ストロボ
「当麻の出した履歴書見て僕、なぁんか見覚えあるなって思ったんだよね」
カブの漬物を箸で摘まみながら伸が言った。
「”羽柴”。当麻の苗字、キミ、当然知ってるよね?」
「…ああ」
伺うように向けられた視線に征士は短く答えた。
彼が話したいことが”羽柴”当麻のことだけではない事は解っている。
先を続けろと目で促すと、伸は面白く無さそうに口を尖らせて、だがすぐに表情を戻した。
「家族は母親だけ、それもアメリカにいるって言う。じゃあ日本にいる親戚はって聞いたら、そんなものはいないって言う。
日本人名なのに何言ってるの?って感じだよね。経歴だけ見れば若しかして将来有望な研究者だったんじゃないかと思える。
だけど異様なまでの存在感はモデルに物凄く向いてる。本当、変な子だって思った。でも嘘は吐いてないのは解ったよ。
当麻が僕に吐いた嘘は、他の事務所じゃ相手にされなかったって事だけ」
でも変だなと思って気にしてたら、と伸は区切ってから頼んでいた日本茶に手を伸ばした。
この後も仕事がある伸は、征士には酒を頼んだが自分は飲んでいない。
「”羽柴”がごく近しい身内経営で有名な巨大企業・伊達の、少し離れた親類にも関わらずに上層部にあった名前だって思い出したんだ」
「何故」
「え?」
「幾ら”伊達”が有名でも、その幹部全ての名など普通は気にせんものだろう?何故それに気付いた」
落とし気味の照明の中でも征士の紫の目は鮮やかだった。
その目を見返して、伸が食えない顔で瞬きをする。
「僕ね、事務所を継ぐ前は商社マンなの。自分で言うのも何だけど、結構有能だったんだよ?」
「……………なるほどな」
「そしてキミってばその”伊達”家の人間で、しかも本家筋の総領息子だったんだね」
ビックリしちゃった、と言った伸は言葉ほどは驚いた様子ではなく、料理を運ぶ先の口元に浮かぶ歪んだ笑みを隠そうとしているのが見えて、
それが辛くて征士は俯いた。
「………所長から聞いたのか」
警護に当たる所員たちの個人情報は所長たるナスティ以外に知る者はいない。
ましてや。
「キミ、絶賛、家出中なんだって?」
そう言われると益々情報源が彼女だと思わざるを得ない。事情を話したのは彼女以外にいないのだ。
確かに征士は、23歳の時に自身からの一方的な絶縁宣言と共に家出したことを彼女に話していた。
「…ま、キミも当麻同様ワケありだったって事だ」
「…………古くから続く家には色々ある」
みたいだね。とやや同情交じりに言った伸は、今度は堪えていた笑みを遠慮することなく征士の前で盛大に見せた。
あまりに朗らかなそれに征士は呆気に取られ、暫し呆然としてしまう。
それを見た伸は更に大きな声で笑った。
幾ら個室といっても笑いすぎではないだろうかと我に返った征士がいつものように眉間に皺を刻むと、漸く伸の笑が収まる。
そして、ごめん、と目尻に浮かぶ涙を拭いながら形だけの謝罪を口にした。
「そんな神妙にならないでよ、怒りたくて話してるんじゃないんだ。…確かにナスティの所なら、仕事をする時は名前だけで動けるモンね」
「………部屋も彼女の名義で借りてくれるしな」
「つまりキミは”伊達征士”を切り捨てて生活が出来るってワケね」
久々に他人の口から自分の名をフルネームで呼ばれ、その居心地の悪さに更に眉間の皺が深まったが、伸はそれを気にしなかった。
確かに保険や税金関係はどうしようもないが、日常ではあの家からほぼ完全に切り捨てることが出来る。
征士が今の仕事を選んだ理由はそれだった。
伸が急に真顔になる。
「どうして家出を?」
「……………」
「話してくれないかな。これは大事なことだ」
「別に当麻の護衛に問題はないはずだ」
「ないわけないだろ」
伊達家とは絶縁しているし、征士自身も伊達を名乗ってはいない。
だが彼がどう思おうとも相手がどうかはわからない。
「伊達一族から追い出された羽柴の娘が産んだ子供がいて、その上家出した総領息子がその警護にいるとなると僕としちゃ問題がないとは言い切れない」
暗に、伊達家からの圧力を言われては征士は何も言えない。
「……気になるというのなら私から所長に言って別の人間と代わってもらう」
「そういう問題でもナイの」
「何故」
「僕の性格かな?気になっちゃうと駄目なんだよね、途中で放り出したくない」
「…………」
「かと言って何も知らずに”伊達”に圧力をかけられたんじゃ、折角立て直した事務所がまた駄目になる。それも嫌だ。だから何かの手立てとして
キミの話が聞きたいのさ」
「…………」
「ねぇ、話してよ。悪いけど、全部」
「………私は…」
口篭る征士を伸は正面から真剣に見据えて、征士、と名を呼んだ。
「僕はね、事務所のモデル、みんな大事だ。でもその中でも当麻が一番大事だ。売れっ子だからじゃない。純粋に心配なんだ」
自分が何者かバレる危険性が高いのに親元を離れてまで日本に戻ってきて、そうまでしてモデルをしたいっていう理由は今も知らない。
でもそれでも彼が本気なのは解るんだ。
それってきっと何か事情や目的があるんだと思う。
当麻は馬鹿じゃない。凄く賢い子供だ。
リスクも何も全部解った上で行動してる。
だから僕は、当麻がその目的を果たすまで絶対に見捨てたくないんだ。傷付けたくもない。
その為には当麻が生まれるより前に何があったのか、キミがどうして家出しているのか教えて欲しい。
そう真剣に言い募る伸の言葉を、征士はもう一度頭の中で反芻した。
…嘘はないのだろう。
当麻の警護をしている征士が社長として忙しい伸の全てを把握することは出来ないが、当麻に接している態度を見れば少なくとも彼は事務所の利益の為だけに
当麻を使っているようには見えなかった。
まるで自分の子のように、本当の意味で優しく接してくれているのは解る。
だったら、と征士は箸を置いて酒を一口飲むと、姿勢をいつも以上に正した。
征士が家出をするきっかけになったのは一族揃っての当麻の母への仕打ちが原因だったが、それでもその問題が起こっていた当時に実行しなかったのは、
単に征士がその全てを知らなかったからだ。
何よりも名家である名を重んじ、そしてその血に固執する伊達家の親戚筋に当麻の母親はいた。
本家により近いという程ではないものの、優秀な者が多いその家柄を征士の祖父は大層気に入っていた。
そこの一人娘が結婚したい相手がいると言い出したのが、あろう事か彼女がまだ16歳の時だ。
その少し前から両親と彼女の間には、ある問題が原因で溝が出来つつあった。それが解消されない内に出た結婚話に、本筋である伊達家が口を挟んだ事で、
問題はより大きくなってしまったとは言え、当時の征士は双方に譲歩の心がないのが一番の問題だと思っていた。
結婚を焦る従姉妹に対してはもう少し先でも構わないだろうにと思い、そして自由な恋愛を認めない自分の家族に対しては時代錯誤甚だしいと呆れていた。
だが事が大きく変わったのは、従姉妹の妊娠が発覚してからだ。
彼女が結婚を焦っていたのは既に腹に子供がいたからだと知るや否や、彼女の両親と征士の家族に加えて、一族揃って中絶するよう迫った。
だが彼女としては愛する男との子供だ、何より自分に宿った命を自分以外の意思で奪う事などしたくはない。
いつまで経っても首を縦に振らない彼女に、毎日のように誰かが彼女の腹にある命を蔑む言葉を放ち、あからさまに彼女を罵った。
その子供の父親でもある男は疲れやつれていく恋人を放っておけるはずもなく、ある日、遂に彼は彼女を連れて逃げた。
無駄に堅苦しく古い考えの一族よりも、ずっと建設的な考えの出来る彼女の方が好ましく思えていた征士にとってこの事はショックだったが、それでも
彼女と、そして生まれてくる子供が平穏に、幸せに暮らせるのならそれは正しい選択だと無理に探すような真似はしなかった。
彼女の籍が抜かれた事を知ったのと、彼女の子供が無事に生まれた事を一族の噂話で知ったのは同じ季節だった。
身重の彼女を一切気遣わなかった一族の事を思えば、寧ろ同じ籍にいる事のほうが不幸だと征士は密かに思っていたからそっちはどうでも良かったが、
せめて生まれてきた子供に祝福の言葉だけでもかけたいと思った。
どうにかして連絡を取れないものかと考えていると、彼女の方から征士の携帯に直接電話があった。
私の赤ちゃん、見て欲しいの。
そう言った彼女の声が本当に幸せそうで、短い通話を終えた後も征士は暫くの間、電話を握り締めたまま何度も喜びを噛み締めていた。
彼女から聞いた住所を尋ねれば、そこは征士や彼女の生まれ育った家に比べれば随分と粗末な家屋だったが、それでもそこには確かに幸せが満ちていた。
20代半ばと思われる父親と17歳で母になった従姉妹は微笑みあい、その腕に抱かれた青い髪の子供は無垢に笑っている。
こんなにも幸せそうな彼らだ。いつかは一族にも認めさせ、再び家に戻れるように総領息子である自分がするのだと征士は心に決めた。
それなのに彼女達は征士に詳しいことも、行き先も言わずに行方をくらました。
そのあまりの唐突さに不安はあった。
だがそれは、彼女の夫の仕事絡みの可能性だってあるはずだと征士は自分に言い聞かせた。
自分の聞き間違いでなければ、彼女の夫は確か写真家だと言っていたはずだ。
日本以外で活躍の場を得たのだろうと思い、そしていずれ彼のその腕が認められればそれが地位や名誉に煩い一族を黙らせる1つの手にもなるはずだとも。
その時が来た時に少しでも有利に話を進められるようにと、征士は一族中の信頼を得られるよう務めていた。
ところがその征士を信用しきった叔父が零した、「彼女達が日本のどこにも居場所がなくなるよう、お前のお爺様が手を回した」という信じられない言葉に
征士は頭が真っ白になった。
時代錯誤だの何だのと思ってはいても、祖父の手腕については尊敬していた征士だ。
なのにその祖父が、男児としての心得を子供の頃から征士に叩き込んできたはずの祖父が、具体的にどうしたかは知らないが彼自らが裏で糸を引き、
そのせいで彼女達が引越しを余儀なくされたのだと知ると、いても立ってもいられなくなった。
だから征士はすぐさま祖父の元へ行き、問い詰めた。
卑怯漢めと罵った。
だが征士が何と言おうと祖父は、全部お前のためだとしか答えなかった。
つまり自分の行いは何も間違ってはいないと言うのだ。
その往生際の悪さにぷつりと切れた征士は悲痛な声を上げて止める祖父を相手にもせず、絶縁宣言と共に家を出た。
「まさか従姉妹が渡米後に離婚していただなんて知らなかった」
深い溜息を吐く征士に、伸は「…そう……」としか言えない。
「だが伊達家が今の当麻に何かをするという事はない」
言い切って酒を煽った。
「物凄い自信じゃないか」
「………当麻を使ったポスターを見かけてすぐに、それがあの時の子供だと気付いてな、…伊達の母に連絡をした」
「…なんて…?」
「”当麻に少しでも何かしたら、完全に籍を抜いてやる”とな」
そう言った征士は、彼にしては珍しく意地の悪い笑みを浮かべた。
伸は思わず顔を顰めた。
「え、本気で言ったの?」
「言った。彼らが従姉妹に強制的にしたことを、私は自分でやると言った」
「それって効果あるの?だってキミ、家出してるんでしょ?」
そんな子供の駄々の様な言い回しが脅しになるのだろうかと伸は不安を顕わにする。
家出している息子が今更そんな事を言って何になると言うのだろうか。
酔っ払い始めて馬鹿になってんじゃないかと思わないでもない。
見つめた先の征士が、今度はニヤリと笑った。
「何の因果か”伊達”の家は私以外、私の兄弟も従姉妹も、全て女ばかりなんだ」
「…………へぇ」
「一族に拘りがあるのは祖父だけではなく父も同じでな、婿養子になど後を継がせたくはないのだろう。それまでも何度も戻るよう懇願されていたが、
今までは全部無視してきた」
「その息子の方からコンタクトを取ってきたと思ったら、それが除籍の話で伊達家は焦ったってこと?」
「ああ。それを告げたら今度は、誓って何もしないから戻ってきてくれという内容に変わった」
「今は?」
「しつこいと言ってからは静かなものだ」
それって本当に大丈夫なのかと益々心配になるが、自分の想像できる範囲を余裕で飛び越えたところに伊達家の血への拘りがあるのだろう事は、
征士が話してくれた過去の内容から推測はできる。
ならば征士の言うとおり伊達家からの当麻への妨害や、事務所への圧力については安心してもいいのかもしれない。
だが。
「それじゃあ最近頻発している例のコンドームの件は一体何なんだろう…」
何気なく呟くと先ほどまで珍しく機嫌のいい顔をしていた征士の顔が、再びいつもの険しいものに変わる。
「ああいう人目に晒される仕事をしていればあの手の歪んだ懸想はあるものなのではないのか?」
「いや、あるっちゃあるけど……あんな風に全部同じモノっていうパターンは初めてなんだよね」
恐らく送り主のものと見られる切った毛髪や、情念の篭った手作り品、可愛いものなら剃刀から果ては簡易的な爆発物まで、妙な”贈り物”は、
確かにどの事務所でも届くものだ。
だが当麻の場合、何故かコンドームが群を抜いて多い。
”誰か”が指示をしているのではないかと思えるほどに。
「つまりお前は、伊達家の人間が裏で指示をしていると思っていたという事か」
「キミの血縁者にその可能性を見た非は詫びるけど、絶対にそうだって思い込んでたワケじゃないよ」
不愉快な顔をした征士につい謝ったが、征士は益々不愉快な顔をした。
「あんな連中を私の血縁者などと言うな」
「あ、…………そっち」
「だがそれも違うという事は言える」
「そうなの?」
「伊達家の連中はその辺については潔癖でな。中高生で男女が手を繋ぐ事にさえ不快感を示すような一族だ。そんな真似は絶対にしない」
「……そう。…じゃあ他の可能性を見たほうがいいかな?」
「いいだろうな」
ふうん、と伸は言った伸は、店員を呼びつけてお茶と酒の追加を頼んだ。
「……?」
「いや、折角だからもう少し話を聞こうかなって」
「何も酒がなくとも、今後仕事で必要なことで話すべき事は話す」
「社長として聞きたい事は聞いたからもうイイよ」
「では、」
「言ったよね、僕。途中で放り出したくないって。当麻は勿論大事だけど、関わってる以上、キミもある程度心配だ」
「心配される必要はないと思うのだが」
「いやー、あるよ。キミ、友達いないでしょ」
「…………………」
「図星だね。うんうん、じゃあ僕が個人的に聞きたいことあるからさぁ」
ニッコリと笑った伸はとても爽やかなのだが、何故かその笑みは物凄く性質が悪いものに見えてならない。
思わず腰を浮かそうとした征士だが、体が巧く機能しない。
情けない事にそれほどに伸の笑みは物騒だった。
「伸、伸、お前、仕事があるんじゃないのか…?」
「ご心配なく!まだ少し時間はあるんだ!」
とても晴れやかな笑みだ。
だがそれに征士は気圧されてしまう。
そう言えば自分や秀に対して我侭放題の当麻が、伸の言う事だけは大人しく聞いていた事を思い出す。
……こういう事か…
逆らってはいけない人間と言うのは、いる。
伸がその類だと理解した征士の背中を嫌な汗が流れていった。
*****
世話焼きというかお節介な伸。