Apis mellifera
見ていて色々と解った事がある。
まず、ニホンミツバチの女王はとても大きい。
その大きさたるや、想像の範囲をゆうに超えている。
しかし大きさに驚くだけではない。何と彼女は自分たちとは異なる容姿をしていたではないか。
まず肢が1組足らない。なのにその先端は複雑な形をしている。
それから触角がない。目も2つきり。
自分産んだ母の姿は何度か見たが、彼女は姉や兄達より大きく、腹が長いくらいしか差が無いように思えたが、どうやらニホンミツバチの女王は
形状そのものが異なっているようだ。
いや、若しかしたら働き蜂たちも彼女より遥かに小さいだけで、同じ容姿なのかもしれない。
見た事がないから解らないだけで。
因みに最初、彼女には羽がないように見えた。
だが今日になって気付いたが、恐らく背と思われる部分が昨日と今日で色や形が違う。
朝の姿とも違う。どういう事か解らないが、若しかしたらニホンミツバチの羽は着脱可能なのかもしれない。少なくとも彼女はそのようだ。
兎に角、ニホンミツバチの女王には驚かされることが多い。
だが単にそういった違いに驚いているだけではなかった。
ニホンミツバチの女王のその懐の広さについては昨日も感心したが、今日になっても感心しきりだ。
彼女は今朝も、よそ者に例の美味しい蜜を振舞ってくれた。
それも穏やかな雰囲気で。
昨日、出してもらった蜜をちょうど食べ終えた頃に彼女は部屋に現れた。
慌てて居住まいを正したのだが彼女は礼儀などよりも何よりも、自分が蜜を食べきったことを喜んでくれたようだった。
信じられないことだ。自分の巣にいた頃の姉達は常に忙しなく、こんな心の余裕を見せてくれるような事はそうなかったというのに、
彼女はただ蜜を食べた、それだけで酷く安堵したような、幸せそうな感情を見せてくれた。
何と、心の広い方だ。
ミツバチは感動した。
そして決意を胸に新たにした。
解った事の他に、気付いた事もある。
同じミツバチなのに、彼女の言語が理解できない。
何事か話しかけてくれているのだが、全く解らない。
これは種族の差なのだろうか。ならば少しずつ彼女の言語を理解していけば問題はないだろう。
それからもう1つ。
どうやら彼女は自分の事を、”せいじ”と呼んでいる。
名を与えてくれたらしい。
巣にいた頃にも名はあったが、長たらしくて正直自分でも覚えにくいと思っていたから、有難くその名を自分のものにする事にした。
今日から私は、せいじ、だ。
こうして餌を分けてくれただけでなく、名まで与えてくれた女王に、征士は益々思いを馳せた。
その征士は昨日から観察を続けていてある事に気付いた。
彼女が産卵しているらしい気配がないのだ。
暑い盛りだ、通常のミツバチならば毎日子を産んでいる筈だ。
それが、無い。という事は、彼女はまだ正式な女王ではない事になる。
しかしこの巣には女王の姿がない。
彼女の誕生と同時に既に巣を後にしたのかもしれない。
そうなると征士の決めた生涯の目的も、多少の変更が必要となる。
彼女の娘を女王にするべく立派な子を産ませると思っていたが、彼女自身に立派な子を産ませる。征士の使命はそれに書き換えられた。
今日も出された蜜を有難く貰った征士は、その後は自らでも蜜を少し飲んだ。
その間中も色々なものを観察した。
この巣の形状も不思議だし、他に働き蜂の姿が見えないことも不思議だ。
そしてまだ正式ではないとは言え、女王の周りにはお付きの者さえ見えないことも。
巣の入り口にまで出てきている彼女が呼んだような気がして、征士はそちらに向かって飛んだ。
彼女からはとてもいい匂いがする。
そしていつも穏やかだ。
飛ぶことさえまだ不自由している征士にその肢を出し、身体に乗ることを許可してくれた。
彼女の頭には触角が見当たらなかったが、その身体に触れさせても感情が伝わってくるから困る事はなかった。
自分が飛ぶと喜び、蜜を食べると喜び、そして触角を触れさせても喜んでくれる。
そんな彼女に征士は深い感謝と感動と、そして想いを募らせていく。
心が広いだけでなく彼女は、倒れる前に見上げた綺麗な青空と同じ色をしていた美しい個体だった。
彼女に与えられた部屋に戻った征士は、兎に角彼女に恥をかかせてはいけないと身繕いをした。
意味があるのか無いのかは解らないが、いずれ女王となる彼女だ。
その傍に汚れた格好の者がいては、示しがつかないだろう。
そうして念入りに身体を磨いていると、自分たち以外の気配が巣に入った事に気付いた。
働き蜂が帰ってきたのだろうか。そう思った征士は部屋から出て、その気配があるほうに向かった。
「……なんと…」
デカイ。
征士が忠誠を誓った女王ほどではないが、巣に入ってきたもう1匹の姿も、デカイのだ。
心優しい女王と同じ姿を持っている事を考えると同種、それも同じく女王候補なのだろう。やはりニホンミツバチの女王はかなり巨大らしい。
しかしその入ってきた1匹は何か苛々したような、拗ねるような、寂しがってるような不思議な感情を撒き散らしている。
一方女王はと言うと、それを宥めるような優しい感情で相手を包み込んでいた。
流石は、女王となる方だ。
新しく見た彼女も女王候補なのだろうが、これでは話にならない。
身体の大きさも、懐の広さも、ハッキリ言って空のような彼女の方が遥かに上回っている。
征士は誇らしくなった。
しかし同時に「待て」と考える。
この巣を知って入ってきたという事は、あの新入り(以後「残念な女王」とする)もこの巣の生まれの可能性が高い。
だとすれば、いずれは女王とその座を巡って争う事になるだろうが、その気配が2匹にはない。
ならば出て行った者だろうか。
しかしそう考えると別の疑問がわいて来る。
生まれてから出て行ったか、まだ出て行ってないのかは謎だが、もし出て行った者ならば幾ら故郷が同じでも門番に追い出されるはずだ。
それが此処にいるという事は門番が機能していないのだろうか。それともこの巣には本当に働き蜂がいないのだろうか。
いや、案外自分を招きいれた女王だ。一度出て行った者にも寛大なのかも知れない。
そう思うとどこまでも慈悲深い彼女が益々誇らしくなってくるが、征士は同時に気を引き締めてまた自らの使命を増やす。
彼女を守るローヤルコートはいないというのに、彼女は誰彼構わず情けをかける。
結構なことだが、しかしこれではいずれ誰かにその隙に付け入られるかもしれない。
だから、そう。
”私が彼女を守る。”
そう、決めた。
そして征士は2匹から離れた場所で待機する事にした。
親しげな雰囲気を見せる彼女達の間に不用意に立ち入るような真似はしない。
礼儀は弁えている。
だがもしも万が一、残念な女王が敬愛する女王に何かした時はすぐにでも駆けつけられるようにしておかねばならない。
だから征士は近くにあった大きな木の箱の上に身を置いた。
いつでも飛び出せるように身を低くして。
暫く2匹を眺めていた。
やはりその会話は征士には全く理解できない。
だが残念な女王が「じゅん」であること、そして敬愛する女王が「とうまにいちゃん」という事は解った。
ただ時折、「じゅん」が「とうまにいちゃん」に向けて、「とうまはなにをかん…何タラかんタラ」と言っているのが聞こえたから、「とうま」は彼女の名で、
「にいちゃん」は女王を意味する言葉なのだろうかと征士は当たりをつけた。
にいちゃん、が女王。
征士は首を捻った。
相手の元へ招かれた身だ。郷に入っては郷に従え。その気持ちはあるのだが、響きとして征士は「とうま女王」の方が素敵だと思った。
だが勝手にそう呼ぶのも、しかし「とうまにいちゃん」と呼ぶのも、何だかしっくりこない。
仕方がなく、無礼は承知で征士は「とうま」と呼ぶ事にした。
働き蜂である姉達は母とは言え女王なのだからと彼女に「女王」と呼びかけ跪いていたが、子を成すためだけにいる兄達は母の事を気軽に
「お母さん」と呼んでいた。
だから構わないだろう。
そう考えて、征士は練習するように「とうま」と呟いた。
それだけで体中に力が漲るようだった。
「だからそれは昆虫のためだって」
残念な女王「じゅん」と、敬愛する女王「とうま」の話は続いている。
「しかも実家にも滅多に帰ってこないし」
「だって忙しいんだからしょうがないだろ」
「その上、結婚どころか彼女も居ないし」
「それは……俺の名誉のために言っておくけど、彼女くらい、いたぞ」
「長続きしないじゃない」
「それは…………。…うん、まぁ……いや、でも相性とか、あるから」
話しの内容はよく解らないが、何やら当麻の感情がぐるぐると停滞を見せ始めた。
征士はすぐに気持ちをそちらに向け、飛び立すキッカケを待つように羽を振るわせ始める。
「兎に角さ、当麻兄ちゃん。たまには、」
その言葉を残念な女王が発した途端、当麻の感情の停滞はハッキリとした”停止”に変わった。
困惑しているのだ。
それを感じ取った征士は身体を浮上させ、そして目標を目掛けて一気に飛び出した。
「…ぅわ…っ!?」
「こら、せいじ!」
勿論、征士に攻撃するつもりはない。ただ当麻を困らせるものから守りたいだけだ。
だから制止の声に従ってすぐに当麻の肩に降り立った。
「分を弁えろ!お前が自らの巣でどういった地位かは知らんが、この巣においては女王の慈悲の下に生きる一介の客なのだぞ!」
そう叫んで威嚇体勢のままでいると、当麻が肢の先端を伸ばしてくる。
そこに触角を触れさせると穏やかで心地のいい感情が流れ込んできて、征士は気の昂ぶりは静まった。
彼女が相手を許しているのだ。これ以上自分が何かをする事は、最早ただの傲慢にしかならない。
有事の際に備えて相手から目を逸らすことはやめなかったが、威嚇の体勢だけは解いた。
すると当麻が何かを言っている。
よく解らないが自分を紹介してくれるらしい。
触角から伝わってくる彼女の望みに応えて肢の先端に移動した征士は、自らの腹を相手に向けた。
但し、やはり視線だけは逸らさずに。
「針がないのは解るか?」
「…うん。ないね」
「メスはもっとお腹がシャープで針を持ってる。こいつは丸くて針がないんだ」
「じゃあ刺さないの?」
「”刺せない”な」
また2匹だけの会話を交わすと、途端に残念な女王が自分を嘲るような感情を発した。
侮られているようだ。
自分が侮られるという事は、下手をすれば自分を傍に置いてくれている敬愛する女王をも侮られる事に繋がりかねない。
こういう事は最初が肝心だ。
そう判断すると征士は即座に飛び上がり、再び残念な女王「じゅん」の周囲を威嚇しながら旋回を繰り返す。
彼女が怯えた気配を見せると、すぐに当麻から声がかかった。
「こら、征士。駄目だって。…純、お前何か征士に悪いこと考えただろ」
制止するような言葉の後に何かまた残念な女王に告げている。
すると彼女からは非礼を詫びるような感情が伝わってきた。
征士はまたそれに感動した。
どうやら敬愛する女王は優しいだけではなく、威厳も持ち合わせているらしい。
明らかな威嚇や怒りの篭った響きを持たずとも相手を黙らせることが出来るのはその証拠だ。
私の方こそ彼女を侮っていたようだ。
反省と、そして尊敬を込めて彼女の目と思しき場所近くに触角を擦り合わせた。
彼女から嬉しいという感情が伝わってきて、征士も同じ感情で満たされた。
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遺伝子を残す係り兼、近衛兵。