Apis mellifera



その日も慣れた征士の感触で目を覚ました当麻は、これまでの朝の彼と様子が違っている事に気付いた。
いつもならすぐに部屋を飛び回って庭に出る当麻の先を行こうとする筈なのに、今日に限って何故か木枠の中で垂直に吊るした
巣の上を這っている。


「…征士?庭はいいのか?」


そう尋ねると、征士は突然巣の上で8の字を描くような動きを始めた。
それも尻を震わせながら。


「……せい、…じ…?」


どう見てもこの行動は、ミツバチが行うダンスだ。
彼らは蜜や樹液の取れる場所を見つけると仲間にソレを教えるために特定の動きをする。
それが、ミツバチのダンスと呼ばれるこの動きだった。


「お前、俺に蜜の場所を教えてるのか?」


俺は蜂じゃないぞと思ったが、征士が仲間だと思ってくれているのなら嬉しい。
そこに行っても実際に蜜を取ることは当麻には出来ないが、征士が懸命に教えてくれているのだ。
だったら行くだけ行こうかな、と考えて当麻は立ち上がった。


「それじゃあ征士、庭の花に水をやったらすぐに行こう」





征士の示す場所にすぐにでも行きたい気持ちはあったが、他の動植物を疎かにするわけにはいかない。
だから当麻はいつものように日よけとして薄手のカーディガンをパジャマの上から羽織って、庭においてあるホースを使って庭全体に水を撒いた。
ホースから撒かれた水が光を反射して虹が出来ている。
その間中、当麻は肩に止まった征士が息を詰めてそれを見守っているような気がして、少し落ち着かなかった。


オスの蜂は働かない。
彼らの飛行練習はいずれ行う交尾のためだけで、その交尾のために飛び立つ以外で彼らが自由な空を目指すことはない。
だが征士は自ら活発に飛び回り、自ら花の蜜を飲む。
元々変わった性格を持っているとは思っていた。
だが、それでも時々変だ。
オオスズメバチの駆除光景を見てから。

一緒に食事をしてくれるし甘えるように触角を触れ合わせてくれる。
だがその行動の前後に、一瞬の間が入ることが、あの光景を見てから時折見受けられるようになってきた。

彼は言語を理解しているような節があった。
虫に思考があるのかないのかは厳密には不明だが、少なくとも征士にはそれはあるのだろう。
その彼が、何故か当麻を蜜のある場所に誘おうとしている。
それが何を意味するのかは解らない。

解らないから、彼のする事を、したい事を見守ろうと思った。

自分の元を去ってしまうかもしれない。
けれどそれを止める権利は人間の自分にはないのだと当麻は言い聞かせた。
最初の蝶の時からずっと思い続けてきたことだ。


”飛べるんだから、閉じ込めてちゃ可哀想だ。”





水を遣り終えて少しすると、征士がいつものように花の蜜を吸いに向かう。
いつもならその後当麻の元へ戻ってくるのだが、この日、征士は初めてめて花の上で旋回し、当麻を呼んだ。

…行くか。

当麻は静かに気合を入れなおして征士に近寄った。

当麻がある程度近付くと、征士は花の上で不思議な飛び方をした後は、まるで誘導するように少し先へ飛んでいく。
そして後ろから当麻が来ているかを確かめるように振り返り、当麻がちゃんとついてきている事を確認するとまた少し先を目指した。



蝉の声が煩い木々の間を縫って、山に近い場所へと歩いていく。
まだ陽が昇り始めたばかりという事もあって木陰の多い山道は少し肌寒い。
当麻は思わず身震いをする。
日よけのカーディガンを着てきたのは正解だったが、足元が裸足にサンダルだ。
少しずつ身体が冷えてくる。

冷えた身体を自らの手で温めるのに夢中で気付くのが遅れたが、周囲にはもう花は見られなかった。
蜜の在り処ではなかったのだろうかと思ったが、そういえば蜂は花の蜜以外に樹液も摂取していたことを思い出し、ならば征士が導こうと
しているのは樹液場なのだろうと歩調を速めた。


「…………」


くしゃみが出そうだ。
ぼんやりとそう考えていると、征士の飛び方が変わった。

ある一定の場所を旋回している。まるで何かを示すように。


「…?」


あるのは大きな木だ。
何だろうかと思って当麻が近付く。
征士が飛んでいるあたりを見上げて、「あ」と当麻は声を漏らした。


「…………巣が、…こんなところに…」


それはミツバチの巣だ。
平たいが、面だけで見ればサッカーボール大のものが幾つか並んで、覆い茂るような枝の間に作られている。

だが妙だ。
この巣には蜂が出入りしている様子がない。
オオスズメバチの襲撃にでもあったかと思ったが、その割には損傷がみられない。
では盗蜜が原因で全滅、若しくは逃亡した後なのかと思っても、やはり巣は綺麗なままだ。
傷みも、廃れた様子もない。
スムシが入ったのでもないらしい。
綺麗なまま、まるでまだ生きているような姿でそこにある。


「………蜂群崩壊症候群…?」


思わず当麻は呟いた。
一晩で巣から蜂全部が謎の失踪を遂げるという症例は聞いたことがある。
巣の周囲にミツバチたちの死骸はないし、見える範囲で判断すると蜜も未だ残っているようだ。
だとすればやはりその可能性も考えられるが、蜜があるのに幼虫の姿が見えない。繭も無い。
蜂群崩壊症候群が起こると、成虫達は幼虫たちを見捨てて消えてしまうというのに。
そもそも蜂群崩壊症候群は今のところ海外の養蜂場での事で、日本では聞いたことがなかった。

それに蜂群崩壊症候群はセイヨウミツバチに起こる。
しかし彼らは日本の自然では生きていけない。天敵のスズメバチへの対処法を持っていないのだ、あっという間に壊滅させられてしまう。
こんな山の中に人間の保護もなく、ある程度の大きさを持った巣が作られるとは考えにくい。
ならばここはニホンミツバチの巣である可能性が考えられるが、だとすれば蜂群崩壊症候群は起こりえないはずだ。

それに何より、何故ここを征士が知っているのだろうか。


「………征士…」


いつの間にか肩に止まっていた征士の気持ちを当麻は考えた。

ここに、自分を連れてきた理由は何だろうか。
これを見せて、彼は自分に何をして欲しいのだろうか。

若しかして、ここは。


「お前の………生まれた場所なのか?」


巣を見たまま当麻が問い掛けている横で、征士は身繕いをしている。
顔を懸命に触れている姿は、まるで涙を拭っているようだった。

誰もいない巣。
何があったのかは解らない。
だがここが彼の故郷だというのなら、彼にとって大事な場所のはずだ。

巣の位置をオスは覚えないというが、征士は特別な個体だ。
ここから出てきたときに、彼はいずれ戻ろうと場所を覚えていたかも知れない。

そこに、自分を連れて来てくれた。


「…………ありがとう…」


当麻は礼の言葉を言わずにはいれなかった。

こんな大事な場所に連れてきてくれて、ありがとう。
お前の生まれた場所を見せてくれて、ありがとう。


俺を認めてくれて、ありがとう。








当麻は足元に注意しながら山道を戻った。
肩にはいつもどおり征士がいる。
腕に抱えているのは、征士の故郷でもある巣だ。


見せてもらった巣に礼を言い、他の昆虫に襲われないように保存しようと思った当麻は、道具を取りに一度家に帰ろうとした。
その当麻を阻むように飛んだのは征士だった。
そうされる意味が解らず、当麻は彼にこれから自分が何をしようとしているかの説明をした。
だが征士は言葉を聞いても当麻の目の前を飛び続けて、帰ることを許さない。
必死に視線を巣に向けようとさせる。


「だから巣は見たって」


そう言うと、征士は当麻の指先に止まった。
そして絶対に無理だと解っているはずなのに、必死にその手を持ち上げようとするのだ。
何がしたいのか解らず、暫く考え込んだ当麻だったが、若しかしてとある可能性に気付いた。


「お前、巣を持って帰れって言うのか…?」




巣を木から丁寧に外しながら、当麻は征士と幾つかの言葉を交わした。

「お前は故郷を持って帰りたいのか?」そう聞くと征士は頷くように円を描いて飛んだ。
「解った。帰って大事に保存しような」そう言うと征士は拒むように乱雑に飛ぶ。
「じゃあ何だ。 蜜を食べるのか?」その言葉には、征士は少しだけ悩んで曖昧に円を描いた。
「…?蜜を、取るんだろ?」それには綺麗な円を描いて答えた。
「お前の家族が集めた蜜だ、大事に食べるんだぞ」笑って言うと、征士は激しく乱雑に飛びまくる。


「何なんだよお前は………。……なに、もしかして蜜を俺にくれんの?」


そう少しナゲヤリに利くと、征士は何度も何度も、綺麗な円を当麻の頭上で描き続けた。



来る時は緩やかな上り坂だった道は、帰りは下りになっている。
朝露で湿った草に足を取られないよう気をつけながら大事に巣を抱えて歩く当麻の肩で、征士は何度も身繕いをしていた。




*****
蜜がついてベタベタになったカーディガンやパジャマは、征士が後で舐めます。