Apis mellifera
昨日、落ち込んだ気分のまま講義から帰ってきた当麻は、テーブルの上の皿が綺麗になっていた事に心の底から喜び、
そしてその喜色を滲ませた声で彼を呼ぶと、最初は戸惑うように姿をみせ、だがその後は迷いなくいつものように彼は自分の肩に降りてくれた。
「征士、おかえり…!」
そう言うと、そっと触角を伸ばして頬に触れ合わせてくる。
その感触がくすぐったくて嬉しくて、当麻は声を立てて笑った。
彼がもう少し大きな生物だったら間違いなく抱き締めていただろう。
夜になる頃にはすっかりいつもの1人と1匹に戻り、当麻の向かいで征士は一緒に”食事”をしてくれた。
寝室に入ってベッドに入ると同じように征士も譲り受けた巣の近くへ行って、その傍で身体を休める。
朝はいつものように彼の感触で夜が明けた事を伝えてくれた。
今日の着地点は、当麻の鼻先だった。
朝食の時にも、当麻は自分の向かいに征士の皿を置き、そこにいつもと同じ百花蜜を垂らす。
征士はそれを綺麗に食べ尽くしてくれた。
そして当麻の唇に僅かに残っていた蜂蜜も、彼は綺麗に舐め取ってくれた。
その感触がくすぐったく感じるのは、物理的な感覚だけではないのを当麻は解っていた。
何と言うか、幸せ、なのだ。
だが幸せの時間は一旦終わりだ。
この後、いつ終わるか解らないが面倒な時間がやってくる。
打ち合わせの為だけに態々こんな田舎まで来る、来客の時間だ。
10時ちょうどに呼び鈴が鳴った。
よくある、ピンポーンと言うのでもなければ、メロディが流れるものでもない。
当麻が買ったときからそのままにしている呼び鈴は、潰れたような音で「ビーッ」っと押した時間と同じ長さだけ忠実に家中に響いた。
2度に分けて鳴らされたその音に征士が驚いてしまったので、3度目が来る前に当麻は慌てて玄関へ向かった。
扉を開けた途端、人工的な”イイ匂い”がして当麻は思わず顔が引き攣ってしまった。
普段それほど香水に敏感なわけではないが、さっき征士が音に驚いた事を考えると、この匂いも彼は嫌うかもしれない。
兎に角、とっとと打ち合わせを終えて彼女にはお引取り願おうと当麻は考えた。
それは自分の為でもあり征士の為でもあり、そしてちょっと彼女の為でもある。
そう、考えていたのだが。
結果は残念な事になった。
家を訪れた”富田さん”は打ち合わせが終わっても、当麻が出したジンジャー入りの蜂蜜ドリンクをチビチビと飲んで帰り支度をする様子がない。
「これ、とても美味しいですね。羽柴さんが作られたんですか?」
「作ったといえば作りましたけど、蜜を集めたのはミツバチですし、それを採取したのも知り合いの養蜂家の方です。俺は教えてもらった
レシピに従って混ぜただけですよ」
打ち合わせはスムーズに進んだ。
これなら電話でもファックスでも、何ならパソコンメールの遣り取りでも済んだのではないかと思うほどだ。
では用は済んだのだからと思ったのだが、何かと理由をつけて彼女は居座り、当麻に色々な方向から話題を振ってくる。
「それにしても味のある素敵なお家ですよね」
「いや、ただのボロ家ですけどね」
「お庭も色んなお花が咲いてますし。ご趣味ですか?」
「まぁ趣味といえば趣味ですが、昆虫観察のためです。花の趣味は一切ないので必要最低限しかしてませんし、バランスも考えてないので
いろんな種類があれば良いという程度ですよ」
「自然も多くて素敵ですねぇ、何だか落ち着きます」
「そうですか?蝉が煩いでしょ。打ち合わせの途中がピークで、ちょっと大きめの声で話したじゃないですか」
この通りだ。
もう何と言うか、彼女、必死だ。
別に当麻だってそこまで本気で彼女を疎んじるわけではないが、彼女の言う事に全て本当の事で返すとこんな返ししか出来ないのだ。
ちょっと困ったな。そう考えた直後、当麻はしまったと思った。
「ッキャ!?」
「征士…っ!」
来る。
そう思って上げた制止の声は僅かに遅く、征士は猛スピードで彼女に突っ込んだ。
「え、や……っ!な、なに!?やだ、ナニコレ、蜂!?」
征士はブンブンと羽音を立てて悲鳴を上げる彼女の周囲を飛び回り、無い針を突き出すようにした威嚇の姿勢で彼女の眼前を何度も通る。
勿論、虫にそこまで詳しくない彼女は征士に針がない事は気付けない。
「征士、やめろ、…征士!!」
当麻が必死に声を上げても、征士は威嚇飛行をやめない。
終いには”富田さん”は手近にあった書類を取り、必死に追い払おうとそれを振り回し始める。
だが複眼を持つ昆虫からすれば、その動きは何の脅威もない。のろのろとして、避けるくらい造作ないことだ。
「やだ!何なのよ…!どこから入って……キャア!!」
「富田さん、落ち着いて…!そいつ、最近世話してる蜂なんです!ミツバチだから害はないし、こいつはオスですから…!」
「蜂!?蜂なの…!!?いや…!!!ヤダヤダヤダ!!!ヤメて、あっち行って!!」
「落ち着い、…。………征士、おい、征士……!やめないか!!」
当麻が落ち着くよう言っても彼女は落ち着かず、そしてやめるよう言ってもミツバチは威嚇やめない。
このままでは拙いと思った当麻は彼女のカバンを取り、そして征士から庇うようにしながら玄関を指差した。
「と、兎に角逃げてください…!玄関、あっちですから!」
当麻の言葉に何度も頷くと、”富田さん”はカバンを受け取って頭を庇いながら玄関へと走り抜けた。
そして征士は彼女が完全に家を出るまでしつこく追い回し続けた。
バタンと音を立てて緑色のドアが閉まると、当麻は溜息を吐いた。
純との遣り取りで予想が出来ていたことだ。
言葉を理解しているらしい征士は、気配も読んでいる。
それは当麻に限っての事だが、確かに彼の判断は間違えたことが無い。
当麻が少しでも不快に感じたり困ったりしていると、彼はその相手に対して威嚇行動に出る。
純相手の時にすぐにやめてくれたのは、当麻がそこまで本気で困っていなかったからだ。
だが今回はちょっとウンザリしていた。だからそう思った瞬間にマズイとは思ったのだ。
征士が来る。そう思ったときには既に羽音は響いていて、征士は彼女に対して徹底的に威嚇し続けた。
特別な想いは無いにしても、彼女にはちょっと悪い事をしたと思った。
だが実は当麻は助かったとも思った。当然、内緒だけれど。
しかしその反面、ヒヤヒヤしていたのも事実だ。
その理由は彼女を征士が何らかの方法で傷つけることを恐れたのではなく、パニックに陥った彼女が征士を叩き落すのではないかと言う
事だったのも、勿論内緒だ。
しかしヤメロと言ったのに征士がその制止の声を聞かなかったのは困る。
言葉を理解していると言うのなら、今後の為にも躾けておかねばならない。
「征士」
だから当麻は意図的に硬い声を出して征士を見据えた。
既にテーブルの上で身繕いをしている征士は、もう落ち着いているようだ。
「こら、征士。聞いてるのか」
もう一度呼びかけると動きを止めて、征士は当麻を見上げた。
そして少しだけ身体を低くする。
威嚇の時と違って、腹も下がっていた。
「……なにそれ、反省のポーズ?」
ちょっと笑って聞き返すと、征士はまるで許しを請うように前肢を擦り合わせる。
恐らく身繕いの続きだろうが、その仕草が妙に人間臭くて当麻は完全に笑ってしまった。
人間、笑ってしまうともう怒りを持続させることは難しい。
そもそも当麻だって本気で怒っていない。
今後も制止の声を無視するような事があっては困ると思っただけだし、それだって威嚇をやめなかった事が原因で征士が怪我を負うことを
恐れたからこそだ。
しょうがないやつだな、と当麻は笑って征士を呼ぶ。
すると少しだけ躊躇って、それでもやっぱり征士は当麻の肩に止まった。
「お前、オスのくせにいっぱい飛んだから腹減っただろ。蜜、舐めるか?」
俺の困りごとを追っ払ってくれたお礼も兼ねて。
そう言うと、征士が喜んだ気がして当麻はまた笑った。
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カバンで叩かれたりしたら、小さなミツバチは大事ですから。