Apis mellifera



窓の外から入ってきた光の強さに、当麻は一度シーツに埋もれたが暫くするともそもそと這い出てくる。


「……。…こんなに朝日って眩しかったっけ…」


ここ最近爽やかな目覚めが続いていた当麻は、どこに向けるでもない不満を口にして窓のある方を睨む。


「…そっか」


そしてもう誰もいない空の巣に気付いた。

征士は昨夜、出て行った。
彼が触れる感触で朝を迎えたのはほんの数日のことだったが、あまりの心地よさに身体が馴染んでいた。

だがもうその感触は得られないのだと思うと、胸に寂しさが急に押し寄せてくる。

しかし仕方のないことだ。
彼はオスのミツバチだ。
その使命は女王蜂と交尾して次代に命を繋ぐことなのだから、弱っていた身体が元に戻った以上はそれを果たすのが彼の命だ。

寂しい思いを隠す事は出来ないが、人間である自分が引き止める事など当然、出来ない。
それにミツバチのオスはそう長くは生きない。半月か、長くて1ヶ月ほどの命だ。
彼との別れは避けて通れない運命だった。
それならば彼が元気なうちに別れられたのは幸せだったのかもしれない。

そう思う事で、当麻は自分の気持ちを真っ直ぐに向けた。
今まで色んな昆虫を見てきたが、こんな気持ちになったのは初めてだ。
だが仕方のないことだ。

そう、思う事にした。


「………………あれ?」


その当麻の視界に何かが見えた。
一瞬見間違いかと思ったが、そうとも言い切れず、窓に駆け寄って見える範囲で目を凝らす。


「……………ん?………んん…!?」


草の陰でハッキリとは見えないが、何と言うか不吉な物があるように見えてならない。

ここでこうしていても、どうにもならない。
当麻は足音を殺して庭へと急いだ。
その途中で物置を漁り、庭に花を植えるのに使った手頃なサイズのスコップを手にする。
万が一の時に身を守るものがないのは怖い。



庭に続くガラス戸を引き網戸を開け、そして極力音を立てないように必死になりながら雨戸を開けると、一度足元に置いていたスコップを
再び手にする。
サンダルを履くときにも音には細心の注意を払った。


「………………確か…」


あの辺だったはずだ。

狭い家の敷地よりは広い庭は、草むしりを欠かさないため見通しがいい部分もある。
だが花がある場所は色んな花が咲き乱れていて少し見えづらい。
その隙間を当麻は目を凝らして睨みつける。

見間違いでなければ、見間違いであって欲しいけど見間違いでなければ確かに色とりどりの花の隙間から見えたのだ。


明るめの肌色の、……人の手のようなものが。


スコップを持つ手に力が入る。
息を詰めすぎて口の中にたまった唾を飲み込んだ。
その音が大きく響いた気がした。


庭へ出るには家の中を通らなければ出られない造りになっている。
その庭に、人がいる。

当麻は学者だ。
一般的にはそう有名でなくとも、業界では有名だ。
講演のギャラも大学での講義のギャラもそう高くはないが、年齢を考えれば充分なほどの額を貰っている。
家には本も沢山ある。
だが住んでいるのはボロ屋だ。本人もそう高級なものを身に付けてはいない。
一目見ただけでは彼自身も彼の家も、空き巣に狙われるほど金があるようには見えない。

空き巣にしても強盗にしても、何もこんな家を狙うとは思えないのだ。
なのに、その庭に、人がいる。

いや、いると言うか手の位置から考えると、人が倒れている。

態々家を通り抜けて、どうして庭で倒れているのか解らないが、何にしても自分以外の人間がこの敷地内にいる。
そう思うと当麻の心臓はバクバクと強く脈打ち続けた。

まさかと思うけど俺、殺されないよね…?

背中に冷や汗を垂らしながら草叢を睨み、”見間違いであって欲しいもの”がある場所を探した。


「……………っ!?」


あった。
やはり肌色の手が見える。
それも自分より白い手だ。
白くて綺麗な、……骨格的に、男の手だ。

どうすればいいのだろうか。
いや、警察に通報だろう。だが出来ない。
初めて遭遇する、多分”危機”に、当麻は動くことが出来ないでいる。


「!!!!!!」


するとその白い手が僅かに動いた。
ピクリと動いて、そして力が入ったのがそこに浮いた筋で解る。

俺より筋肉がありそう…

そう思うと益々心臓がバクバクと鳴る。
運動神経にあまり不安はないが、力で来られると荒事には慣れていない身だ、勝てる気がしない。
そういう時のためにスコップを手にしてきたが、それでも怖いものは怖い。

当麻がスコップを硬く握り締めたまま息を詰めていると、白い手の持ち主が、のそりと起き上がった。


「………、……っ…………!!!」


声が出ない。
そんな当麻を、起き上がった人物が振り返る。

見たこともないような美しい人物だ。
日本人ではないのだろうか、瞳は紫で、髪は蜂蜜を広げたように見事なブロンドをしている。
まだ立ち上がっていないから全身は見えないが、腕や首を見る限り、適度に筋肉がある均整の取れた体躯は当麻よりも大きいだろう。

悪い人間には見えない。
だが謎の侵入者であることには変わりがない。

少しでも動けばスコップで殴ったほうがいいだろうかと考えていた当麻だが、それが引っ掛かって行動に移せないでいた。が、威嚇は必要だ。
スコップを見えるように前に出し、震える膝を必死に抑えながら相手に向かって声をかけた。


「お、………お前、…これ、…見えるか…!」


武器だぞ。凶器だぞ。
そういうつもりで差し出したのだが、彼は瞬いた後でゆっくりと頷いた。
恐れる様子も、襲い掛かる様子もない。
だがその瞳には徐々に涙が溜まり始めている。


「……っちょ、……な、…なに……?」


動揺を隠せずに、じり、と前に進むと美貌の人物が形のいい唇を開いた。
そして、聞き惚れるような声で。


「…とうま……!」


自分の名を、呼んだ。

何で名前を。
そう思った当麻だが、名を呼ばれ、一度も聞いたこともない声なのに、見たこともない姿なのに、何故か”そう”だと思った。


「…………せ………い、じ…?」


言ってからそんな馬鹿な事はないとすぐに否定した。
だが目の前の男は美しい顔いっぱいに喜色を滲ませ、そして力いっぱいに頷く。


「私の声が、聞こえるのか…、とうま…!」


今度はハッキリと言葉を発する。
それから、征士と思われる男は花の陰から立ち上がり、覚束無い足で当麻に向かった。

当麻はスコップを落とし、胸に広がる感情を堪えきれず、だが思いっきり叫んだ。


「ぱぱぱ、パンツ……!!!お、俺の貸すから、パンツ履け………!!!!!!」








羽柴家の大人たちから「行ってくれ」と言われるのではなく、昔から知る兄からの「来てくれ」という言葉に喜んだ純だったが、今は不満がいっぱいだ。

来てくれという兄からは、お使いを頼まれていた。
また食料品かと思ったが、そうではない。
何故そんな物を頼むのか解らなかったが、その答えがわかった今は不満だらけの顔で、向かいのソファに座っている光景を睨みつける。


「…そんな怖い顔すんなよ、純」


困ったような兄の声に、無理を言うなと思ったが答えは返さない。
言葉にすれば最後は懐柔されるであろう自分を解っているから、無言で不満を伝えているのだ。

目の前には青い髪の兄がいる。
この兄は人からズバ抜けての天才だが、どこか馬鹿な面がある。
過去に将来を期待されていた、そんな彼は現在”昆虫馬鹿”だ。馬鹿が高じて学者になった。天才だから、博士になれた。
その兄は田舎に引き篭もってしまって会いたくてもそうそう会えない。
そういう不満がずっとあった。
だが今純が問題視しているのはその後ろだ。


兄に言われ買って来たのは服だ。
俺が普段着てるのより大きいサイズのシャツを取敢えず3枚くらい買って来いといわれた。
朝から開いているスーパーの紳士服売り場で適当に買ったものは、垢抜けていない代物だというのに、まるで高級ブランドのように
”それ”が着こなしているのも気に入らない。
大体でいいからと言われて買って来た、純でも大きいと思うサイズのズボンは急いでいたから裾上げもしていないのに、”それ”にはジャストサイズだったのも
気に入らない。

だがそれ以上に、”それ”が敬愛する兄にベッタリと、背後からその身体を抱きしめるように座って頬を寄せているのが気に入らないし、
兄がソレを咎めないのが一番気に入らない。


「しょうがないだろ、征士は元が蜂なんだから色々解らないことだらけなんだよ」


到着するなり、苦しそうに身体にフィットしたボクサーブリーフ一丁の見慣れない金髪男が目に飛び込んできて驚いた純に、
当麻は彼が征士だと紹介した。
そんな馬鹿なことがあってたまるかと腰を抜かしつつ相手を見ると、金髪男が自分を威嚇するような気配を見せた。
それは紛れもなく、自分の周囲を旋回したあの憎たらしい蜂に似ていた。
だが納得しろといわれても無理なものは無理だ。
どんなファンタジーだ。そう言い返した。
なのに兄は既にそのファンタジーを受け入れていて、純の買って来た服を袋から出して金髪男に着せ始める。
因みに買い物の中にはパンツもあった。
Lサイズを買って来いと言われていたが、ちらりと見た限り、元セイヨウミツバチ男の股間は、布越しでも確かに西洋サイズのように見えた。


「…………………………解らないことだらけだと、そんな風に抱きついてくるものなの?」


皮肉を込めて低く呟くと、元蜂男は睨んでくるし兄は笑っている。
何なんだこの状況は。悪い夢かと思ってヒッソリと尻を抓ったが目が覚めなかった事に純は泣きたくなる。


「だって征士はずっと俺の肩にいただろ?だから。だと思う」


な、征士。と当麻が声をかけると、さっきまでと打って変わって征士は柔らかい笑みを浮かべた。
それも純は気に入らない。


「だからそういう顔するなって。仲良くしてやってくれよ。征士は人間社会について解らないことばっかりなんだ。朝だってトイレを覚えさせるのに
苦労したんだぜ?」

「その苦労って何なのさ」

「だからさ、征士をトイレに連れてって、」


そこまで言ってから、そこで何をどうして、否、ナニをどうしてどうヤったのかを言いかけた当麻が口を噤んで顔を赤くした。


「………まぁ、まだ色々と不便があるんだ。少しずつ人間がどういうものかって学んでいくところなんだよ。少しは大目に見てやってくれって」


そう話している合間にも、征士は当麻のシャツを捲って背中を眺めたり、頬を指の腹で撫でてみたりと色々している。
確かに人間の構造が面白いのかもしれない。

だがそれにしたって、それ以上になんだ、何と言えばいいんだ。何と言えばいいのだこういう場合は。

純が苛々としながら答えを探していると、さっきまで当麻の耳朶を触っていた征士が、当麻の身体を一層抱き寄せて、
そして。


「……。………うん、仕方ないから」


そう当麻は言ったが、その頬に征士は口付けている。
どう考えたって、仕方ないの範囲を超えている行為だ。
なのに許してやってよという当麻の表情は、どこか満更でもない。

だから純は余計に腹が立ってくる。

そういうつもりで兄を見てはいなかったけれど。
そういう気持ちは全くないし、そういう趣味もないのだけれど。


「………………オスバチって、交尾のためにいるんでしょ」


どこか幸せそうな2人に、この先の不安を隠せない純だった。




**END**
着替える時は、当麻の寝室で着替えさせました。
純の目の前で素っ裸は可哀想だろうという配慮。