Apis mellifera
いつものように朝を過ごして、聴覚が狂うほどの轟音を立てるもので当麻が何かをして、それが終わってまた彼女の身体に寄り添って。
いつもとは少し違う時間を過ごしたが、その時間が幸せだという事は変わらなかった。
その、筈だった。
当麻が気紛れに、不思議な四角い箱から音や光景を出した。
そこに見えた光景に征士は言葉を失った。
「お、スズメバチの巣か」
そこにいるのは自分よりも色のコントラストがハッキリとした、硬質な光を放つ、似た種族の姿。
大きさがハッキリとは解らないが、一瞬だけ見えた背中の特徴的な紋様は聞かされていたものと恐らく同じものだ。
激しい羽音。カチカチと鳴る顎。
それは、聞いた話でしか知らなかったが、どう考えてもスズメバチの姿だった。
母から厳重に注意されていた姉達の話で聞いた。
スズメバチ、特にオオスズメバチというのは絶対的な恐怖なのだと。
自分たちの全身が、漸く彼女達の頭の大きさに相当する。
一度針を刺してしまえば、それが自分にとっても最初で最後の攻撃になる自分たちと違い、彼女達は何度も針を突き立て猛毒を流し込んでくる。
大きな顎はどんな昆虫でも胸の肉を裂かれてしまう。
そして彼女達が目をつけた巣は、瞬く間に占拠され、残る命はないのだと聞いた。
若い頃に母が一度見たという光景は悲惨の一言に尽きたそうだ。
小さな身体の同族ではスズメバチには全く歯が立たず、しかしただ単に邪魔と言理由だけで大きな顎と強大な肢で身体を引き千切られた働き蜂たちの
死骸は地面に散乱し、逃げ惑うものにまで彼女は襲い掛かっていた。
巣の奥からも幾つも悲鳴は聞こえ、母より先に女王蜂となった者の声だろう、赤ちゃんだけは助けてやって欲しいという、鳴き声混じりの
懇願の叫びが間断なく響いていた。
その声を無視して何度も、恐らく先ほどまでは幼虫だった塊が運び出され、全て出し終えた後でその巣の女王の死骸が放り出されて、地面に落ちた。
それだけでも惨たらしい略奪だったのに、後から来た仲間が一滴も残さず蜜も持ち出したらしい。
その様をついて来た数匹の伯母たちと木の陰に隠れて見ていた母は、その時の事を思い出すと今でも震えが止まらなくなると言う。
その恐ろしいスズメバチの姿が、当麻の持つ四角い箱の中にあった。
最初はその姿に驚き、密かに怯えた征士だったが、一体どういう仕組みなのか解らないものの、あの中からスズメバチが出てくる事はないというのだけは
解って、ほっと安心する。
もし今、彼女達が箱から飛び出してきても征士では当麻を守りきることが出来ない。
彼女達に勝てるのは、同じミツバチでもニホンミツバチだけだと聞く。
当麻だってそのニホンミツバチだが、彼女は1匹しかいない。
方法は解らないがニホンミツバチは何匹も集まる事で初めてスズメバチに対抗する手段を持つというのだから、今ここに1匹しかいない彼女では
無残にも、母から聞いた結末を迎えてしまうだろう。
せめて彼女が逃げるだけの時間を稼ぎたくても、征士だって小さな身体だ。幾ら奮闘しようとも、恐らく2匹揃って結末は見えていた。
だが今は安全らしいと思うと張り詰めた感覚が緩む。もう一度四角い箱を見ると、今度は箱の中に何か妙な霧が立ち込めていた。
何だろうかと思ってそちらに集中すると、どういうわけかスズメバチたちが一斉に活動を停止し、地面に大量に落ち始めた。
「……何だ…?」
状況が把握できず、征士は箱の中の光景に集中した。
霧が出る何か持っている、白いものがある。
その形はどことなく当麻の前肢の先に似ているような気がした。
画面の光景が小さくなっていく。
当麻の肢に似た、白くぶよぶよとした物の全景が見えてきた。
「…………!?」
征士は再び言葉を失った。
容姿は少し異なるが、そこには当麻と同じ、ニホンミツバチの女王がいた。
やはりスズメバチに勝てるのはニホンミツバチだけのようだ。
だが何か引っ掛かる。
小さな違和感ではない。もっと大きくて、強い不安を伴ったものだ。
ニホンミツバチはスズメバチに対抗する手段を持っている。
確かに今、箱の中のニホンミツバチの女王は彼女達を物ともせず、いとも簡単に全滅させた。
だがそうではない。
そんな筈はないと征士は散らばりそうな思考を必死に纏める。
「………っ」
そうだ、ニホンミツバチは集団でなければスズメバチに勝てないない。
だがあの女王はたった1匹でそれを仕留めた。
何故。
いや、そもそもおかしい。
ニホンミツバチは自分たちよりも小さいと姉が言っていた。
女王は大きいとは聞いていたが、それにしたってスズメバチが最大と言うではないか。ではそれ以上に大きいとなると矛盾が生ずる。
スズメバチに勝てる生物は幾つかあったはずだ。
その中でもっとも最大にして最悪の生物は確か……
それは巨大な身体で何でも意のままに操り、他の生物を捕まえ閉じ込めたり、気紛れに命を奪うこともあるという。
その生物に目を付けられれば、二度と己の命に自由が戻る事はない。生きる理由さえ奪われるのだとも。
何が目的で、何の権利があるのかは知らないが、生物の道理さえ持たない凶悪で凶暴な、悪魔のような生物。
”ニンゲン”。
征士は咄嗟に顔をあげ、当麻を見る。
「せいじ、」
彼女が太陽のように熱い何かを意のままに操っていたのは。水を大量に出すことが出来たのは。
蟻に似た何かの行列を沢山作り出していたのは。
「違うんだ、征士、」
肢が1組足らないのは。触角がないのは。
天道虫の遼の言葉は解ったのに、彼女の言葉だけ解らないのは。
「……征士…っ」
それは、彼女が。
「征士、違う…!俺はお前をあんな風に扱ったりはしない…!」
彼女が、ミツバチではなく。
「…征士…!」
当麻の必死の声を振り切って、征士は巣の外へと飛び出した。
白い花の上に降りると、征士は落ち着きなく前肢を動かした。
信じられない。信じたくない。
あんなに優しいのに、あんなに綺麗なのに。
当麻がまさかあの、……………凶悪な、”ニンゲン”だったなんて。
「…………」
動揺は収まらない。
ぼんやりと空を眺めると、彼女と同じ色の空が広がっていた。
相変わらず真っ青で、美しかった。
呆然としていると急に花が傾いだ。
そして「また会ったな」と聞き覚えのある声がする。
のろのろと目を向けると、そこには天道虫の遼がいた。
「どうしたんだよ、元気がないな」
「……………」
「…本当、どうしたんだ?何かあったのか?」
自分より僅かに身体の小さい遼に、何だか頼もしさを感じて征士は思い切って口にしてみた。
当麻が、”ニンゲン”なのだ、と。
すると遼は驚き、しかし少しの間の後で大笑いを始めた。
「…な、……んだ、」
「だって、…!だって、征士……!知らなかったのか?」
「……知っていたらこんなにも落ち込まん…」
「知らなかったからって……そんな事でそんなに!?」
「そんなにとは何だ…!私は真剣に…っ」
泣きたくなってくる。
想い焦がれた相手が、化け物のような生物だったなんて。
吐き捨てるように言うと、遼が笑うのをやめた。
「征士、それ本気で言ってるのか?」
「……当然だ。彼女は慈悲深い女王でもなんでもない、…凶暴な悪魔だ…」
「本気でそう思ってるのか」
半ば自棄になって口にすると、今度はもっと強い語気で遼が言った。
それは尋ねるというよりも、怒りに近い響きを持っていた。
「………何を…、」
「征士、お前は本気であのヒトがそうだと思うのか?凶暴で残酷で、他の命を気紛れに奪うヒトだって」
「……それは…」
遼はころりとした赤い背を震わせ、怒りを見せる。
「あそこ、見ろ」
遼が示した先は、先日も聞いた征士が倒れていたという場所だ。
「………前にも見た」
「ああ、そうだな。俺が教えた。征士が倒れてた場所だ。そして、あのヒトがお前を助けた場所だ」
「……………」
「お前は助けられたんだ、あのヒトに」
「…………だがニンゲンは気紛れに他の生物を閉じ込める…」
「そうだな、殺したりもする」
旅の途中で出会ったカブトムシから聞いた話だ、と遼は言った。
彼はもう随分と疲れ果てていた。
どうしたのかと聞けばニンゲンの所から命からがら逃げてきたと言う。
彼はニンゲンに掴まり、狭い箱の中に閉じ込められた。
そこには土があり木もあり、そして定期的に餌も与えられる。
だがそれは自らの意思と引き換えだ。
子孫を残すことも、空を飛ぶことも、そして自分の死に場所を選ぶことも、全ての自由が奪われる。
透明の壁を隔てた隣にも同じように捕まったカブトムシがいたが、彼は精神を蝕まれ、既に心が死んでいた。
それを見て怖くなったカブトムシはニンゲンの隙を伺い、命からがら逃げてきたと遼に話してくれた。
「だから俺、征士が連れて行かれた時はドキドキしたんだ。殺されたりオモチャにされるのかなって。…でも征士は元気にしてた」
「……彼女の巣での生活だがな」
「でもそれをあのヒトが強制した事はあるのか?」
「…それは…」
「今だってここに出てきてる。狭くてつまらない場所に閉じ込められたか?羽を傷付けられたり、肢を奪われたりしたか?」
「…………」
「征士が自分の思い通りにならないと怒ったり暴力を振るった事はあったのか?」
「…………………。………だが…、」
尚も言い募ろうとする征士に、遼は更に触角もピンと張って声を荒げる。
「確かに!確かに俺も怖いニンゲンを見た事はある。征士に注意するようにも言った。でもな!でも、全部のニンゲンが怖いわけじゃないぞ!」
実際に見ろ!と今度は草花全部を示す。
「ここにあるもの全部、あのヒトは俺たちのために用意してくれてるだろ!?」
「…………」
毎日起きて、自分の腹を満たすよりも先に彼女がするのは、ここにある草花に水を遣ること。
そして、そこに集まる生物を眺めること。とても幸せそうに。
それはこの数日、征士も共に見てきた世界だ。
「…………しかし私は…」
「征士はあのヒトが好きだと思ったのは、女王蜂だったからなのか!?」
「……………それ、…は……」
自分の命を継ぐものを生み出すために、生まれた。
何かを考えるよりも強く、そう本能が伝えてくる。
その命題を果たすには女王蜂という存在が必要だ。
それは解っている。
相手は子を産む能力のないメスでは意味が無いし、幾ら子を生めてもそれは同じミツバチでなければ意味が無い。
だが本能とは別の場所で、当麻を求めている自分がいる。
征士は当麻の巣を振り返った。
当麻の気配はもう感じられなかったが、自分が飛び出してきた出入り口は開いたままだ。
「……………私は…」
「あのヒトはニンゲンだ。でも、それが何だよ。征士の事、大事にしてくれるだろ?」
「…………とうまは、……」
「征士。どんな生物でも活動に与えられた時間は限りがある。その中で出来る事だって限られてる。命を繋ぐのは生物の本能だ。
でも迷うくらいなら自分の心に素直に生きた方がいいと俺は思ってる」
だから。
そう言って遼の短い前肢が征士の前肢を叩いた。
「あのヒトの傍で生きることを選択するのも、有りだと思う」
遼の言葉を最後まで待てず、征士は開いたままの出入り口に向かいながら礼を言った。
「ありがとう…!私の心の靄は晴れた!」
巣に戻ると、しんとしている。
当麻の気配はやはりどこにもない。
巣を飛び出す前の悲痛な声を思い出す。
何を言っているのかは全く解らなかったが、強い悲しみを持っていた声だった。
それを思い出して征士は申し訳ない気持ちになってくる。
きっと当麻はガッカリしただろう。傷付けたかもしれない。
そう思っても言葉を交わすことの出来ない自分たちでは、謝ることさえままならない。
それがもどかしくて征士は羽を振るわせた。
「何か……とうまに伝える方法は…」
何かないかと巣を見渡す。
ぐるりと回ってみて、テーブルの上にある物を見つけた。
それは当麻がいつも征士に蜜を出すときに使っている白くて平たい物だった。
そこには征士が1回で食べきれるだけの量の蜜が入っている。
征士が飛んでも、蜜を食べても喜んでくれた彼女だ。
それを思い出した征士は、彼女への思いを込めながら蜜を懸命に舐めた。
*****
征士、当麻の正体を知る。