Apis mellifera



その日の朝も、征士の感触で目が覚めた。
いつも彼が止まる場所はバラバラで、今日は指先だった。
左手の薬指を這い回り、恐らく時折舐められてそのくすぐったさに目を覚ます。
日の光が差し込む少し前に、征士は必ず当麻を起こした。
お陰で眩しさに顔を顰めて起きる事は減ったし、正直、幾分か気持ちのいい目覚めだった。

日課の水遣りをして、征士が蜜を飲みに行くのを見守る。
小さな花を幾つか飛び回り、腹を満たした征士はそのまま当麻の元へ戻ってきて、そしていつものように肩に止まる。
彼が身繕いを始めたのを確認してから当麻が室内へ戻るのも、もういつもの光景になっていた。




「さぁ、じゃあ……片付けようかな」


朝食を終えて食器を洗ったあとは、明日に来ると言っていた客のために少しは部屋を片付けるのが今日の当麻の一番の仕事だ。
午前中にある程度終わらせておかないと、午後からは講義に出なければならない。
場所は近くの大学だから往復でもそう時間はかからないが、大勢を相手にするのはやはり気持ちとして疲れる。
帰ってから掃除をするよりも、行く前に済ませておいたほうが楽なのは当然の事だ。

せめて人が座れるくらいには、と当麻はまずソファのあたりを片付ける事にした。
普段食事を取っているテーブルは家の雰囲気に合わせて輸入雑貨の店で買ったものだから、綺麗な平らとは言い難いほどに表面がでこぼこしている。
打ち合わせと言うくらいだ。きっと文字を書くこともあるだろうから、そんな場所ではマトモに仕事にならない。
だったら、こちらもお高いものではないが、そこそこの店で買い揃えたリビングセットのテーブルの方が何倍もマシだ。
だが普段遣っていないテーブルは上に新聞や送られてきたファックス、プリントアウトした紙が散乱している。
本人としてはどこに何があるか覚えているから困らないが、改めて見てみると確かに”汚い”。

これは流石にイカンな…

反省して物の分別を始める。
ある程度分けると、今度はソファを見た。
2人掛けの物が向かい合わせで2つある。
その片方は日中はいい具合に陽の光があたり、普段の当麻のごろ寝スペースになっているから上には何も散らかっていない。
その代わり、そこに置かれているクッションがぐっちゃぐちゃだ。
そしてもう片方は、こちらも脱いだ上着や、呆れた事にスーツまで掛けたままになっていた。


「……やっべ、このスーツ、今日着ていこうと思ってたんだけどな…」


てっきりクリーニングに出していたつもりの物が家にあった事に驚く。
そもそも今日着て行く予定物をクリーニングに出したままのつもりだった事もマズイのだが、当麻はその辺がいい加減なのであまり考えていない。


「しょうがない。今日は別のスーツで行くかぁ」


シャツもアイロン当てとかなきゃなぁ…と考えてから、まず自分が何をしようとしていたかを思い出して、当麻は慌ててスーツを放り出した。




大きな音を立てる掃除機に驚いたのか、征士は暫く当麻に近づく事はなく、その間中は庭を飛び回っていた。
それでも掃除機をかけ終えるといつものように当麻の傍に戻ってくる。


「よーし、征士、もう大丈夫だぞ」


その様が可愛くて当麻が指で撫でるようにすると、征士は自ら羽を持ち上げて当麻が撫で易い体勢になった。

征士が当麻の傍を離れないのはいつもの事だ。
時には庭を飛び回っているが、それでも少しするとすぐに当麻の傍に帰ってくる。

オスの征士は基本的に、働き蜂であるメスのように巣の位置を覚える必要がない。
彼らはメスのように蜜を求めて遠くへ飛んで行く事はない。飛ぶとしたらそれは女王蜂との交尾のためだ。
その交尾後は大抵が交尾器が引き千切れ、そのまま地面に落ちて短い一生を終えるのだから、帰るために巣を覚える必要性は全くない。
だが征士はオスにしてはよく庭を飛び回っていた。
それは何か目的があるようにも見えたが、征士が何も言わないので当麻にはサッパリ解らない。

征士は俺の言う事を解ってるのにな。

それを見るたびに、当麻は何となく寂しい気持ちになった。




さぁ今日の講義に入る前の小ネタになるようなものはあるかな、と当麻はテレビをつける。
掃除したばかりのリビングはいつもより広く見えて気分が良い。
これからはマメに掃除しようかな、と考えるのはいつもこの瞬間だけで、この状態が維持されることは滅多となかった。


「お、スズメバチの巣か」


奥様が主なターゲットの情報番組は、夏の盛りから頻繁にスズメバチの危険性を訴えている。
大体流れはどの番組も同じで、最初に被害を受けたときの前例や被害者の生の声を流し、次に近寄ってはいけないという警告、
それから実際の巣を専門家と共に確認して、その駆除光景を流すと後はコメンテーターたちが総括のコメントをして終わる。
今回も真っ白な防護服に身を包んだ専門家が駆除している様が映し出されていた。
カメラには、それでも襲い掛かってくる数匹がアップで映し出される。

確かに彼らが増えすぎても困るが、そうなるまで彼らの生活圏に踏み入った非は人間にもある。
季節によってその攻撃性は変動するが、本来ならそこまでヒトの生活の中に彼らは存在していなかったはずだ。

ただ今更過去の事をああだこうだと言っても意味がないから当麻は複雑な顔をするだけで終わった。
そしてふと気付く。
この番組を、幾ら映像とはいえ同じ蜂である征士に見せて良かったのだろうかと。


「……征士?」


目を向けると、いつも肩にいる征士の様子がおかしい。
自分を見上げ、怯えていると言うのではないようだが、それでもどこか…余所余所しい。


「せいじ、」


やはり自分と同じ人間が、彼と同じ蜂を駆除している光景は些かショッキングだったのかも知れない。

他の昆虫がどうかは解らないが、征士は賢い蜂だ。
鏡に映った自分の姿を敵と間違えて威嚇する昆虫や動物はいるが、彼はそこをきちんと理解できている可能性があるのなら、ならば征士は今、
テレビで映っていた映像が一体どういうものか理解している可能性が高い。


「違うんだ、征士、」


傍から見れば昆虫相手に頭のおかしな事をしているように映るだろうが、当麻は真剣に征士に弁明を試みた。


「あれはその……お前たちの世界に俺たちが介入してるけど、自然とは言いがたいけど、それでも今の社会ではある程度必要なことで、」


必死に言った。
だが、征士はどこか失望した様子でそっと当麻の肩から飛び上がった。


「……征士…っ」


飛ぶ姿も弱々しい。


「征士、違う…!俺はお前をあんな風に扱ったりはしない…!」


それを追うように当麻も立ち上がったが、征士はそんな当麻を振り返ることなく庭に飛び出していってしまった。


「…征士…!」







当麻がそろそろ出かけなければならない時間になっても、征士は帰ってこなかった。
ダイニングテーブルの上に置いてある彼専用の皿に目をやり、当麻は溜息を吐く。
蜜は彼が食べきれる分だけを注いだままだ。

自分が直接何かをしたわけではないが、迂闊だった事に変わりはない。
賢い彼を傷つけたかもしれない。そう思うと落ち込んでしまう。

征士を拾ったとき、彼は瀕死の状態だった。
特に外傷はなかったからスズメバチの襲撃を受けたというワケではなかったのだろう。
餌を与えるとある程度元気になったから空腹だったのかと思っていたが、若しかしたら人間に何かされた可能性だって考えられた。
懐いてくれているからすっかり油断していたが、虫を怖がる人からすれば、本来害のないミツバチでもそれは恐怖の対象だ。
場合によっては攻撃に出る人もいる。
この近所でそんな事をする人はいないと思うが、完全に否定は出来ない。


「若しかして、帰る巣を探してたのかな…」


時々庭を飛び回っていたのは、その為だろうかと考えて当麻は更に落ち込んだ。
いつだって自分の傍に居たから気にしていなかったが、征士だってミツバチのオスだ。
本来なら自分の種を残す事が彼の生まれてきた理由だ。
その彼は気紛れに遠出をして迷った結果、色々な要因が重なって自分の庭に倒れていただけで、いつも帰る巣を探していたのかも知れない。
自分の傍にいた理由は、単に体力が回復していなかったから、だけで。

駆除光景に慄いて自分の元を去ったのか。
それとも巣に帰るだけの体力が戻ったから出て行ったのか。
どちらの理由にしても、当麻は自分の中にある喪失感を拭うことは出来なかった。




スーツを着て玄関に向かう。
未練がましいなと思いつつも、庭に続く引き戸は開けたままにしておいた。
征士がいつ帰って来てもいいように、テーブルの上の蜜もそのままだ。

帰って来た時に蜜が全く減っていなかったらきっと相当なショックだぞというのは当麻自身解っていたが、それでも彼に帰ってきて欲しくて
そのまま出かける事にした。
幸いここは田舎だが近所の人間には無断で人の家に上がりこむような者はいないし、それに見知らぬ人間が土地に入ってくればすぐに解る。
最悪、空き巣に入られても当麻の家の中で取られて困るものはそうそうない。
見る人からすれば価値のある書籍は確かにあるが、当麻の中でそれは本以上の価値がない。
入手困難な事を思えば惜しくもあるが、中身は既に読みきって頭に入っている。
そんな事よりも、征士を締め出してしまうことの方が今の当麻には辛かった。


玄関に立ってもう一度室内を見渡す。
征士の羽音は聞こえない。
当麻はもう一度溜息を吐いて、近くに居ないだろうが征士を刺激しないように気を遣いながらそっと扉を開けて出て行った。




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当麻先生の講義は昆虫の生態についてと見せかけて、実は”環境について”。