Apis mellifera



外が明るくなり始めるのを体全部で感じた征士は、いつものように当麻を見下ろした。

ミツバチの女王ではなく、ニンゲンだった彼女。
気持ち良さそうに眠っているのが空気で伝わってくる。
征士はその彼女の顔に降り立った。


昨日、あの後帰ってきた彼女は征士の思ったとおり、蜜が空になっているのを見て喜んでくれた。
そして優しい声で自分の名を呼ぶ。
どういう顔で出て行って良いのか最初は悩んだ征士だったが、おずおずと姿を見せると彼女の喜びが更に大きくなったのをキッカケに、
真っ直ぐに彼女の元へ飛んだ。


「征士、おかえり…!」


彼女が何を言ったのか、ちゃんとは解らない。
当然だ、自分はミツバチで彼女はニンゲンだ。
だがそれでも今回は、何となく言葉が解った気がした。

”おかえり”と言って、帰還を喜んでくれたような気がした。




ここは自分でいう所のどの部分だろうか。

未だに眠り続ける当麻の顔の中で、綺麗なラインを描いて高くなった部分に触れる。
触角で撫でると、いつものように笑ったような雰囲気が感じられた。


「おはよう」


そう言われた気がしたから征士も同じように返した。


「おはよう、とうま」







彼女は、ニンゲンだ。
優しくて慈悲深くて、そしてどんな命も平等に扱ってくれる、素敵なニンゲンだ。
自分はミツバチで、それもオスで、本来なら子を残すために存在する命だけれど、それを成すことは出来ないけれど、それでも彼女といることが
幸せだ。
一度腹を括ると気持ちはどこまでも晴れやかだった。
そんな思いを抱きながら、征士は当麻の唇についた蜜を舐めた。
優しくて甘くて、なのに爽やかな味は不思議な彼女によく似合っていた。


だんだんと自分が成長している事は感じている。
若かった身体が徐々に完全な大人になりつつあるのが解る。
征士が飛ぶ羽もないほどに幼かった頃、世話をしてくれていた姉の1人がいつの間にか年老い、そして命が尽きたのを見た。
別の姉が言っていた。「私たちは女王より遥かに命が短い」と。
そして、征士に向き直ってその姉は言った。

「あなたたちはその私たちよりも命が短い。だからその短い間に、自らの使命を果たしなさい」


もう使命を果たせない事は、征士自身が決めたことだ。
だが命ばかりは決めようがない。
短いといわれた命が、どれ程残されているのか解らない。


「あとどれくらい、一緒にいられるんだろうか…」


きっとニンゲンの寿命は長いのだろう。あれほどに身体が大きいのだから。
そう思うと征士はやり場のない悲しみで胸が詰まる。
もっと触れ合いたい。
命が尽きる前に一度でいいから言葉を交わしたい。

もっと、ずっと一緒に生きていたい。

彼女の傍にいて、もっとと思う事は多い。
けれどそれは全て叶わない願いだ。
だからせめて彼女と共に過ごせる時間だけは、誰にも邪魔されずに穏やかに過ごしたい。


しかし征士のそのささやかな願いは、耳障りな音に妨害された。
ビーっという、何事かと思う音は2回響き、そして自分に向かって何か労わるような言葉を向けてくれた当麻が慌てて何処かへ向かっていく。
すると音は止んだが、今度は当麻が向かった方向から不愉快な匂いが漂い、征士の触角をビリビリと震わせた。


「…臭い……っ!」


思わず顔を背け、新鮮な空気を求めて巣の外に近い場所へ移動する。
幸い当麻がそこを開け放っていてくれたお陰で、匂いに当てられて倒れるという事は免れた。

そこで身体を休めていると、不愉快な匂いの塊が当麻と共に近付いてきた。


「お邪魔しまぁす」


聞こえた声も不愉快だった。
当麻の甘くて優しいものと違い、征士の全身の毛を逆撫でてゆく不快な音声。
苛々とさせられる気配に振り返ると、そこには見たこともないニンゲンがいた。

当麻がニンゲンなら、たまに来る純というのもニンゲンだろう。
だったら今現れたのもニンゲンなのだろう事は征士にも解るのだが、だがそれにしてもどこかが彼女達と違うように感じる。
何がと問われると具体的には解らない。
だが確かに何かが決定的に違う。
撒き散らす匂いも、雰囲気も、そして身体の大きさも。


「………お前は何だ」


不快感も顕わに聞いてみたが答えなどない。
ミツバチである自分の声がニンゲンに届かないのは承知の上だ。
それに若し届いたとしても答えなど欲しくない。
当麻に聞こえない言葉を、目の前の不愉快なニンゲンに聞かれても征士には何の価値も無いのだから。


当麻の元を訪れたという事は、純同様に彼女に関係する人物だということまで考えたが、そこで純との違いに気付く。
彼女が来る時、当麻は困ったような雰囲気を見せる事はあっても、常に好意的だ。
だが目の前にいる不愉快な人間に対しては終始困った雰囲気を見せている。

嫌いなのだろうか。

そう思って観察したが、そこまでというのでもない。
曖昧で複雑な、けれど確実に”困ったなぁ”という雰囲気。

何がそんなに彼女を困らせているのだろうかと征士は体ごと部屋のほうに向き直り、相手を見た。

そこで気付く。
身体の大きさだけではなく、当麻や純と違う箇所がある。
自分たちでいう胸の辺りに大きなコブが。それも2つもあるではないか。
そこから不愉快な匂いが漂っている。
どうも当麻はそれにも困っているように見えた。
その匂いは征士も苦手だ。
どこか禍々しくて、べったりと纏わりつく、鬱陶しい程に臭い匂い。

そして征士は1つの可能性を導き出した。
そうか、お前もしかして。


「ニンゲンのオスか」


途端に征士の触角がビンと立った。
相手がニンゲンのオスだとすれば、相手から匂って来るこの不愉快なものの正体はフェロモンなのだろう。
そう言えば当麻に向けて強く発されている。
当麻からも甘くていい匂いはいつもしているが、彼女はまだ交尾期を迎えているようにも見えない。
それに対して相手はどうだ、征士でも顔を顰めてしまうほどに強いフェロモンを放っているではないか。
時間が経てば経つ程にその匂いはしつこさと相まって益々不愉快な匂いに変化していく。
そして当麻の困惑も強くなっている。

このままでは当麻が襲われてしまう…!

征士は日光で充分に温まった身体で構える。
彼女を守るという使命と、そして嫉妬を胸に。


「それにしても味のある素敵なお家ですよね」

「いや、ただのボロ家ですけどね」

「お庭も色んなお花が咲いてますし。ご趣味ですか?」

「まぁ趣味といえば趣味ですが、昆虫観察のためです。花の趣味は一切ないので必要最低限しかしてませんし、バランスも考えてないので
いろんな種類があれば良いという程度ですよ」

「自然も多くて素敵ですねぇ、何だか落ち着きます」

「そうですか?蝉が煩いでしょ。打ち合わせの途中がピークで、ちょっと大きめの声で話したじゃないですか」


多くの会話を交わそうとする相手に苛立っていると、当麻の困惑がハッキリと伝わってきた。
それを合図に征士は羽音を響かせ、不愉快なオスに目掛けて勢いよく飛び出した。


「え、や……っ!な、なに!?やだ、ナニコレ、蜂!?」


どうして自分の声は彼女に聞こえないのに、あんなオスは彼女と言葉を交わせるのだろうか。
どうして向かい合い、見詰め合うことが出来るのが自分ではないのか。
どうして同じニンゲンというだけで、あんなオスでも彼女を手に入れられる可能性があるのだろうか。

悔しさと嫉妬の混じった感情を顕わにして、相手を威嚇する。
周囲を飛び、針はないがそれでも攻撃の意思を見せつけながら相手の黒い瞳を狙う素振りを見せる。
案の定、相手は混乱し、何事かを喚きながら暴れ始める。

この程度で狼狽えるとは、何て脆弱な!

恐怖に負けて冷静な判断も下せない生物は自然界では生きていけない。
不様なまでに弱いオスに、征士は余計に腹を立てていく。

激しい羽音を立ててオスの周囲を飛び続けていると当麻の制止の声が聞こえたが、征士は敢えて無視をした。
たとえ何といわれようとも彼女の今後も含めて守るのが今の征士に残された使命だ。
すると埒が明かないと判断したのだろう、当麻はオスの持ってきた彼の匂いが染み付いたものを手に取り、それを相手に渡しながら、
そして征士から庇うように立ちながら入ってきた方を指し示す。


「と、兎に角逃げてください…!玄関、あっちですから!」


どうやら相手を逃がそうとしているらしい。
誰にでも優しい彼女らしい行動だが、このオスだけは許せない。
弱いくせに図々しく、そしてフェロモンを向けて彼女を困らせたのだ。
二度とここを訪れることがないよう、征士は当麻の巣から彼が完全に出て行くまで追い回し続けた。


「弱いくせにとうまに近付くな…!彼女を守ることも出来ないオスに、彼女を求める資格などない!!!」





激しい音を立てて不愉快なオスが去るのを見届けた征士が戻ると、当麻が険しい雰囲気で声をかけてきた。


「征士」


何を咎められているのかは解ってはいる。
やりすぎだったことも承知だ。
当麻の元を訪れ、巣の中にまで入ってきたことを思えば彼女にとって一応は客人だった事も解る。
だが、だからこそ征士は許せなかった。
彼女の優しさに付け入るような、卑怯な彼が許せなかった。

でもやっぱり、やりすぎたとは思う。

だが反省しようにも彼に対して詫びるつもりは無いし、この気持ちをどう言っていいのか解らず、落ち着きなく征士は全身を撫でた。


「こら、征士。聞いてるのか」


当麻の声は相変わらず厳しい。
おずおずと視線を上げて彼女を見る。
いつもの優しい目ではなく、やっぱりちょっと怒った目をしていた。


「その………悪かった」


彼に、ではなく、客人を迎えた当麻に、と心の中でだけ続けた征士は申し訳なさから身を低くする。


「……なにそれ、反省のポーズ?」


何事か言って当麻が笑った。
何を言ったか、はっきりとは解らない。
けれど征士は、何故か言葉が聞き取れるように感じられた。


「…とうま…?もう一度、…たのむ、もう一度言ってくれないか。今何と言った…?」


そうして懇願してから、自分の声が彼女に届かないことを思い出して、どうやって「もう一度」と伝えれば良いのか悩んだ征士は前肢を擦り合わして、
どうにか伝えようとする。
すると当麻が笑った。
何が可笑しかったのか解らない。
困って征士が触角を傾げると彼女は益々笑った。
そして「しょうがないやつだな」と言って、また自分を呼ぶ。

やはり言葉は伝わらなかった事に落胆した征士だが、彼女が嬉しそうに自分を呼んでいるのでその感情は一先ず置いておき、
優しい彼女の元へ飛んだ。
近くへいくとそれだけで幸せな気持ちになる。
ニンゲンとミツバチだ。
種族も、寿命も、使命そのものが違う。
それでも一緒にいられるのだ。それだけでも十分幸せなことだと半ば自分に言い聞かせるように征士は呟いた。


「お前、オスのくせにいっぱい飛んだから腹減っただろ。蜜、舐めるか?」

「…………とうま…?」


今、確かに聞こえた。
蜜を舐めるかという彼女の声が、ハッキリと、確かな意味を持って征士に聞こえた。


「とうま、私に蜜を……そう、言ったのか?」


驚いて見上げると、当麻は笑いながら「俺の困りごとを追っ払ってくれたお礼も兼ねて」と続けた。
自分の声は届いていない。それは相変わらずだ。
だが確かに当麻は、困りごとを追い払ったお礼だと言った。
理解できた。彼女の、当麻の言葉が。
何故かは解らない。
だが急に、どういうワケだか彼女の話す言葉がすんなりと脳に届いて理解が出来た。

それが嬉しくて征士が目を輝かせると当麻がまた笑ってくれた。




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富田さんは後日、「羽柴さんのところって虫が多いのね…」と純に零して、「ええ、短気なミツバチもいますしね」って言われます多分。