Apis mellifera



「ねぇ当麻兄ちゃん」

「んー」


今日も朝から来ていた純は、頬杖をつきながら本棚を漁っている当麻に話し掛けた。


「当麻兄ちゃんって若しかして尿に糖がおりてたりする?」


どこかウンザリという響きを伴いながらの質問に、当麻は一旦張り付くようにしていた本棚から離れ、純のほうを向き直った。
見慣れた子供は相変わらず行儀悪く頬杖をついたままだ。


「はぁ?なに、急に」


純が今日来たのは当麻が持っていると双方の家族から聞かされていた、分厚いラテン語の辞書を借りるためだ。
それと、相変わらずの羽柴家の父母それぞれの伝言を伝えに。

父からは「弁護士の資格を取れ」。
母からは「そろそろ身を固めてちょうだい」。
そのどちらにも、慣れ親しんだ兄は面倒臭そうに顔を顰めただけで、「いつもの返事でお願い」とだけ言った。
純はその兄の要望にいつものように溜息を吐いて、それを了解の返事とした。

その純のために本棚を探していると、この質問だ。
一体自分が何をしたのだろうかと当麻は不思議がりながら聞き返すと、純はまた溜息を吐く。


「お前、そんなに溜息ばかり吐いてると幸せが逃げるぞ」

「僕の1日の溜息の原因を調べたら、羽柴家の人間がダントツだろうね」

「…………俺の分は謝っとく」

「そうして」

「それより何で俺の糖尿を心配してんだよ、急に」


それこそ本当に”俺が何をした”状態だ。もう一度聞き返すと純は億劫そうに利き手を持ち上げ、当麻を指差した。


「さっきからずーっと、当麻兄ちゃんの飼い蜂が、お尻のあたり飛んでる」

「征士が?…ホントだ」


指摘されて自分の背後を見てみると、確かに征士はお尻のあたりを飛びまわっている。
こんな事は初めてだ。

まぁ現状はわかった。だが、それが一体何故、糖尿に繋がるのかが当麻には解らない。


「で、何でソレが糖尿?」

「いや、ミツバチって甘い匂いに寄るんじゃなかった?当麻兄ちゃんったら超甘党だしさ、だから若しかして尿に糖が下りるどころか、
ついには便にまで糖が下り始めたのかなと思って」

「んな馬鹿な事があるか」


意味が解らん、と当麻は目当ての辞書を引き出し、純の目の前に出してやる。


「わ、ありがと」


だが礼を言って受け取ろうとした途端、その辞書はひょいと純の手から逃げた。
あれ?と思って視線を上げると、垂れた目と反して吊り上がっている眉をいつも以上に吊り上げた当麻がそこにいた。


「俺の健康診断の結果はな」

「…?」

「”良好”だ、バカヤロウ!」


年下の子供に鉄拳制裁を食らわせた当麻は、ふんと鼻を鳴らしてテーブルに懐いた純に今度こそ辞書を手渡した。
小さく礼を言いながらも純は、兄を訝しげに見上げる。


「…何だよ」

「その診断結果って、本当に?」

「疑う気か。俺の健康状態は山之内先生のお墨付きだ」

「山之内?って、誰?」

「隣の駅の近くにある、診療所の先生」

「その人、名医?」

「地元の大学病院の毛利先生いるだろ。息子のほうの、伸先生」

「いるね」

「あの人の恩師らしいぞ」

「へぇ…」


見た目は爽やか好青年の医師は、実は中々に厳しい先生だ。
患者自身も病気と戦う姿勢を見せているときは優しいのだが、少しでも身体に悪い事をしようものなら猛烈に怒られてしまう。
その人の恩師と言うのなら、大丈夫かと純は考えた。


「…で、だったら何でその飼い蜂は当麻兄ちゃんのお尻の辺りを飛んでるの」

「知るかよ。ミツバチは別に甘い匂いに反応するんじゃないし、詳しくは征士本人に聞いてくれ」

「その征士とやらに聞いたって答えてくれないでしょ」


何言ってるのと呆れて溜息を吐くと、当麻が得意げに胸を反らした。


「ふふん、馬鹿だな、純。征士はどうやら言葉を理解してるらしいんだぞ」

「はぁ?」


本当に何を言っているのだろうかと純は真剣に見つめ返す。
だが兄貴分にはふざけた様子がない。


「え、…本当に?」

「ああ、賢いやつなんだよ。な、征士!……ってあれ?征士?」

「当麻兄ちゃん、その賢い征士っての、当麻兄ちゃんのお尻に着地してるよ」


座るんなら気を付けてあげてよね。
そう言われて当麻は必死に身体を捻って征士の姿を探した。
するとジーンズの縫い目の上に確かに彼はいて、確かめるように触角を何度も触れさせていた。
普段から大抵の虫なら触れられてもそのままにしているし、殊更可愛がっている征士なら唇に触れられても何も思わない当麻だが、何と言うか、
今征士がいる辺りだけはちょっと勘弁してもらいたい気持ちになってくる。
だってそこは、何と言うか、”出口”だ。


「せ、征士………頼むからそこはちょっと…」


情けない声での懇願は正しく征士に届いたらしく、彼はそこから離れてすぐに当麻の肩に降りた。







「そう言えばね、当麻兄ちゃん」


蜂蜜入りのアイスティーに挿したストローをぐるぐると回しながら、純は少し切り出しにくそうにした。


「なに?」

「その、………さぁ」

「うん」


征士は相変わらず当麻の肩に止まっている。
ついさっきまでは当麻の分のグラスの横に置かれた小さな皿の蜜を舐めていたのだが、それもある程度舐めると最早、定位置となった場所に
戻って大人しくしている。
ただ時折、監視するように自分を見ているような気がして純は少し気まずい。


「そのぉ…ほら、大学の、さ。校内新聞あるじゃない?」

「あるね」

「そこに当麻兄ちゃん、たまに記事を書いてくれてるでしょ?」

「うん。たまにな」

「その、…そのさ、編集をしてる学生課の……人、いるでしょ」

「あぁ、とみたさん?」

「そう、富田さん」

「彼女がどうかしたか?」

「うん……」


純はチラリと当麻の方にいる征士を見た。
僅かに尻部分を上げている。
こちらの気配を察知したか言葉を聞いたのかは解らないが、これから純が口にする言葉が当麻を困らせる可能性がある事を感じ取ったのは確かなようだ。

やっぱり当麻兄ちゃんの言うように、コイツってば賢いのかも…

多分、当麻がちょっとでも困った気配を見せれば彼は純の周囲をまた、威嚇するように飛ぶのだろう。
針がないから刺されることは無いと解っていても、ブーンという羽音は耳障りだし、素早い動きはやっぱり反射的に怖いと思ってしまう。
だが伝えておかねばならない内容だ。
純は腹を括って当麻に向き直った。


「その富田さんからの伝言でさ、明後日、ここに次の分の原稿の依頼をしに来るからって」

「ここに?何で?…って征士、どうしたんだよ。落ち着けよ」


純の思ったとおり、当麻が面倒そうな声を出した途端に征士は羽音を鳴らし始めた。
明らかな威嚇行動だ。
それを当麻が嗜めると一応は音を鳴らすことはやめてもらえた。
だがまだ姿勢は威嚇中のままで待機している。
それに純は溜息を吐いて、話しの続きを始めた。


「僕もさぁ、当麻兄ちゃんの所はちゃんと電話もあるんだしソレでもいいと思いますよって言ったんだけど……ここに来たいって」

「来ても何もないだろ。家はボロいし庭だって女の人が喜ぶようなガーデニングはしてない。中だって見ての通り本以外何もないんだ」

「それは僕も言ったよ、ちゃんと」


それに、当麻兄ちゃんは人を家に上げる趣味はないんですよ、というのもちゃんと伝えておいた。
だが彼女は、「きちんとお話したいので」と言って頑として引く様子を見せてくれなかった。
これは態々言う必要もないので純としては内緒にしておくけれど。

どう考えたって彼女がここに来たい理由が校内新聞の打ち合わせだけでないのは他の職員から見ても、そして一部ではあるが学生から見ても
ハッキリと解っていたことだ。
見目もいい、そして頭も飛びぬけていい所謂”イイオトコ”と良い仲になりたいのだろう。
その切っ掛けとして彼の家に今後も来る口実を作りたいに違いない。


「……あー面倒だなぁ…人が来るならちょっと片付けなきゃ駄目じゃないか…」


だがそんな事はどうでもいい当麻は天井を仰いでそうぼやくだけだった。
僕が来る時もちょっとくらいは片付けてよ、と純は言おうとしたが、そんな事よりも当麻の肩で威嚇体勢のままの征士が気になってその言葉は飲み込んだ。

その蜂、鍵つきの部屋に閉じ込めておいたほうがいいんじゃない?

そんな風に思ったが、言っても諦めの悪かった彼女には丁度いい門番になってくれるかも知れないなぁという結論に行き着いて、純はまた溜息を吐いた。
僕、何か性格悪くなってきたな、と思いながら。




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当麻の家に他にあるものと言えば、天体望遠鏡くらい。