Apis mellifera



窓の外から入ってきた光の強さに、当麻は一度シーツに埋もれたが暫くするともそもそと這い出てくる。
昔は低血圧で朝に弱く、いつまでもベッドの中でぐだぐだと過ごしていたが、その生活は山に近い小さな一軒家を買ってからは随分と様変わりをした。

パジャマの上からカーディガンを羽織って庭に出る。
家の大きさから思えば少し広めの庭は、様々な花を植えているのだが適当にしか手を入れていないからガーデニングとは呼ぶには随分と乱雑だ。
しかし、それでもそこを当麻はいたく気に入っていた。


「おー、……今日もいい天気だなぁ」


伸びをして胸いっぱいに空気を吸うと、当麻は嬉しそうに呟いた。
爽やかな朝。
聞こえてくる鳥の囀り。
そして、


やかましい程の、蝉の声。





「そろそろ時間だな」


庭を一望すると巻きつけてあるホースを解き、蛇口を捻って水を出す。
そしてそれを庭の草花に向けて散らした。

日が昇ると草花は活動を始め、匂いを放つ。
昆虫たちは陽で温まった羽を動かし、その匂いにつられて庭へやってくる。
そしてその昆虫達の中でも花の蜜を餌とするものもいれば、その昆虫を餌にするものもいる。
善悪ではなく、自然の摂理としてのサイクルだ。
それを眺めるのが当麻は大好きだった。





当麻はまだぎりぎり20代だったが、博士号を持った立派な学者だ。
彼が認められたときの論文は、ダンゴムシの生態について事細かに記したものだった。


当麻が昆虫に興味を示したのは、17の時だった。
それまでは昆虫に対して特別嫌いではないが、同時に特別に好きでもなかった。
他の動植物に比べ進化が早く、知られていない間に新しい種が生まれ、そして絶滅していると聞いたときも、ふうん、という程度で
殆ど聞き流していた。
その数が毎日2000にも及ぶといわれても。


だがそれは本当に突然だった。
特に何かがあったわけではない。
いつものように朝起きて、朝食を食べて学校へ通うために自転車に跨った時だ。
ハンドル部分に小さな青虫がいた。
それが何か当麻は解らなかったが、一生懸命に身体全体を使って前に進んでいる姿を何となく見ていると、その青虫が一旦動きを止め、
当麻のほうを向いた。
いや、実際にその青虫が向いたのは当麻を見るためだったのかは解らないし、目だってどこを見ていたのかさっぱり解らない。
だが当麻は彼(または彼女)と目が合ったときに、強く思った。

可愛い!と。

それからの当麻の行動は早かった。
一旦家に戻り、朝に食べたイチゴのパックを綺麗に洗って再び自転車に戻ると、その青虫をそっと誘導しながらパックに移した。
そして一緒に葉を入れるとその上からラップをかけ、自室へと持ち帰った。窓際の暖かいところに置いて、よし、と頷くと部屋を出る。
もう一度自転車に戻って、そこで漸く学校へと向かった。
学校で一番どころではない天才児は実は遅刻の常習犯だったので、最早教師はそれについて何かを言う事はなかったが、だが流石に
登校していきなりの、


「俺、進路変更する!」


という言葉には焦りを見せた。
当麻は天才だ。
学校始まって以来の、天才だ。
そんな彼を抱えている学校は勿論それだけで宣伝になっていたし、彼の進学する大学についても今後の評価に繋がるのだから相当に焦った。
どうしたんだ羽柴。何を考えているんだ羽柴。お前天才過ぎて頭がイカれたのか羽柴。
教師達のそんな声を丸ごと綺麗に無視をして、当麻は愛らしい青虫の成長を見守り続けた。
親も驚きを隠せなかった。
どうしたんだ当麻。何を考えているんだ当麻。お前眠りすぎて馬鹿になったのか当麻。
だがそんな親の声も当麻を引き戻すことは出来なかった。

将来に期待をかけられていた天才は、それら全てを無視して青虫に愛情を注ぎ続けた。

あまりにも情熱的なものだから、その青虫について研究でもするのかと周囲も半ば諦めと共に彼の新たな方向性を見守っていたのだが、
その青虫が蛹になり孵化をし、美しい蝶になって出てきたものをその天才が「達者でなー」と言って手を振りながら窓から逃がしたのを見た時は、
これまた驚いた。
お前アレの生態を調べたいんじゃなかったのか羽柴。お前一体アレから何を学んでいたんだ当麻。
だが当麻の答えはシンプルだった。


「だってチョウチョは飛べるんだから、閉じ込めてちゃ可哀想だろ」


じゃあお前は飛ばないのが好きなのかと誰もが思ったが、そういう事ではないらしい。
ただ只管に彼らを眺めるのが楽しいと当麻は言った。
彼らが己の命に従って生命を全うする姿が好きなのだと。
観察できるのなら具に観察したいが、彼らの命題そのものを邪魔するつもりはない。ただ、自分と共に居てくれる間は、それを許して欲しい。
その位に考えていた。

結局当麻は周囲の期待の全てを知らん顔して、自分の希望する進路をとった。
そして在学中にその思いは更に強くなり、昆虫、そして人間を含む動植物全ての命について思いを馳せるようになった。
当麻の天才ぶりは、知っている者は既に聞き及んでいたので大学卒業間近にもなると幾つかの研究機関から声がかかった。
だが当麻はそれにも首を縦に振ることはなかった。
生態を知りたい欲求はあるが、もっとささやかで、静かに彼らを見ていたい。
当麻に声をかけてきた場所はどれも、大掛かりで頭でっかち(当麻曰く)だった。
人間として彼らを観察するというよりも、同じ生物として共に生活していたい。そう思うようになっていた。


論文が認められ博士号を取ると、非常勤ではあるが講師として招かれることが増えた。
雑誌からはコラムの執筆を依頼されることも増えた。見目のいい当麻は、そういう意味での宣伝塔としても重宝された。
しかしそれが重なっていくにつれ、当麻は段々と息苦しくなっていった。

そしてある程度の貯金が貯まった時、遂に当麻は行動を開始した。
…と言っても、単に田舎の、それも更に山に近い場所にあった、赤い屋根の古い一軒家を購入しただけだが。

そこは誰も買い手がつかないようなボロ屋だった。
ボロ屋と言っても売られるくらいだから崩れる心配はないが、不便なのだ。
駅からは遠いしバス停だって遠い。
スーパーも近くにない。一番近い店でも車で15分だ。
病院だって隣の駅まで行かなければならないし、道も舗装されていない場所が幾つもある。
そんな場所だったからなかなか売れずに残っていたのだが、当麻はそれをひどく感謝した。
何故なら庭は山に近く、お陰で昆虫が沢山いる。
普通なら嫌がられるオオスズメバチなどもいるが、それさえも当麻は喜んだ。

駅もバス停もスーパーさえも遠いというが、車があるので問題はない。
長身の割に細身で繊細そうに見える容姿からは想像付かないかもしれないが、健康には自信がある。
因みに水道も電気も、ガスもプロパンとは言えある。当麻からすれば何を困るとかという物件だった。



自宅で仕事をしている時は、当麻はその合間に庭に出て草むしりをした。
ナマケモノでグータラで、合理主義者だと言われていた昔なら庭の全てをコンクリートで固めていたかもしれない。
だがそんな事を今の当麻はしない。
そこに緑があるだけで沢山の物を得られるのなら、ちょっと面倒でも草むしりくらい、喜んでやる。
朝だってもっと寝ていたい気もするが、朝一番に草花に水をやる必要があったし、それに少しすれば昆虫達がやってくる。
そんな一番オイシイ時間帯を見逃すわけにはいかない。
だから当麻は毎日陽が昇ると起きる生活を送っている。


「お、…天道虫」


今朝最初に見たのは真っ赤な天道虫だ。
小さな身体で一生懸命に草の上を登っている。
それに目を細めてから当麻は庭をもう一度見渡した。
そろそろ近所の養蜂家が育てているミツバチたちもやってくるだろう。
庭を飛び回る小さなそれは、当麻から見ても可愛かった。


「あー……ふぁ………んじゃ、そろそろ」


大きな欠伸をした当麻は、再び家のほうに向き直る。


「恒例の二度寝タイムに入りますか」


確かに朝、早くに起きるようになった当麻だ。
だが生来の寝汚さは改善されなかったらしく、彼は早くに起きてある程度庭の風景を楽しんだ後は、再びベッドに戻って眠ることを日課としていた。



撒いた水によって濡れた草を踏み、昆虫達を驚かさないように優しく歩く。
そんな当麻の視界の端に、何か気になる気配があった。


「………?」


視線をそちらへ向ける。
昨日見たときと変わったようには見えないが、どうしても気になる。
無視して寝ようかと思ったが、どうしても落ち着かないために、そちらへ向かって歩き出した。

そこにあるのは薄い紫の花をつけた草だ。
背丈も疎らで色味に乏しく、ガーデニングとしては向かない花の根元を掻き分けると、小さな黄色が見えた。


「……あ」


ミツバチが1匹、落ちている。
死んでいるのだろうか。
そう思ってそっと手を伸ばすと、そのミツバチは必死に肢を動かした。
どうやらまだ生きているらしい。

この命はこのまま置いておけばいずれ尽きるだろう。
自分で飛べないほどに弱っているのだ、体力が尽きる可能性もあるし、その前に他の肉食の命の餌になる可能性もある。
弱者を憐れむ気持ちはあっても、そこは自然の摂理だ。
人間が不用意に手を出してはいけないという事を当麻はちゃんと理解してる。

だが、何となく。


「……お前、美形だね」


長い触角を弱々しく動かしているその命を放っておくことは出来ず、ミツバチの倒れていた周辺の土と共に当麻はそれを部屋へ招き入れる事にした。




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雨戸は立て付けが悪くて閉めるのに毎日苦労します。