ストロボ
家の前でタクシーを降りた征士は、秀の言うとおり家の外周や郵便受け、そして当麻にばれないように庭を調べた後で、何もなかったように門まで戻り、
そこでインターホンを鳴らした。
インターホンを見つめながら返事を待っていると、玄関の方が先に開け放たれて少し驚く。
「…おかえり…っ」
勢い良く飛び出してきた当麻の表情は、再会してからは一度も見せてもらっていなかった笑顔だった。
「喉渇いてないか?何か飲む?コーヒー?紅茶?日本茶もあるぞ。…茶葉から入れるんじゃなくて、ティーバッグだけど」
征士の怪我をしていない左の腕を引いてリビングに導きいれるなり、当麻は矢継ぎ早に聞いてくる。
それがおかしくて征士は苦笑いをした。
「病院で処置を受けている間が手持ち無沙汰で、その間にペットボトルのお茶を飲んだから大丈夫だ」
それより落ち着けと声をかけると、当麻がパタパタとスリッパの音を響かせながら征士の座っているソファに近付いてきた。
「…?…どうした?」
すぐに座るかと思ったが、何故か当麻は座らない。
モジモジと朝から着ているパーカーの裾を弄っているばかりだ。
「………えぇっと…」
「立ったままでどうした。座らないのか?……あぁ、そうか。すまん」
3人掛けのソファの真ん中に何も考えずに座っていた征士は、左側を空けるように座りなおした。
そしてもう一度視線で、座るよう当麻に勧める。
今度は当麻も座るためにソファに近付いてくれた。
「……………」
だが座ったのは征士の空けた左側ではなく、やや狭い右側だ。お陰で身体が密着する。
布越しに体温が伝わってきて、征士にしては、彼らしくもなく妙に気恥ずかしい。
「………………、……当麻、」
「なぁ、痛む?」
どうしてお前は態々狭い方に座るんだ。そう尋ねようとした征士の言葉に被るように当麻が口を開いた。
表情を確認すると、その目は真剣で、ちょっと泣きそうになっている。
征士は当麻にバレないように笑った。
「いいや。痛み止めを貰ったからな。…まぁ、無理に動かせば痛むのはしょうがない事だ」
右の鎖骨を折った征士は、そこに繋がる腕を動かさないようにと右腕全体を固定され、三角巾で吊られていた。
それを聞いた当麻は僅かな振動もマズイと思ったらしく、上体を逸らしてそこに当たっていた自分の体を慌てて遠ざける。
征士は苦笑いを漏らした。
「いや、その程度は大丈夫だ。ただ何かと不便ではあるな」
「……ごめん」
「お前が謝ることではないだろう。謝ってもらうなら、あのカメラマンだ。…全く、信用した途端、これだ」
当麻の魅力を理解していると認めた日の内に、彼は当麻に手を出した。
結果的に当麻自身に傷がつくような事にはなっていなかったし、頼まれてもいないのに信用したのは自分だが、それでも腹は立つ。
少しふざけて苦々しく吐き出せば、当麻が不思議そうに首を傾げった。
「信用?」
「いや、こっちの話だ。…それより伸と秀の姿が見えんようだが」
「あぁ、2人ならキャンセルした仕事を謝りに行った」
「……相手先が怒っているのか?」
心配して聞くと、当麻は「ううん」と首を横に振った。
「全然。でもこういう事はちゃんとしとかないと後々響くって言って、改めて出向いていった」
「それに秀も同行したというのか?」
「うん」
「…あいつの仕事も私と同じでお前の警護だと思っていたんだがな」
「まぁいいじゃん」
「良くはないだろう」
「いいよ、別に。俺は家から出る気、ないし」
同僚の行動に呆れて言えば、警護対象自身が構わないという。そうなると征士にはこれ以上何も言う権利はなくなる。
許可は得ているのだ。ならばそれは咎められることではない。
それに、と征士はこっそり隣を盗み見た。
久し振りに、当麻とゆっくり話をしている。
警戒も嫌悪もなく、純粋に寄り添ってくれるのは本当に久し振りだ。
その姿に目を細めながら、まぁいいかと征士も納得する事にした。
「……あのさぁ、…征士」
「何だ?」
「その……ありがと」
「礼など。そもそもこれが私の仕事だ。お前に大きな怪我がなくて良かった」
言う気はないが、骨を折るのだって初めてではない。
秀の腕のように目に見える傷はないが、征士だって怪我は何度か経験している。
警護対象を護るために自らの身体を盾にすることはザラだ。
今回はそれが、扉を破るためになっただけの話でしかない。
「そうじゃなくて…!いや、…うん、そっちもなんだけどさ…」
「…?」
「その、………………俺のこと、伊達の家の人間から守ってくれてたんだってな。…伸から聞いた」
「……あぁ、…」
言われて、その事かと征士は苦笑いをした。
だが守れていたかどうかは曖昧だ。
まず確認する事があったと思い出す。
「当麻」
「ん?」
「その……私の母がお前の前に現れたのは、いつだ」
タイミングによっては、母は約束を破った事になる。
血に対して異常なまでに執着する家柄だとは思っているが、あの時にかけた脅しが有効だったのかどうなのか、きちんと判断をしておきたい。
もし彼女が嘘を吐いたというのなら、それこそ征士は自分の言葉を実行に移すだけだとしても。
「来たの?」
「ああ。お前が言っていた…その、……私とお前の母親の結婚がどうのと言ったのはいつで、何回現れた?」
「来たのは1回。俺がモデルの仕事を始めた次の日すぐに」
「すぐ……」
となると、征士がポスターを見るより前だ。
それも1回きりという事は。
「それ以降は一度も来ていないんだな?」
「うん。征士が何か言って二度と俺に近付かないようにしてくれたって伸から聞いた」
「そうか…」
なら、仕方がない。と素直に思いたくはないが、約束は守っているらしい。
だったらこれ以上責めても仕方がないと諦める。
彼女の吐いた言葉のせいで当麻は随分と深く傷付いたようだったが、もうその誤解も解けた。
腹立たしく思いはするが、今はもう隣でこうして昔のように笑ってくれている。
それもピッタリと寄り添って。
当麻が可愛いから、許す。但し今回だけ。
なんて随分と現金なことを征士は考えた。
「征士、あのさ…」
「何だ?」
触れるくらいなら大丈夫だと告げてから、当麻は逸らした上体を元に戻し、また征士にピッタリとくっついている。
自分とは違う体温が愛しくて、征士は左の手で青い髪を撫でた。
「母さん、シカゴにいる」
「………………。…当麻、昼間も言ったと思うが、」
彼女にそういう意味で会いたいと思っていないと告げようとすると、当麻はまたその征士の言葉に被せるように口を開いた。
「シカゴの、病院にいるんだ」
「…何だと?」
「病院って言っても施設としてはコンシェルジュ付きで高級ホテルみたいな場所だけど」
「何故。何かあったのか」
青褪めて尋ねると、当麻は事も無げに笑ってみせた。
「前にね。もう大丈夫」
「何があった」
「母さん、心臓に疾患があったんだ」
「………心臓に?」
言われて考えたが、そんな話を聞いた事はない。
渡米してから発覚したのだろうか。
「俺が12の時に、母さん急に倒れて。それで心臓が保たないって言われた」
「………それで、今は?」
「だから大丈夫だって。今はもう安定してるらしいし」
「手術でどうにかなったんだな?」
「うーん。そうっちゃそうだけど、そうじゃない…かな?」
じゃあ何だと征士は首を捻った。
心臓に疾患があったが、手術などで回復したのではないという。
だが今はもう大丈夫。意味が解らない。
「……俺さ、元々スキップを使って進学してたけど、それまでは特に何がしたいっていうのは無かったんだよ。ただ面白いからアレコレ勉強してただけ。
でも母さんが倒れて、…それで俺、医療関係に進もうと思ったんだ。……母さん、助けたくて」
進路を決めた。そしていつかの為の研究にも明け暮れた。
自分が卒業するまで母親の命がもってくれるよう、祈りながら。
だがそろそろ進路を本格的に決定するという時期に差し掛かったとき、転機が訪れた。
「臓器提供者が見つかったんだ」
「……提供者?」
「うん。…それが2年前だ」
2年前。臓器提供。
その言葉をどこかで聞いたなと征士は記憶を遡った。
そう遠い昔に聞いた話ではないはずだ。
そう思いながら思い返していると、ゴミ箱が目に入った。
ずっとかかっていた靄が晴れたようだった。
「……若しかして、…伸か」
確か彼は、臓器提供の同意書にサインしたと言っていた。
その臓器は姉のものだ。どの部位とは言っていなかったが、この話が繋がるのなら恐らくそれは心臓だったのだろう。
「そう。良く解ったな」
当麻も驚いた顔をしている。大きな目がまん丸になっていた。
「伸と話をした時にな…少し。…だが当麻、普通は提供者と受けた側はお互いに知らないようになっているのではないのか?」
「普通はね。…俺は偶然、知っちゃっただけ」
「それで日本に?」
「うん。…臓器提供者が解った時はさ、俺も、ああ感謝しようって思っただけだった。でも気になってその人の事を調べたら、お姉さんの経営してた
事務所は傾いて、ボロボロだって。それで…」
「まさかお前、恩を返すためにモデルを…?」
たったそれだけの為に、あんな親戚のいる日本に単身戻ってきたというのかと問うと、当麻は困ったように笑った。
「だってさ、俺にはそれ以外に返す方法がなかったから」
「しかしお前、だからと言って何も、」
「俺、伸のお陰で独りぼっちにならないで済んだんだ」
当麻はもう笑っていない。
青い目はどこか暗い場所を見ているようだった。
「俺、母さんがいなくなったら本当に独りぼっちだ。親父はどこ行ったか知らない。親戚は寧ろ俺を嫌ってる。……誰も俺を愛してくれない。
独りぼっちだ。それを伸が助けてくれた。だから今度は俺が伸を助ける番。幸い、俺、向こうでも何回か声掛けられてたから自信はあったし」
「当麻……」
「でもさ、俺、日本に帰ってきて良かったって思ってる」
征士がかける言葉を見つけられずにいると、当麻が顔を征士のほうに向けた。
青い目と合う。
「征士…兄ちゃんにまた会えた」
照れたように、にっこりと笑う姿がいじましくて、愛らしい。
それに征士は笑った。
「私もお前にまた会えて良かったと思っているぞ」
嘘ではない。
また会えた。ずっと気にしていたのだ。元気だと解って安心もした。
けれどそれ以上にもっと強い気持ちで、良かったと思える。
その言葉を聞いた当麻は驚いたように目を見開き、そしてすぐに微笑んだ。
それは征士も同じだった。
初めてお互いの気持ちが、ちゃんと分かり合えた気がした。
それはどちらから、というのでくごく自然なものだった。
征士は固定具や三角巾で固められた腕を、少しぎこちなく動かして当麻の背に回し、当麻も2人の間にあった腕がなくなった事で、
より一層征士に身体を寄せる。
征士が見下ろした先で、当麻は征士を見上げていた。
互いに笑いあう。
幸せという言葉以上の気持ちがあるのに、表現できる言葉は幸せしかない。
触れ合う体温に淡い気持ちが擽られる。
当麻の背に回されていた征士の手が腰に回り、優しく抱き寄せると当麻が目を閉じた。
うるりとした唇の愛らしさに引き寄せられて、征士も顔を寄せ目を閉じる。
そっと、息がかかる位に2人の距離が近付いた。
時に。
ぐぉー…ぐ、ぐがっ……すぴぴ、……ふんが、ぐぁー、んごご、ごっ…ぐ、………ぐぉー…ぐ、ぐがっ……すぴぴ、…。
耳障りで不愉快な音が響いてくる。
一定間隔でループしながら。
「……………………何の音だ」
ムードもへったくれもない音に、明らかに征士は不機嫌そうな声を出す。
「あ、…いっけね。俺の携帯だ」
「……………けいたい…」
お前の携帯、変な音がするな。
征士はその言葉が言えなかった。
遠慮なんかしてない。
もうただただ只管に、呆れて何も言えなかった。
その隣で当麻は、「あ、秀だ」と言って携帯に向かってもしもし、と応えていた。
*****
以前に録音しておいた秀の鼾が、秀からの着信音の当麻。