Apis mellifera
征士を拾って3日目の朝、当麻はくすぐったい感触を覚えて目を覚ますと、自分のすぐ上を征士が飛び上がっていった。
拾ってきた最初の日の征士は身体を起こすことさえ辛い様子だった。
兎に角栄養がいると判断した当麻が用意したのはニホンミツバチの百花蜜で、よろついた征士が溺れないようにとトレイには割り箸を短く割ったものを
足場として幾つも浮かべておいた。
近くにいては警戒して落ち着いて食べれないだろうと部屋から暫く離れていたのだが、数時間後に様子を見に行ったときに、トレイが
綺麗になっていたのに一安心した。
2日目の朝には自らの羽で飛び、そして少しならば自分で庭の花から蜜を吸うことが出来るまでに回復していた。
だがまだ無理は出来そうにもない。少し飛ぶと疲れて身体を休めているのが見られた。
今日はどうだろうかと起き抜け最初に思って見ると、自分の周りを飛び回っている。
昨日よりは軌道も安定しているし、旋回も巧い。
どうやら大分回復したようだと、当麻は嬉しくなった。
「おはよう、征士。起こしに来てくれたのか?」
何だか微笑ましくて話しかけると、征士は身繕いを始める。
蜂はそこまで詳しくはなかったが、当麻の記憶では身繕いを頻繁にするのはニホンミツバチで、セイヨウミツバチはあまりみられない行動だと聞いた筈だ。
「やっぱりお前ってニホンミツバチなの?」
そう尋ねても答えは無い。
だがそれは当然のことなので当麻も別に気分を害するでもなく、日課のように庭に下りた。
いつものように草花に水をやる。
その間も征士は当麻の肩に乗ったままだ。
慣れない周囲にまだ警戒があるのだろうかと思うとそうではないらしく、花がある程度水を吸ったのを確かめると、そのまま花目掛けて飛び立っていった。
どうも征士はそういう事を理解して行動しているように見える。
まだ完全に回復していない今、無駄な体力を消費しないようにしている面もあるのだろうか。
征士を見ていて当麻の興味は蜂に向けられつつあった。
当麻は元々蜂全体に付いて、まるで1個の生命体のようだという思いはあった。
生物が新しい細胞を日々作り出すように、巣という1つの大きな組織の中で女王蜂は沢山の働き蜂を生む。
そして成虫になった彼女達は巣全体の活動が円滑に動くようにせっせと働く。
その全てが女王のためにというものではない。あくまで、巣や自分たちの遺伝子に忠実だ。
だから老いて機能しなくなった女王は巣を追われることもある。そして新しい女王を立てるのだ。
まるで古い細胞は老廃物として身体から排出されるようだと当麻は思っていたが、征士を見ていると色々と面白くなってくる。
そもそもオスの征士が、これほどせっせと動くことはそう無いはずだ。
ミツバチのオスは基本的に子孫を残すための手段でしかなく、その時に交尾が可能な女王がいなければ巣の中でじっとしている事が多いと
養蜂家からも聞いていた。
なのに征士は当麻が思っていた以上に動き回る。
それも、当麻の傍を好んで。
すぐ傍にいなくても当麻が呼べば応えるように飛んでくることから、少なくとも彼は言葉を理解しているように思えた。
それが一層、興味をそそられるし、可愛らしい。
「お、もういいのか?」
蜜を吸って腹を膨らませた征士が真っ直ぐに帰ってくるのは当麻の元だ。
うん、可愛いなぁ。
当麻は垂れた目尻を更に下げて笑った。
「んじゃあ俺も朝飯にしようかな」
肩で身繕いを始めた征士を落とさないように気をつけながら、当麻は室内へ戻っていく。
養蜂家から貰った蜂蜜はコクがあるのにアッサリしていてとても美味しい。
それを、昨日純に買ってきてもらったスコーンにたっぷりつけて食べていると、征士が皿に降り立った。
「ん?なに?お前、こっちの蜜も欲しいの?」
腹を見るとまだ膨れているようだが、征士は皿の縁から落ちないように気をつけつつ蜜を舐めた。
それでも少しすると飛び上がり、また当麻の肩に戻る。
「何だよ、もう満腹か。食いしん坊め」
笑いながら自分もスコーンを頬張る。
征士は一度当麻から離れ、室内を探検するように飛んでいる。
昨日よりも長い時間、飛べるようになっていた。
朝食のスコーンはミルクと一緒に胃に収め、満足してソファに寝転ぶと、また征士が飛んできた。
「何だ、俺は二度寝タイムだぞ」
下手に止まると寝相に巻き込まれるぞ、と笑いながら言っていると、征士がその唇に止まる。
間違えて噛むという事はないだろうが、それでも気を遣って当麻は黙った。
もそもそと動き回るから、くすぐったくて堪らないが噴出すことも出来ない。
可愛いけど息が詰まるからそろそろ離れてくれないかな。
そう思っていた当麻の唇に、今までと違う何かが触れた。
気になる。
けれど見えないし、口を開くことも出来ない。
寝転んだまま、何か近くになかったかと手探りで周囲を漁ると、硬いものに触れた。
手指で形を確かめると、手鏡だった。
それを取り上げて、征士を驚かさないようにそっと覗き込む。
「……、」
ああ、と当麻は腑に落ちた。
征士が懸命に自分の唇を舐めている。
恐らく先ほど食べた蜂蜜が残っていたのだろう。
確かにちょっとベタベタした感触はあった。
本当、お前って意外と食いしん坊なのね。
そう思っても笑うことが出来ない。
必死に堪えて当麻はそのままにしておいた。
蜂蜜を濾すのに使った布をミツバチに与えると、洗ってもいないのに見事なまでに綺麗になるらしい。
他では蜜を採取するために使った圧搾機でもそうだと聞いた。
ではそれが本当かどうか、ちょっと体験してみたい。
くすぐったいのにもちょっと慣れたし、と当麻はそのまま眠る事にした。
目覚めてから確かめた結果は、聞いたとおりだった。
いよいよ征士が本当に言葉を理解している可能性が出てきた。
昼過ぎに机で仕事をしていたときに、何気なく暑いなぁ…と呟くと、肩にいた征士が机に降り、そして当麻に頭を向けて羽を懸命に動かし始めたのだ。
ああこれが扇風行動か、と当麻は感心したが、はて、と考えた。
普通、ミツバチは巣の温度が上がりすぎた時にこの行動を取る。
だが今、この室内はそこまで暑くはない。
山に近いお陰で実家にいた時よりも全体的に家屋は涼しく、エアコンが必須だった当麻もここではまだ世話になってはいなかった。
扇風機が1つあれば充分なのだが、それは今、きちんと働いてもらっている。
だから暑いと言ってもそこまでではないし、何も今、急に暑くなったわけでもない。
なのに征士は、当麻の呟きを聞いてからこの行動に移った。
それも、温度を下げようとしている対象は、明らかに当麻だ。
どう考えても自分の言葉を理解している。
「征士、若しかしてお前、物凄く頭がいいのか?」
ミツバチがそうなのか、蜂と言う生物全てがそうなのか、それとも単に征士が特別なのかは解らないが、兎に角彼は頭がいい。
それにそこにばかり気を取られていたが、もう1つ気付いた。
「お前、やっぱりセイヨウミツバチなんだな」
扇風行動をするとき、ニホンミツバチは対象に尻を向けて風を送るように仰ぐ。
天敵、その中でも特にスズメバチに自分たちの匂いを流さないようにするためだ。
だがスズメバチがいない地域で進化したセイヨウミツバチは遺伝子にそういう知識が備わっていない。
だから彼らは対象の熱気を外に追い出すように、対象の反対側に尻を向けて風を追い出していく。
今、征士が頭を向けているのは当麻のほうだ。
つまり、彼はスズメバチに対する経験が遺伝子に組み込まれていない。
やはり彼はセイヨウミツバチだったようだ。
ちょっと癖や好みは一般的に知られているセイヨウミツバチとは違うようだが、ここまで言葉を理解する彼だ。
案外、変わり者なだけかもしれない。そう思うと益々征士が可愛く見えてきて、当麻は1人で笑った。
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1人と1匹の暮らし。