ストロボ
朝、征士が目を覚ますと酒の匂いが部屋を満たしていた。
昨夜、信号を渡らずに入った店で飲んだ量は、いつもなら絶対に酔わない量だ。なのに、記憶がない。
それでも帰り着いたのが所長名義で借りている部屋ではなく、この家だった事に征士は1人笑ってしまう。
よほど気に入っているようだ。
まるで他人事のように思う。
今までもただ何となく時間を持て余して1人で飲むことや、家の事を思い出してそれを掻き消すために飲むことはあった。
それでも酒が、酒以上の楽しみを齎すことは無く、翌日に身体が重く感じることだってあった。
だが今日は同じように身体が少し重く感じるものの、気分は寧ろ良いほうだ。
ふわふわとした気持ちのまま失った意識の途中で、何か幸せな気分を味わったのも何となく覚えている。
さあ、それは何故だったか。考えても答えは出ないし、答えを探すつもりもない征士は取敢えずシャワーを浴びようと着替えを持って1階へ降りていった。
「何だ、夕べのうちに入っていなかったのか」
バスルームの前で鉢合わせたのは当麻だ。
朝風呂は身体に良くないから夜のうちに入るよう伸にいつも言われているのに、何故か朝からタオルと着替えを持ってそこにいる。
それも随分と機嫌の悪そうな顔をして。
それを嗜めるように征士が言うと、当麻の機嫌が更に降下したのが表情から解った。
だがその理由を征士は知らない。
「俺が先だからな…!」
睨みつけてまで言われた言葉に征士は従った。
今日は朝から外での撮影だ。人に見られる仕事の当麻は、普段でもある程度は身形に気遣っておいた方がいい。
準備もある彼が先に入るのは当然だと見送りつつも、あまりの機嫌の悪さに取敢えず首を捻っておいた。
「お、征士起きたか」
首を傾げた姿勢のままでいると、今度は顔を洗いに来た秀と出くわす。
当麻と違って彼は上機嫌の様子だ。
「…………当麻の機嫌が悪いようだが、お前、昨日何かしたのか?」
征士が最後に見た2人はソファの上でじゃれ合っていた。
そこから帰宅するまでの間に何か当麻の機嫌を損ねるような真似をしたのかと問い掛けると、秀は一旦呆気に取られて、そしてすぐに豪快に笑い出した。
「……何だ」
「いやー!違う違う、俺はなぁんもしてねぇよ!」
「じゃあ何故当麻の機嫌が悪い。幾らあれが低血圧だと言っても、明らかに酷すぎる」
真顔で続ける征士に、秀は更に笑い声を上げる。
「だから何だ」
「だって、お前だぜ?原因!」
原因、と言われても征士は何も解らない。
店で飲んでいる途中あたりから気分はふわふわしていたのだ。
会計を済ませて店を出たのは何となく覚えているが、向かった駅の辺りから記憶がかなり怪しい。
タクシーを使ったのか、それともそのまま電車で帰ってきたのかも覚えていないのだ。
そんな自分が何をやらかしたのだろうかと不安に思い、眉間に皺を寄せると秀が切実なのよ、とニタニタと笑いながら言った。
「切実…?」
「お前さ、今朝どこで目ぇ覚めたよ」
「どこって…私の部屋だが」
「どうやって行ったか覚えてるか?」
何度も繰り返すが、帰宅途中の記憶がないのだからそんな事を征士が覚えているはずが無い。
素直に首を横に振った。
「玄関に転がってたのを俺が運んでやったんだよ!感謝しとけ!」
背中をバンバンと叩かれると、頭が少し痛んだ。
後で鎮痛剤を飲んでおこうと思いながら秀に短く礼を述べる。
「…で?」
「ん?」
「それで何故当麻が不機嫌なのだ」
説明になっていないと指摘すると、秀は征士に顔を寄せて声を潜めた。
「ほら、当麻って華奢だろ?」
「ああ、そうだな」
「お前が帰ってきたときさ、俺、ちょうど風呂入ってて」
「ふむ」
「で、どうもその間にお前を運ぼうとしてたみたいなんだけどよぉ」
「………」
何となく秀の言葉の続きが予想できて征士は困ったように眉尻を下げる。
「お前が重くて運べなかったみたい」
やはり。
予想通りの言葉に、征士は溜息を吐いた。
つまり自分は知らぬ間に当麻の自尊心を傷付けたという事だ。
14歳も下だし職業的にも、そして何より体格差的にどう考えても仕方の無いことだが、正体をなくすほど酔っ払って帰ってきたのだから何も悪い事をしていないとは
言い切れない。
だが同時に征士としては謝りようがない。
そもそも運んでくれと頼んだ覚えがない。し、下手に謝っては更に傷付ける可能性だってある。
「………どうすればいいと思う?」
人付き合いに関しては秀のほうが何枚も上手だ。
そこに計算はなくとも、彼ほど人に好かれ、人を好く男を征士は知らない。
ここは素直に最善策を求める。
「ま、本人が機嫌を直すのを待ったほうがいいだろうな。当然、余計な事を言って刺激してやるんじゃねーぞ?」
「解っている」
なるべく彼の要望に従っておく方が今は無難かと考えて、そこで征士はふと思った。
「…若しかして当麻は昨夜のうちに入浴を済ませていたのか?」
「おう」
「そうか……」
酒臭い自分を運ぼうとして匂いがついたのを今朝になって落としているのだと知ると、既に余計な事を言った後だと気付く。
今日は本当に大人しくしていよう。
そう誓った。
そう早朝に決めた征士だが、だからと言って眉間に皺をこさえないかというとそういうワケではない。
シャワーを済ませて出てくるなり、当麻は朝食を作っている伸に駆け寄ってぎゅうっと抱きつく。
そして甘えるように彼を見上げて、俺臭くないか?と尋ねるのだ。それも征士の目の前で。
玄関が酒臭かったことから恐らく秀から事の顛末を聞いたのだろう伸は苦笑いをしながら当麻の頭を撫で、大丈夫だよと言っている。
その光景に征士の眉間がギュウっと寄った。
そして征士の目の前を、目も合わせずに通り過ぎると今度は秀の前で着ていたTシャツの襟ぐりを引っ張って肩を出し、痣残ってないよな?と尋ねる。
それに対して秀も笑いながら、大丈夫綺麗なモンだと笑っている。
よく解らないが多分、それも酔った自分が力任せに掴んだとか何かそういう事なのだろうが、悪かったと思う反面、さっさと肩を仕舞えと思う征士だ。
やはり眉間の皺は深かった。
素直に「私が悪うございました」と言ってやりたい気もするのだが、兎に角今は堪えるしかない。
当麻の不機嫌の原因は多少なりとも自分なのだ。
下手に刺激して火に油を注ぐわけにはいかない。
入れてもらったコーヒーを飲みながら眉間に深い皺を刻んでいる征士を、伸と秀はそれぞれの位置から苦笑いをして見守った。
さあ、朝食も済ませたし時間も迫っている。
今日は直接、現場での集合となっているため、4人はいつものように車に乗り込んだ。
運転は征士で、助手席には伸。
当然、後ろは秀と当麻になる。
エンジンをかけながらミラー越しに何となく当麻の様子を伺うと目が合った。
途端、先ほどまではそうでもなかったのに当麻の目は険しくなり、ぷいっとそっぽを向く。
それに征士の眉間に皺が作られた。
現場に着いて車を降りると、先に着いていたスタッフが数人見える。
それを見つけるなり、そのうちの1人に向かって当麻が「りょー!」と親しげに呼んで駆け寄っていく。
黒い髪の青年は征士と秀が始めて当麻と顔合わせした現場にいた、カメラマンの助手をしている青年だった。
という事は今日の撮影はあの時見たカメラマンのものかと考えた征士は、自分を見て悲鳴を上げた当麻が、裸同然の格好で目の前の”りょう”という青年に
抱きついた事を思い出してまた眉間に皺を、ぎゅっと。
「当麻、あの助手に懐いてんだなぁ」
そんな征士の背中しか見ていない秀は暢気にそんな事を言っている。
その隣に立つ伸も勿論、征士の顔は見えていないので穏やかな声で「そうなんだよ」と答えていた。
「彼はまだ19歳でね、写真学校に通っている傍らで助手のバイトをしながら現場で勉強している最中なんだ」
「へぇ、偉いな。歳も近ぇし、当麻としちゃいいオトモダチなんだろうな」
「そ。モデルには確かに当麻くらいの年齢の子もいるけど、当麻を起用するブランドや企業には珍しい年齢だからね、あの子は。
だから現場はどうしても歳の離れた人ばかりになるから、真田君の存在は僕としても助かるんだよ」
ふーん、と言っている秀の声を聞きながら、征士はこれではイカンと必死に眉間の皺を引っ込めようとして指で揉んでいるのだが、その目の前で当麻が
真田君の腕に自分の腕を絡め親しげに並んで歩き出すのを見て、眉間の皺が更に更に深くなっていく。
「………………念のため、現場周辺を検めてくる」
まだ午前中だというのに大人しくしていることが難しくなった征士は、気分転換も兼ねてその場から一旦は慣れる事にした。
スタジオでは拒まれても、外部との接触ポイントが多い外の現場では建物周辺の状況把握のためにも必要なことだ。
現場到着後にどちらか一方がそれを行うことは決まっていた。だから突飛なことではない。のだが。
低くなった声でそう言い残して去っていく”親戚のオジサン”の背を見送りながら、秀はぼそりと呟いた。
「ちょっと当麻、仲良すぎたんじゃねーかなぁ…」
それを聞いた伸は苦笑いをする。
「アレは”あてつけ”だよ」
何の?という顔で伸を見た秀だが、苦笑いをしたままの彼に背を叩かれ、当麻の警護は?と言われて慌てて秀が当麻と真田君の後を追って行った。
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まだ朝の10時です。