Apis mellifera
「一体どうすれば…」
征士は当麻の周囲を飛びながら悩んでいた。
征士はオスのミツバチだ。
メスの働き蜂のように忙しなく動き回ることもなく、女王蜂のように新たな命を生み出すでもない。
オスはただ巣の中にいるだけだ。
そんな彼らの存在理由はただ1つ。
女王蜂と交尾し、有精卵を産ませること、だけだ。
蜂というのは有精卵からはメスが、そして無精卵からはオスが生まれる。
巣を維持するために必要なのはメスが大半で、実に巣全体の9割はメスが占め、残りの1割がオスだ。
オスの存在がなければメスを生み出すための有精卵は作れないが、オスが多くては巣の増築も、新しい命たちの餌もままならなってしまう。
このバランスが巣には常に求められる。
その1割。
そのオスとして、征士は生まれた。
征士のいた巣は何があったのかは解らないままだが、母である女王も働き蜂の姉たちも同じオスである兄達も、まだ孵化していない兄弟たち誰もが
姿を消してしまっていた。しかしだからと言って別に征士の生物としての目的が果たせないわけではない。
他の巣を探し、そこにいる女王蜂と交尾をすればいいのだから。
その征士は運命的に、素晴しい女王候補とめぐり合えた。
ニホンミツバチである彼女は聡明で寛大で、とても大きくて、そして美しかった。
征士のすべきことは1つ。
誰よりも敬愛する彼女に、元気な子供を沢山生ませてやることだ。
だがここにきて壁にぶち当たった。
「………どう、…すればいいと言うのだ…」
征士は当麻の周囲を飛び続けている。
体調も良くなってきた。
飛行も上手くなってきた。
後は相手が交尾可能になるのを待つだけだと思っていた征士だったが、肝心なことを忘れていたのだ。
通常、交尾する場合は女王の背に掴まり、相手の腹部に自分の腹部を寄せて交尾器を挿し込めばいいのだが、当麻たちニホンミツバチの女王は
どうやら征士の知っているセイヨウミツバチの女王とは大きく容姿が異なる。
後ろ肢が生えている位置から考えて恐らくここが腹部だろうと思われる場所は解るのだが、一体そのどこに交尾器を挿せばいいのか全く解らない。
このままでは彼女が交尾可能な時期になった時に出遅れてしまう可能性が出てくる。
それだけは征士は避けたかった。
出来るのならというよりも、どうしても、彼女の一番最初の相手になりたい。
寛大な心に感服し尊敬の念を持った相手に、それ以上に強い恋心を抱くのにそう時間は要らなかった。
オスのミツバチは交尾後に絶命することが殆どだ。
自らの命を懸けて、次代に命を繋ぐ。
だからこそ征士は彼女との間に自分の子を残したかったし、だからこそ彼女の一番特別な存在になりたかった。
なのに、彼女の身体の構造がよく解らない。
先ほどからずっと腹部近辺を探っているのだが、どうしても、ちっとも、これっぽっちも挿れる先が見つからない。
「このままでは埒が明かんな…」
呟いてから征士は覚悟を決める。
交尾可能な時期でもないメス、それも女王候補に対して随分と失礼な事だとは解っているが、もうこの際だ、仕方が無い。
自分の声が当麻に届いていないことはこれまでの経験で解っているが、それでも征士は飛行したまま姿勢を正し、極力大きな声で彼女に話し掛けた。
「とうま!少し驚くかもしれないが、失礼するぞ!」
やはり反応は無かった。
さっきから当麻は、懲りずにやってきた”残念な女王”との会話に夢中だ。
こちらの声には見向きもせず彼女と会話をしているが、仕方が無い。征士はそのまま当麻の腹部に飛びついた。
「……か、…硬い……」
驚く事に彼女の腹部は硬かった。
ニホンミツバチの女王の羽が着脱可能だというのはもう見慣れたが(その証拠に「とうま」の羽は毎日違うし、そして「じゅん」も前に見た時と羽の色が違う)、
実は彼女達は腹部の色も変わるようだ。
何の影響を受けてそう変化するのかは解らないが、兎に角今日は不思議な青をしている当麻の腹部に飛びつけば、そこは想像以上に硬かった。
実物を見た事は無いが、まるでスズメバチの腹部のような硬さだ。(姉達が伝え聞いた話しか参考にしていないが)
身体も大きいし、若しかして実は当麻はスズメバチの女王だったか…?
そう一瞬疑ったが、そんな筈は無いとすぐに考えを改めた。
スズメバチ達は固形物は食べない。固形物を口にするのは幼虫だけだ。
しかし当麻は実際に何かの塊を食べていたし、それに何より彼女がスズメバチなら征士はとっくに殺されている。
食料にするには身体が小さすぎるミツバチでも、気性の荒い彼女達ならば何かの折に助けようなどとは思わ無い筈だ。
悲鳴をあげて逃げ惑う同族が、1匹のスズメバチによって一方的に虐殺される様を若き日の母は見たと言っていた。
そんな残虐な生物と慈悲深い当麻が同じ種族である筈がない。
だがそれにしても硬すぎる。
場所を間違えたか、それともどこかにこの鎧の突破口があるのだろうか。
それを探るべく、征士は触角を触れさせ当麻の身体を探った。
少しずつ位置を変えて丁寧に。
不思議と誘われる匂いのする辺りは特に念入りに。
「せ、征士………頼むからそこはちょっと…」
当麻の声が聞こえた。
いつも以上に悲しいような、恥ずかしいような、妙に弱々しい声だ。
相変わらず彼女が何を言っているのかサッパリ解らないが、それでも感情だけは読む事ができるようになってきた征士は、咄嗟に顔をあげ、
愛しい女王の様子を伺った。
……うむ。
まだ交尾期にも差し掛かっていない当麻は、謂わばまだ乙女だ。
そんな彼女の腹部に飛びつくなど、やはり失礼だったか。
断りは入れていたが彼女には聞こえていなかった。聞いていなかったとも言えるが、返事を待たずに飛びついたのは自分だ。
征士は反省して当麻の腹部から飛び立った。
恥ずかしそうにしている姿を少し離れて確認をする。
改めて見ると彼女の腹部は征士が知っているミツバチのものとは形状が全く異なっているが、魅力的な形だと思った。
交尾の時期はまだもう少し先なのだろう。
そう判断した征士はいつものように彼女の身体に自らの居場所を求めた。
腹部を探るのはまた今度にするとして、征士は”じゅん”の警戒に専念する事にする。
敬愛する女王である当麻は何かと非礼の多い彼女に対しても寛大だが、征士はそれを許す気がない。
この巣の女王は当麻で、そして身体の大きさ、懐の大きさから考えても格段に彼女と純は差がある。
そんな者にまで寛大な彼女は素晴しいが、相手が図に乗らないとも限らない。
現に時折”残念な女王”純からは、当麻に対して親しみを越えて最早馴れ馴れしいと言っていいような感情が流れてくる。
女王が侮られれば、いずれ彼女の巣の蜜を持ち出す輩が出てしまうかもしれない。
寛大な彼女は持ち出されても相手を許し、それを与えるだろう。
今も彼女は例の蜜を純にも振舞っていたほどだ。
だがそれを許してしまえば、いずれは生まれてくる彼女の子供たちが餓える事になる。
その子供たちの何匹かは征士との子供だ。
まだ確定してもいない未来に対して傲慢かもしれないが、それでもその子供たちに悲しい思いをさせたくは無い。
だから征士は純が何か不穏な空気を見せるたびに尻を持ち上げ、威嚇の体勢をとった。
以前、愚鈍な彼女の目の前を飛んだことが功を奏しているのか、この体勢になるだけで相手は怯む。随分と牽制になっているらしい。
それに満足した征士だが、気を緩めるつもりはない。
引き続き、警戒をしたまま2匹の様子を伺っていた。
「その、…そのさ、編集をしてる学生課の……人、いるでしょ」
「あぁ、とみたさん?」
「そう、富田さん」
「彼女がどうかしたか?」
「うん……」
油断しなくて正解だった。
また純が何やら不穏な空気を含んだ感情を見せる。
その感情は今までの失礼なものとは少し違って戸惑いが混じっているようだったが、それが当麻を困らせる事に変わりはない。
征士は尻を持ち上げて威嚇を強めた。
「その富田さんからの伝言でさ、明後日、ここに次の分の原稿の依頼をしに来るからって」
「ここに?何で?…って征士、どうしたんだよ。落ち着けよ」
案の定、当麻が困っている。声にそれがありありと滲んでいた。
すぐさま征士は羽を激しく震わせ音を立てる。
即座に当麻からの制止の声がかかった。
当麻が止めろと言うのなら仕方が無い。
征士は羽音を立てるのをやめる。が、威嚇の体勢だけはとったままにしておいた。
そんな征士を見て純が何か脱力しているような呆れているような気配を見せたが、その後すぐに何故か自分を頼るような雰囲気になったので
よくは解らないが征士もそれを覚えておく事にした。
近い将来に、もっと別の何かが当麻を困らせる。そんな予感がしていた。
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当麻の下半身から蜜の匂いがしたとかじゃないんです。