Apis mellifera



朝日が昇り始めると身体が温まって筋肉が解れていく。
試しに羽を動かすと、昨日よりもずっと動かしやすくなっていた。

そこで征士は満足して飛ぶ練習を始める。
孵化してすぐに無茶な飛行をしただけで、きちんとした練習はしていない。
昨日にも少し飛んだが、あれは無我夢中でもあった。
交尾する際には沢山のオスがいる中で競争にも似た状態で飛行しなければならないのだから、ちゃんとした飛行練習は必要なことだ。

いずれ来る日のために、征士は暫く部屋を飛び回っていた。
全ては眼下にいる、今は白い繭のような大きな羽を纏って寝ている当麻を、立派な女王にするためだ。


ある程度飛んだ後で、征士は羽から覗いている当麻の後ろ肢に降りた。
触角を持たない彼女の感情は、こうして肢先に触れることで伝わってくる。
他にも顔の部分でも伝わってくる。だが不思議な事に、羽で覆われた部分ではあまりハッキリと伝わってこない。


「とうまは不思議なミツバチだ…」


今も彼女が話している言語は殆ど解らない。
声の調子や伝わってくる空気である程度の判断はつくが、本当はもっとちゃんと理解して、そして自分の言葉も聞いて欲しい。
心行くまで彼女と言葉を交わしたい。
けれどそれは今はまだ難しいようで、征士はそれが少し寂しくて、彼女の肢に触角をすり寄せた。

穏やかで気持ち良さそうで、ゆったりとした感情が流れてくる。


それが心地よくて征士もつい、うとうととして肢を滑らせてしまった。
慌てて体勢を整えようともがくと、当麻の後ろ肢がビクリと動く。

それに驚いて征士は飛び立った。


飛びながら当麻の様子を伺う。
幾ら彼女が優しいといっても、こちらがそれに甘えすぎるわけにはいかない。
女王の睡眠を妨げるだなんてとんだ失態だ。


「おはよう、征士。起こしに来てくれたのか?」


当麻が何と言ったか解らなかったが、やはり寛大な彼女は征士の無礼を一切咎めず、優しい声で何事か声をかけてくれた。
それが嬉しいやら恥ずかしいやらで征士は一旦飛行をやめ、与えられた部屋の近くに身を下ろすと頭をかいて照れた。


「やっぱりお前ってニホンミツバチなの?」


また何か言われている。
雰囲気から考えると何か質問されているようだ。
若しかして、何故起こしたのか聞かれているのだろうか。


「その、……私としては起こすつもりはなかったのだ。ただ…その…とうまが余りにも気持ち良さそうに寝ているから…、…つい」


答えたが当麻はそれ以上は何も言わず、気分良さそうに白い羽を外した。
そして昨日の朝も着ていた別の羽を身に纏うと、部屋から出ようとするので征士もそれについて一緒に出た。





当麻は本当に不思議なミツバチだ。
飛んでいる姿を一度も見た事がない。
確かに征士の母もずっと巣の中にいて飛んでいる姿を見たことはないが、姉達が母から聞いたという話では嘗ては母も飛んでいたという。
だが当麻はその様子がない。それどころか、飛行練習をしている姿も見ない。

まだ、彼女は交尾期にきていないのだろうか。

彼女の成長に不安が過ぎるものの、征士もまだ調子が上がっていないから今は未だ飛ぶ様子のない彼女に正直に言うと安心もしていた。
女王は沢山のオスと交尾をするが、出来ればその最初に自分がなりたい。そう、思っていた。


そう言えば当麻について他にも不思議なことがある。
この巣に働き蜂がいない可能性がかなり大きいというのは昨日までの2日間で解ったことだが、それでも彼女が不便する事はないようなのだ。
それどころか彼女は不思議な力を持っている。
大きな音を立てて、まるで太陽のように熱いものを意のままに扱ったり、そこで水を驚くほど熱くしたり、それに稀にだが四角い箱からは色んな音や
光景を出したりもしていた。
また別の四角い箱の中にはよく解らない…何と言うか、蟻のように黒いものをどんどんと並べたりもしている。
それらが一体何を意味するのか征士にはよく解らなかったが、兎に角彼女には不思議な力があることだけは解った。

今目の前で行われていることも、彼女の不思議な力の一部だ。
雨でもないのに沢山の水をどこからともなく出し、それで草花を濡らしていく。
水がなければ生物は生きていけないと本能で解っているだけの征士でも、彼女のその行為がどれ程偉大かはすぐに解った。
その力を彼女は自分のためだけではなく、自分に属さないものたちにまで惜しみなく与えるのだ。

どこまでも心の広い方だ。

彼女を間傍で見上げながらそう考えていた征士は、それどころではない事を思い出した。
花を、探さねばならないのだ。

当麻が征士に与えてくれている蜜はとても美味しい。
それをどこから持ってきているのかと思えば、征士からすれば大きな、だが当麻の肢からすればそこに収まる程度の、何と言えばいいのか…
そう、まるで巣の一部だけを切り取ったような、それよりももっと硬くて透明の容器から毎日取り出している。
その中身は減る一方だ。
本来なら彼女の食べる分だ。それを優しい女王は征士にも分けてくれている。
だから集めるスピードよりも減るスピードが早いのだろう。
それでは駄目だと征士は思った。
ある程度体は動かせるようになってきたのだから、いつまでも当麻の優しさに甘えていてはいけない。
そして自分が与えて貰った分は返していかねばならない。

だから征士は水に濡れた花が乾き始めるときの、一番匂いが強く立ち上がってくる時を待っていた。
当麻の持っていた蜜に近い花を探して。

昨日、これだと思った花は違った。味は似ていたが、何かが足りないのだ。


「今日は……………アレを確かめるか」


漂ってきた匂いを触角で感じ、その中から昨日とはまた別で、当麻の持っている蜜に似た匂いをさせる花を探り当てると征士はそこへ向かって飛んだ。


黄色い花に降り立って、匂いを確かめる。
確かに似ている。
だが昨日の花もそうだった。匂いは似ているのだ。だが味が違う。

今日のが当たりだといいのだが。

そう思って舌で舐めてみる。


「………………」


違う。
これも昨日のものと同じで、似ているのに何かが決定的に違う。
もっと複雑で、もっと深みのある味をしているのがあの蜜だ。
今舐めた蜜も美味しいけれど、当麻が持つものには及ばない。


「難しいものだな…」

「もう動けるようになったんだな」


落胆して花から飛び立とうとした征士に、下から声をかける者がいた。
花の上を移動して下を見下ろす。
赤くて丸い背に、黒い点を持った虫がいた。


「……お前は?」

「俺は遼。天道虫だ。お前はセイヨウミツバチだろう?」


遼と名乗った天道虫は短く小さな肢を懸命に動かして征士と同じ花の上によじ登ってきた。


「…先ほど、動けるようになったと言っていたが」

「え?ああ、うん。2、3日前にお前、あのヒトに運ばれてただろ?」


そう言って遼が見た先には、巣の外を穏やかに見渡している当麻がいた。


「ああ、目覚めると彼女の世話になっていた」

「彼女?あぁ、あのヒト、女だったのか」

「……どう見ても立派な女王の素質を持っているだろう」


何気に失礼な天道虫だなと征士は思った。
あれほど立派な身体を持ったオスがいて堪るか。そう言いたかったが言葉は慎んだ。
口ぶりからすれば、この巣の近辺にいる時間は遼のほうが先輩のようだ。
右も左もわからない若輩者である自分は、不用意に狭い知識を披露するべきではない。
身を弁えるという事は、常に大事なことだ。


「女王とかそういうの、俺には解らないけど……でも良かったよ」

「良かった?なにが」

「お前が……えっと、ごめん。名前、何ていうんだっけ?」

「征士だ」

「……せいじ?」

「ああ。彼女が名付けてくれた」

「あのヒトが?……俺は色んな場所を旅してきたけど、セイヨウミツバチはどれもこれも長い名前を持っていたけど…お前、巣にいた頃の名前はどうしたんだ?」

「長たらしすぎて覚えきれんかった。それに私は彼女がつけてくれた名のほうが気に入っている」


そして、自分を呼ぶ時の彼女の優しい声も。


「そうか。よく解らないけど、まぁ誰にだって事情は色々だからな」

「ああ。…で?」

「え?」

「何か言いかけていただろう。何が良かったのだ?」


話題を元に戻すと、遼は触角を忙しなく動かした。
前肢ももぞもぞとしている。
暫くその状態でいたが漸く何事かを思い出したのか、そうそう、と頷いた。


「そうだ、征士が無事で良かったなって」

「私が無事だと何がいいんだ?」

「いや、………ほら、あのヒトに連れて行かれただろ?」

「私はその時意識を失っていたから詳しくは知らんが、どうやらそのようだな」

「うん。俺、征士が連れて行かれるところを見てたんだけど…」


そう言って遼は触角で少し離れた場所を示した。


「あそこ」

「…?」

「あそこに征士は倒れてたみたい」

「あそこが…」


仲間を探していた自分が意識を失った場所が、偶然にも当麻の巣の近くだったとことに征士は少し胸が熱くなる。


「うん。………色んなヒトがいるからさ、征士が連れて行かれたときはどうなるんだろうって不安だったんだ」

「どうして」

「だって色んなヒトがいるんだ。本当だぜ?俺は色々見てきたから怖いヒトが沢山いるのを知ってるんだ」


遼は周囲を伺ってから声を潜めた。
自然と顔が寄る。


「…まぁ、あのヒトさ、征士を連れて行くときに下手に傷つけないようにお前がいた場所の土ごと運んだから、大丈夫かなってちょっとは思ってたんだけど」


言われてもう一度自分が倒れていたという場所を見る。
確かに一部分だけ草や土がない。
つまり当麻は、あの複雑な形をした前肢で土ごと自分を運んでくれたらしい。


「下手に触られて肢が取れたりしたら、飛ぶときにバランスが取れなくなるからな。そういう気を遣えるヒトで良かったよ、本当」


当麻と征士の体格差は大きい。
彼女が不用意に力を込めてしまっては、若しかしたら自分の肢や羽は千切れていたかもしれない。
それを考えると、そういう判断が出来るだけの優しさと賢さを彼女は持っている事になる。
益々素晴しい方だと征士は感心した。


「でも世の中みんながあのヒトみたいとは限らないんだ。怖いヒトは沢山いるからあまり油断するなよ、征士」


そう言い残して遼は花から下りた。
アブラムシを見つけたようだ。

その姿を見送った征士は疑問が残った。
遼の言っている事は所々意味が解らなかった。
色々な場所を旅してきたと言っていたが、遼は何故当麻がニホンミツバチの女王だと解らなかったのだろうか。
それに色んな”ヒト”がいるとか、悪い”ヒト”がいるとかも解らない。そもそも”ヒト”とは何だ。

そしてそれとは別の、根本的な疑問が残っている。

種族が違うのに、遼の言語は理解できた。
彼は天道虫だと言っていた。容姿は征士とはかけ離れていた。
だが言葉は全て通じた。

では何故、当麻の言葉だけは理解できないのだろうか…?

それを考えていた征士だが、当麻が部屋に戻ろうとする気配を感じると一旦思考は置いて、彼女に付き添う事にした。




当麻が何か食べ始めた。
彼女が食べている物は蜜の他に、妙な塊がある。
花粉の塊だろうか。
美味しそうに食べている彼女からは幸せな感情が溢れていて、それにつられて征士も幸せな気持ちになってくる。


「……そうだ」


もう一度あの蜜を確かめてみたい。
そう思った征士は蜜の零れている白い場所に降り立った。


「ん?なに?お前、こっちの蜜も欲しいの?」


よく解らないが、欲しいのかと聞かれた気がしたから「少し」と征士は短く返してそれを舐めた。
…やはり味が違う。
彼女も持つものは巣の外にある花に少しずつ似ているが、やはり決定的に何かが違う。

それをずっと考えてみる。


「そう言えば…」


まだ肢や羽がなかった頃、姉の1人が外から帰ってきたタイミングで征士の腹が鳴った事があった。
食欲旺盛な弟に笑った姉は自分が身体に溜めて持ち帰った蜜を与えてはくれず、巣の中にあった蜜を態々出して寄越してくれた。
それを飲みながら征士は何故と聞いた。すぐに渡せる蜜があったはずなのにと。
すると姉は言った。
「私たちがお互いを中継させた蜜は質が上がるの。持ち帰ったばかりのものは栄養も味もそれほど良くないのよ」と。

それを思い出した征士は納得がいった。
自分が幾ら花から蜜を飲もうとも、彼女の持つ蜜の味に及ぶ筈などないのだと。


という事は。

征士はいつの間にか身体を横たえている当麻を見た。
彼女の恐らく口と思しき場所から蜜の匂いが僅かにしている。


「…あちらの方が美味いという事か…?」


試してみる価値はある。
そう思って彼女の口元に降り立った。
そっと舐めてみる。


「………………あぁ、…」


凄く、美味しい。
征士が舐めている蜜よりも、もっと不思議で爽やかな甘みがあった。
これが当麻の持つ蜜なのだと思うと、尚のこと美味しく感じて征士は夢中でその蜜を舐めた。
当麻が笑ってくれた気がした。




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蟻を増殖させていたのはコラムの原稿を書いている最中の、パソコン。