Apis mellifera



目が覚めたとき、随分と時間が過ぎているような気がした。
それがどれ程の時間かは解らない。
ただ眠る前と目覚めた後では、身体が違っていることだけは解った。
視界に姉達や兄達のような肢があるのが見える。
漸く自分も成すべき事を成せるようになったのだと思うと、彼は嬉しくてたまらなかった。

しかし喜んでいる場合ではない。
腹が減っているのだ。まず満たす必要がある。
そのためにも先ず、この部屋から出なければならない。

彼は光で透けている天井部分に食らいつき、少しずつそこを破り開けていった。

ガリガリガリガリと音を立てて端から丁寧に。
少しでも破りやすく、大きく開くように。



最初は破る事に夢中だったが、途中である事に気付いた。
妙に静かなのだ。
確か眠りに入る前は、いつだって沢山の姉達が喧しくしていたはずだ。
なのに今はその音が全く聞こえてこない。
隣室にいた、同じ日に生まれた弟だか兄だかの気配も感じられない。

みな、どこへ行ったのだろうか。

彼はそう不思議に思いつつ、腹を満たすにしろ確かめるにしろ、どちらにせよ先ずは外に出なければ何も始まらないかと気を取り直して、
天井を破る事に再び集中した。



「…………これは…?」


やっとの思いで出た世界は、静かだった。
姉達の音がないだけではない。
そこは、風の音以外何も聞こえない世界だった。

時には姉の声が聞こえないほどに喚いていた蝉という生物の声もない。
自分たちを狙うといって姉達が恐れていた鳥という種族の声もない。
風が草や木を撫でる音以外は、全くの無音。
美しいが、不気味なほどの静寂に包まれた世界を、彼は訝しんだ。

そっと部屋から這い出て、もう一度確かめてみる。
見えていない範囲に誰かいるかもしれない。そう思って、不慣れな身体を引き摺って周囲を調べてみた。

やはり誰もいない。勿論、他の生物も。
巣全体を調べてみても、蜜はあるのだが自分の妹や弟たちもいない。
蓋があったのは自分の部屋だけで、どれも既に蛻の殻になっていた。


「どういう事だ…?何があった……?」


不安になってくる。
いても立ってもいられなくなり、彼は記憶の中にある姉達を真似て羽を動かし、身体を浮かせると思いに任せて飛び立った。



どこまで行っても木しかない。
一体、何がどうなっているのだろうかと思いつつ懸命に飛び続けた。

だがそこで突然、身体がよろついた。
筋肉を震わせて動かしていた羽がもたつく。
視界もぐるりと回って、幾つもある風景が却って気持ち悪く見える。

そこで漸く気が付いた。

周囲の異変に気を取られ、焦ったばかりに何も腹に入れずに飛び立っていた事に。
だが今更気付いたところで巣に戻るにももう体力がない。
徐々に自分の体が失速して高度を失っていくのがわかる。

あぁ、使命も果たせず、仲間も探せずに私は終わるのか……

そう思ったときには草のクッションの上に倒れていた。

もう、駄目かもしれない。
このまま鳥とやらの餌になるのだろうか。
それともスズメバチとかいう大きな同種に殺されるのだろうか。
何にしてももう先がないのだから、気にすることでもないか。

そう考えて視線を上に向ける。

真っ青で綺麗な色が広がっていた。
そこで彼の意識は完全に途切れた。






次に目が覚めた事に、彼は驚いた。
まだ生きている。
何故。そう思いながら身体を引き摺って起こすと、すぐ目の前に美味しそうなものがあった。
琥珀色のそれは深い眠りの前に見ていたものと少し違うように見えたが、この際そんな事は些細なことだ。

力を失っている肢を気力で動かして、その美味しそうな蜜がある場所へと進んだ。

どうにか辿り着き、縁に上って舌を伸ばす。
美味い…!
そう思ったのは一瞬で、後は無心に舐め続けた。

その途中でバランスを失って落ちそうになったが、何か適度に硬いものに背をぶつけただけで落ちずに済んだ。
だからもう一度体勢を戻して必死に蜜を舐め続けた。


ある程度蜜を舐めて空腹が癒されると、他にも色々な事に気付いていく。

例えばさっき背をぶつけたものは、どうも落ちないように配慮された物のようだという事だとか。
近くにある四角い不思議な木の中には、自分のものではないが、誰もいない巣がある事だとか。

そして今舐めている蜜が、まだ自分が幼い頃に一度だけ舐めたものと似た味だとか。


あの時、姉達はなんと言っていたか。
確か…そう、確か「ニホンミツバチのところから取ってきた」。そう言っていたはずだ。
ではこの蜜はニホンミツバチという種族のものなのだろう。

それにしてもこの状況だ。
どうやら自分は”助けられた”らしい。

という事は…

彼は一度蜜から顔をあげて、もう一度自分が置かれている状況を見直した。


あの時と同じような蜜が提供されているという事は、恐らくここはニホンミツバチの巣なのだろう。
自分の姉達は巣に帰ってくる者に対して厳しい検問をしていたし、部外者は徹底排除していたというのに、このニホンミツバチときたら
得体の知れない自分を救ってくれただけでなく、こうして餌まで与えてくれるだなんて、どうやら彼女達は懐がとても広いようだ。
そしてこの部屋自体も広い。
若しかしたら、女王蜂の部屋なのだろうか。
それにしても広い。広すぎる。
自分の母も姉達より大きな身体をしていたが、この部屋の大きさから考えるとその比ではない。
姉の言っていた感じでは、ニホンミツバチは自分たちより少し小さい身体をしていると思っていたのだが違うのだろうか。
それとも女王だけはとても大きな身体をしているのだろううか。

いや、それにしても素晴しい。と彼は改めて感心する。

女王自らが助けてくれたかどうかは解らないが、どこの誰とも解らない、それもオスである自分を女王の部屋に入れただけではなく、
無駄に緊張させないためにとこうして餌だけを与えて1人にしておいてくれるとは、何と気の利く種族なのだろうか。

彼は感心し、感動する。

助けてもらった以上、恩義は返さねばならない。
兄達は日頃ぼーっとしていたが、それが常に不思議だった。
確かに自分たちは子を成すためにいる。それは解る。
姉達もそれは大事な仕事だと言っていた。
だが、日常の中でも他に何かもっと役立てることがあるのではないかと、常に思っていた。

だから、心に決めた。
ここの女王の恩に報いるために、彼女の娘に立派な子を産ませ、素晴しいまでの女王に育てる事に尽力しよう、と。
その為にはまず体力を回復させる必要があるし、身体を鍛える必要もある。
そして彼女が望む全てを、自分が叶えてやるのだ。

そう思って彼は必死に蜜を舐めた。


小さなオスのミツバチは、大きな決意を持ってその日、世界に降り立った。




*****
ミツバチの生活。