ごした木は枝が複雑に伸び、葉が覆い茂って自然の城砦のようになっている。
…ここか…!
巣を離れて何日か経っていたが、記憶にあった光景だ。
その木の幹に従って上を目指すと、そこに巣はまだあった。
それも、綺麗なままで。
「……っ、…とうま!とうま、ここだ!!」
示すように旋回すると、当麻も気付いてくれた。
「…………巣が、…こんなところに…」
見上げた当麻が聞いた事のない単語を呟く。
蜂群崩壊症候群と言ったのは解ったが、その意味が解らない。頭のいい彼女は、この巣に起こった事が解るのだろうか。
不思議に思いながら征士は彼女の身体の定位置にその身を置くと、彼女と並んで巣を見上げる。
仲間がどこに行ったのかは解らない。全滅したのかどうかさえも。
使命を果たせと言った姉の言葉を思い出して、征士は後ろめたくなる。
もう自分は子を成すことはない。
ミツバチとしての生き方を捨て、1つの命として愛した命と共に過ごすことを決めた。
申し訳ないという思い。それでも捨てきれない強い想い。
どちらを捨てることも出来ず、抑えることも出来ない。
だからこそその複雑な思いを込めて、征士は巣に向けて正直な気持ちを誓いとして立てた。
「私は私の選んだ生き方を、悔いの無いよう、必ず全うする」
そう告げると誰も居ない筈の巣から、その使命を必ず果たしなさいと言われた気がして触角が震えた。
それは姉の声で。兄の声で。
共に育った妹や弟の声で。
そして、母の声で。
体毛までも振るわせる思い思いの声に、様々な感情があふれ出してくる。
継いだ遺伝子を残せないが、その巣は全体で若いオスの思いを認めてくれたような気がした。
「…ありがとう……っ」
「…………ありがとう…」
征士と当麻の声が重なった。
それが聞こえたのは、勿論征士だけだった。
「…!?と、とうま…どこへ行く!?」
巣は彼女に捧げる。
そのつもりで来たのに当麻は手ぶらのままで来た道を戻ろうとする。
慌てて征士がその前に回りこみ、その進路を阻んだ。
「征士、何だよどうしたんだよ…?このままじゃお前の故郷、他の誰かに襲われるかも知れないだろ?だから保護するものを取りに帰らなきゃ…」
「違う、とうま!これはお前にやる!私とその家族の全てだ、受け取って欲しい!」
「せい、…ちょ、っと征士…!聞いてるのか!?お前の巣、大事にしなくちゃ駄目だろ!?」
「だからそうではない、とうま!お前にやるんだ!私はお前に貰って欲しいんだ!」
当麻が何かを言うたびに必死に答え返したが彼女にはやはり聞こえていない。
自分が生まれた場所を大切にしようとしてくれる彼女の優しさは嬉しいが、これはもう彼女に捧げると決めたものだ。
自分の全てを彼女に受け入れて欲しくて、受け取って欲しくてここまで来たというのに、これでは意味が無くなる。
征士は慌てて彼女の肢先に止まり、必死に上を示した。
小さな身体では重過ぎて無理と解っていても、それでも懸命に征士は当麻の意識を巣にむけようと必死になった。
これを、お前に……!
「お前、巣を持って帰れって言うのか…?」
必死の願いが通じたのか、当麻が漸く巣を持ち帰ることを口にした。
「お前は故郷を持って帰りたいのか?」
その問いにどう返せば彼女に意図が伝わるか悩んで、征士は大きく綺麗な円を描いて飛んだ。
少なくとも否の返事にはとられない筈だと信じてやってみれば、その意図は正しく彼女に伝わった。
「解った。帰って大事に保存しような」
だがそうではない。
必死に乱雑に飛んだ。
「じゃあ何だ。 蜜を食べるのか?」
食べると言われれば、食べる。
だがそれは当麻が、だ。だが細かい事は伝えられない。
だから征士はまた綺麗な円を描いた。
「…?蜜を、取るんだろ?」
少し間を置いてからの行動に疑問を持った当麻が聞き返す。
それは正解だ。だからもう一度綺麗な円を描く。
「お前の家族が集めた蜜だ、大事に食べるんだぞ」
嬉しそうに言ってくれたが、そうではない。
征士は慌てて乱雑に飛んだ。食べるのは自分ではないのだから。
すると当麻は困ったような顔をして、そして溜息を吐いてからちょっと雑になった声で聞いた。
「何なんだよお前は………。……なに、もしかして蜜を俺にくれんの?」
その問い掛けに満足した征士は何度も何度も円を描いて飛び続けた。
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最後に残された息子の背を押す、1つの大きな命。