ストロボ
じゃあ僕これから仕事だから、と言う伸と別れて歩く征士の足取りはいつもよりゆったりとしたものだった。
触れてくる空気が少し冷たくて気持ちがいいと思って、そこで漸く自分が少し酔っている事に気付く。
征士は元々酒は強い方だった。今日はそんなに飲んでいないはずなのにと考えてから、ああ、と納得がいって何となく顔を顰める。
あの後、伸にはそんな事を聞いて何になると思うような本当にどうでもいい話を沢山させられた。
夏と冬はどっちが好きだとか学生時代何人に告白されただとか、挙句昨日見た夢の話まで。
勿論、伸は聞くばかりではなく自分の事も話してくれたが、いい大人2人が夕方頃から綺麗な個室でするにはあまりにも生産性のない話だ。
そんな会話を交わしながら酒を飲むのは、今までの征士の価値観からすれば無為な時間でしかなかった。
キミ、友達いないでしょ。
改めて言われると、否定する言葉が出なかった。
周囲に人が居なかったわけではないが、伊達家の人間とそうでない人間としてどこか見えない線が引かれていたように思える。
それは相手からも、そして征士自身からも。
あの家に生まれた瞬間からある程度将来が決められるのは伊達の一族の誰もがそうだ。
一般家庭より遥かに裕福で、そして堅苦しくて古い考えに固執し続ける家。
そんな家に生まれた征士は誰からも羨まれると同時に、違う生物のように見られることが多かった。
派手な容姿も手伝ってそれは尚更だ。
友達、か。
征士は身体に僅かに残っている酒の匂いに笑いそうになってしまう。
伸は征士より7つほど年上だ。
30代の男2人が改めて友達だなんて言うのは照れくさいが、征士はあんな風に誰かと飲むのは初めてだった。
それにあの家の事を関係のない誰かに話すのも雇い主であるナスティ以外では初めてだ。。
最初の顔合わせでもそうだったが、あんな風に面と向かって怒鳴りつけた相手も、改めて考えてみれば今までいなかった気さえしてくる。
物の本質を見抜く目でじっと見られると、大抵の相手は征士の言い分に負けてしまう。
それに怯まず、正面からぶつかってきた伸に悪い気はしない。
いや、悪い気がしないのは今の生活もかと、征士は赤信号で足を止めた。
秀と当麻が騒いでいて、伸に一言余計に突付かれる。
それは征士が今まで経験したことのない生活だ。
家を出る前は騒ぐ人間など屋敷内のどこにもいなかったし、皮肉を言うにしてももっと遠回しで陰湿な物言いしか聞いた事がなかった。
独り暮らしを始めてからは家の中に喋る相手がいないから一層静かなもので、征士は本当に眠りに帰るだけだった。
悪いものじゃないな。
あの家から飛び出した従姉妹のことを、どこか羨ましく思っていた。
密かに憧れていた、意味のない会話や笑い声に時々喧嘩と仲直りが混じった”普通の暮らし”というものを彼女は手に入れたのだと思うと、征士は羨ましかった。
伸が征士の事をナスティに聞いたのは、ただの興味本位からなどではない事は解っている。
当麻や所属モデルを護るためだ。
それだけじゃない。そこに生活を共にしている自分や、秀を護るためもあったのだと思うと、征士は尚更強く彼らを護ろうと思った。
信号が青に変わる。
人が動いた気配を感じて顔をあげると、正面のビルの上には当麻が写されている大きな看板があった。
大きな時計盤に寝転び、全く表情が無い姿。
その隣の看板も同じブランドの時計の看板だが、そちらは時計の針の上に立ち笑っている。
昔、自分が護れなかったもの。
従姉妹の幸せと、その子供の幸せ。
遠く離れた地にいる従姉妹はどうすることもできないが、その子供の事なら護ることができる。
気負ったものではなく、自然にそう思った征士はまた口元に笑みを浮かべると、信号を渡らず周囲を見渡す。
何となく気分がいいのだ。
友達いないでしょと遠慮無しに言ってくれた伸のお陰かもしれない。
どうせ今日は1日オフだ。
ちょっとくらいいいだろうと征士はそのまま明るく賑わっている道へと足を進めた。
日付が変わる少し前に玄関の鍵が開く音が聞こえて、当麻はソファから降りた。
今夜も遅くなると言っていた伸がまだ帰宅していないのは忙しいからだろうが、征士まで帰っていないのは何だか腹が立つ。
少し前まで秀と「何食ってんだろうな」「どこ行ったんだろうな」と言いながら待っていたのだが、あまりに遅いので先に風呂を済ます事にした。
当麻が先に行って、秀が今入っているところだ。
因みに彼らは煩いのが2人揃っていないのをいい事に、夕食にはデリバリーのピザを頼んで好き放題食べていた。
玄関の鍵を開けているのだから、当然、鍵を持っている人間だ。
伸か征士か。そう思いながら廊下に出ると、玄関先で座り込んでいる征士の背中が見えて当麻は嫌みったらしく溜息を吐いた。
「遅い。何してたんだよ」
声をかけたが征士に動く様子がない。
おや、と思って当麻はもう少し近付くと、その匂いに顔を顰めた。
「酒臭っ!!」
一体どれ程飲んだのか知らないが、こんなにも酒臭い人間は初めて見た。
言うなら巨大な奈良漬が玄関に置かれているみたいだ。
それに当麻が悲鳴に近い声を上げると、漸く征士が振り返った。
色素の薄い肌は赤く、紫の目は茫洋としている。
こりゃ立派な酔っ払いだ。
もう一度吐いた当麻の溜息は嫌味でも何でもなく、心底呆れて出たものだった。
「征士、せーじ、ホラ、立てよ。壁にもたれてんじゃねーよ。酒くっさ!」
振り向いたままいつまでも立ち上がろうとしない相手に焦れて腕を引っ張ると、いよいよ匂いがきつくなる。
風呂に入ったばかりの当麻は、秀が出たらもう一度風呂に入りなおそうかと思うほどだ。
170センチ半ばの身長で華奢な身体つきの当麻が腕を引いたところで、185センチはゆうにある征士が持ち上がる筈はない。
ぐいぐいと引っ張るたびに征士の身体は壁伝いにずるずるとだらしなく滑り、終いには床に倒れこんでしまった。
よく見ると靴も脱いでいない。そのまま眠るつもりなのか、いつの間にか瞼をしっかり閉じている。
普段口煩い男のその間抜けな姿に呆れて良いのか笑っていいのか、当麻は複雑な顔をした。
子供の頃の記憶の中の”征士兄ちゃん”はもっとしっかりして優しい人だったのに、と益々複雑な顔になっていく。
「征士ー、起きろよ。秀、今風呂入っててお前運べる人間いないんだから自分で歩けよ」
頬を叩くとその手を取られた。叩くなと言いたいらしい。
だが当麻としては、叩かれたくなかったら起きろよと言いたい。
だから今度はもっと強く叩いてやろうと、征士の大きな手から自分の手を取り戻そうとしたが、思いの外力が強くて簡単にはいかない。
「…ちょっと、征士、」
放せよ。
そう言おうとした当麻は言葉を止めた。
自分の手を握っている征士が眠ったまま凄く幸せそうに笑っている。
それに見惚れてしまった当麻だが、このままでは駄目だと我に返る。
朝晩の冷え込みは厳しいのだ。
今は良くとも、このまま放置すれば幾ら征士でも風邪を引いてしまう。
それは困る当麻は、必死に、だって彼は自分のボディガードだと何故か言い訳をしながら手を強引に抜いた。
すると手の中の感触が無くなった事で、征士が瞼を重そうにのろのろと上げた。
再び見えた紫の目は焦点が合っていないまま、それでも自分を見ようとしているのに当麻が気付く。
やっと意識が戻ってきたかな?と思っていると、右の肩にずしりと手がかけられた。
重い。
だが本人が起きて移動してくれるのならちょっとくらい我慢しようと、文句の言葉は堪えた。
右の肩に続いて左の肩にも征士の手が乗る。
そして当麻を頼りにしながら征士は自分の身体を起こし始めた。
ゆっくりとかかる重量に当麻は顔を顰めたものの、黙って見守り続ける。
明日、肩に痣が残ってたらその時に文句を沢山言って1つくらい言う事を聞かせてやろう、なんて考えながら。
「………、……」
「は?なに?」
どうにか上半身を起こしきった征士が何か言った。
それが良く聞こえず、当麻が耳を寄せる。
「…っ !?」
すると肩にあった征士の手が急に当麻の身体を抱き寄せ、驚く暇も与えてもらえずに唇を塞がれる。
思ったよりも柔らかな感触に、何が起こったのか混乱しているとそのまま床に倒されて、濡れた舌を侵入させられる。
酒の味が残った舌に口内を蹂躙されてか、乱暴な行為に息が苦しいのか、顔を赤くした当麻の身体のラインを征士の大きな手が優しく撫で始めると、
青い目が潤み始めた。
圧し掛かる体は大きくて重い。
それを必死に退かそうと胸を強く叩くが、びくともしない。
耳に響く濡れた音に困惑しながらも、やめて欲しくて当麻は必死に征士の胸を叩き続ける。
だが征士の手が腰より下に降りたのに当麻が身を強張らせた途端、征士の体が急に更に重くなった。
頭を振って逃れるとアッサリと唇も解放され、そのまま征士の頭が大きめの音を立てて床に落ちる。
大丈夫かと不安になって顔を覗き込むと、瞼が再び下りて規則正しい寝息が聞こえてくる。
どうやら完全に眠ってしまったらしい。
互いの隙間に腕を入れて突っ張り、征士の下からやっとの事で抜け出すと息が上がっていた。
当麻はすぐに立ち上がることが出来ず、壁にもたれたまま座り込む。
床に転がったままの征士がすやすやと眠っているのを見ると、腹が立ってきて座ったままの姿勢で征士の脇腹をつま先で蹴った。
彼の反応は無かった。
「……クソ…!腹立つ…!!誰と、……」
間違えてんだよ、という言葉は心の中だけで吐いた。
口にすると何かが駄目になる気がしたからだ。
「おー、何だ、征士帰ってきたのか」
玄関にそのままいると、秀がバスルームから姿を見せた。
背後からかけられた声に、先ほどの光景を見られていないかと不安になった当麻だが、秀のその表情からはそういった様子は見えない。
それに安心して、もう一度征士の脇腹辺りを座ったままつま先で蹴る。
やはり彼の反応は無いままだ。
「秀、コイツ部屋に放り込んどいてくれよ。俺じゃ無理」
何コイツ、酔っ払ってんの?とニタニタ笑って見下ろしている秀に頷いた当麻は急いで立ち上がり、彼の横を不機嫌そうに足を踏み鳴らしながら通り抜けた。
後ろで、お前靴も脱いでねーのかよ!という秀の声が聞こえる。
それに何故か泣きそうになった当麻は階段を一気に駆け上がった。
*****
帰ってきた伸が、玄関先の匂いに悲鳴をあげます。