ストロボ
征士が日課にしている早朝のジョギングから帰ると、まだ誰も起きてはいなかった。
ここ最近、当麻の忙しさは更に増している。
未成年という事もあって彼が仕事に従事できる時間は夜の10時までだ。それを過ぎると如何に撮影が残っていても規定は優先される。
悪い話、こういった現場ではそれは珍しいケースだった。
大概の場合においては多少どころか平気で規定時間から1時間を過ぎても未成年を仕事に使う事が多いそうだが、当麻に関してはそれは許されない。
何故って、優しい好青年の社長が優しい雰囲気はそのままに、けれど頑として許さないからだ。
当麻はまだ子供なんですよ、と言って。
モデルとして使える時間が他より制限が厳しい。
しかし広告としてこれほど魅力的な商品もない。
だから誰もが我先にと必死に毛利社長に連絡を寄越し、どうにか取り入って当麻の予約をしたがる。
伸は何もその状況に胡坐をかくような人間ではない。信頼関係を築けば融通を利かしてくれることもある。
しかし上っ面だけのおべっかを見抜くだけの目は持っていた。
だから余計に彼らは誠意を持って伸やモデルに対して接する必要に迫られる。
だから、夜の10時を過ぎれば当麻を解放するという事は、彼の場合においてのみ優先される事だった。
因みに伸の事務所で最年少は当麻で、未成年も当麻だけだ。
きっと他に未成年者がいても彼は同じように扱っただろう。何も当麻が稼ぎ頭だからと言うだけではない。
ただその反動でどうしても日中に仕事が集中して、しかも密度が高くなる。
飲み込みの早い当麻が撮影時間を引き延ばすようなヘマはしないが、それでも一度動き出すとスケジュールはかなりハードだ。
1つの現場が終わればすぐに着替えて、次の現場へと移動を始める。
車中で昼食を摂ることだって珍しくはなかった。
伸もそれに付き合って車中で摂る。
ボディガードである秀と征士にはそれは強制せず、撮影の合間に交代での食事を許されていた。
だが何となくその撮影風景が面白い秀は、何かを買いに外に出ても現場さえ許してくれれば片隅で食べていることが多かったし、
征士は征士で、当麻から目を離すのを良しと出来ずに結局彼も同じように片隅で食べていることが多かった。
昨日も夜の10時までみっちり仕事をこなして、急いで帰ってきて自宅到着が夜の11時だ。
その日の移動は5回だ。その度に当麻は着替えて髪を弄られて、時には念入りにメイクもされたから疲労困憊なのだろう。
伸も帰って食事の後はみんなに先に風呂に入るよう指示して、パソコンでメールのチェックや残務処理を行っていた。
今朝はまだ少しゆっくりとした出発だ。
リビングにまだ誰もいなくても当然なのだろう。
征士はそっとダイニングテーブルに近寄った。
そこにあるのは昨日届いた、先日のインタビュー記事のテスト版だ。
再来月号に掲載予定だというメモが沿えられた記事の当麻は、大きな口をあけて美味しそうにパスタを頬張っている。
それを征士は目を細めて眺めた。
インタビュー内容はこれといって突飛な事は何もない。
オフの日は何をしているのか、最近ハマっているのは何か。その程度だ。
母子家庭だという事はある程度知られているが、それ以上の事を聞くのはタブーになっている。
そして名前だけで活動している当麻の苗字を調べることも同じくタブーだ。
それは伊達の家との繋がりを考えると当然の処置だ。伸は兎に角、当麻を守るためにそういったタブーを徹底させていた。
万が一にもそれを聞こうものならば、即座に取材は打ち切らせていただきますと通達してある。
「こんな内容でもウケるものなのだな…」
休みの日には寝てるかゲームしてるか、気が向いたら散歩します。
内容を要約すればこの程度のことだ。
これでウケるというのだから、人気商売というのは益々意味が解らんと征士は溜息を吐いた。
だが視線は、水の入ったグラスを掲げて笑っている当麻の写真で止まったままだ。
昨日、移動中に見かけた看板は、以前に撮ったものに早速張り替えられていた。
征士が参加した、あれだ。
開放的なサロンの中央に、画面手前側に半分背を向けるように座り込んだ当麻は上半身を腕で支えて身体を左に捻っている。
表情はうっとりとした笑みを浮かべてとても綺麗だ。
その身体は薄い布で覆われているが、身体のラインは透けてそのままハッキリと見えていた。
布は風ではためき、その一部が羽を広げたように見えた瞬間が使われている。
とても綺麗だが、そのせいで当麻の尻の一部が布越しではなく丸見えだ。
それを目の当たりにした征士は見事な皺を眉間にこさえたのは言うまでもない。
「………あれはイカン」
思い出してボソリと呟いた。
確かにあの当麻は綺麗だったし、化粧品の広告としても上出来だった。
だが、あれは駄目だと征士は思う。
だって当麻のお尻が見えているのだ。
それはとても良くない事だ。
征士には最近、困っていることがあった。
夢を、見るのだ。
それはいつも最初はバラバラの状況で始まる。
室内の時もあれば何もない空間の時もある。
ただ、その真ん中に当麻がぽつんと立っている事だけは共通していた。
自分と当麻以外に誰もいない状況を訝しんで彼に問いかけようとした瞬間に、いつも当麻が微笑みかけてくる。
普段は絶対に自分に見せることのない、綺麗でどこか艶かしい笑みだ。
そしてそれに誘われるように細い身体を抱き寄せると、どこからか甘い匂いがしてくる。
それがもっと嗅ぎたくなって腕の中にある存在を更に強く抱き締めると、段々と肉欲が沸き上がってきて今度は口付けたくなる。
実行しようとして当麻をもう一度見ると、無垢な頃の、ろくに喋れない乳幼児の姿の彼がそこにいるのだ。
そこで征士は自分の汚さから一気に自己嫌悪に陥り、そして目が覚める。
あの撮影のせいだと征士は毎回恨めしく思ってしまう。
あれが無ければ、きっと今頃こんな思いはしていないはずだ、と。
征士が中腰になって向かい合った当麻は、殆ど裸だった。
角度のせいでなだらかな起伏を見せる胸も、そこにある淡いピンクの尖りも丸見えだったし、雑に折りたたんだ腿の描く線も細く締まった足首も全部、
征士の目の前に晒されていた。
それどころか身体のラインを綺麗に出すために少し突き出すようにされていた、瑞々しい果実のような2つの膨らみまで見えていたのだ。
唯一布で隠されていた股間だけは見えなかったが、却ってそれがいやらしく思えるほどだった。
あの姿が頭から離れてくれない。
いけないと思いつつも、つい当麻を追う視線にその記憶が重なってしまう。
先日もそうだった。
ジョギングから帰ってきてみれば、当麻が既に起きていた。
それは別に構わなかったが、何と当麻ときたら下は下着以外、何も身に付けていなかったではないか。
そりゃ男同士だ、何も意識しなければいいのだろう。
だが無理だ。
彼が歩くたび、身体にピッタリと沿った下着越しにあの瑞々しい膨らみがどう動いているのかが解ってしまう。
修正せずとも粗1つも無い、小ぶりだが綺麗な2つの丸みを思い浮かべて、つい征士は目で追ってしまっていた。
心の隅のほうで、触れたいという欲求が芽生え始める。
それを悟られたくなくて小言を言う口調で「なんて格好をしているんだ」と言った。
当麻が悪いのではない。自分の気まずさが、悪いのだ。
なのにきつく咎めるような口調になってしまった。
その声に当麻が振り返った。
すると今度は、以前は布で覆われていた前の膨らみが目に入る。
同じ男のソレなのに、見たいと思ってしまった。
だから咄嗟に目を逸らした。
自分の中の認めたくない欲求を目の前に突きつけられるようで嫌だった。
当麻は子供だ。14歳も年下だ。
自由を得た娘の子で、自らの人生を選んで歩いている。
未だに家の影を引き摺っている自分とは違う。
大体、彼の幼くあどけない頃を知っているのに、それを穢すような欲求を抱くだなんて。
そう考えていると、当麻の暗く冷たい声が聞こえた。
母親じゃなくて悪かったという、言葉が。
一体何を言っているのか征士には解らなかった。
彼が彼の母親でないと、何が悪いというのだろうか。
それが解らず問いかけようと再び視線を合わせると、そこに居たのは酷く傷付いた顔の当麻だった。
何を言っているんだ。
そう聞きたかった。
だがそれを征士が確かめるより先に、当麻は部屋を出て行ってしまった。
まるで逃げるように。
征士は、何も言えなかった。
そしてそれ以降、言う機会も言う勇気も持てなかった。
「………これは?」
思い出した事柄から逃げるようにテーブルの上に視線を戻すと、見慣れないパンフレットがあった。
表紙には『ドナー登録のお願い』と書かれている。
どこでこんな物が紛れたのだろうかと見ていると、近付いてくる気配があった。
「あれ、おはよう征士。帰りが早かったんだね」
伸だ。
一番忙しい身でありながら、彼はこの家の家事も担当している。
当麻も時には手伝うが、基本的に動くのは伸だ。
昨夜だって寝たのは一番遅かっただろうに、今朝も早くから全員分の朝食を作るために起きてきたらしい。
「ああ…」
「あ、それ…」
征士の手にあるパンフレットを見つけた伸は、少し面倒臭そうな顔をした。
「…どうした?」
「あー、…うん……捨てるの忘れてたなって思って」
「このパンフレットをか」
「まあね」
伸の表情といい、発言内容といい、ドナーという常に求められているものに対して、彼らしくない反応に征士は眉を顰める。
征士の思っていることが大体解ったのか、今度は伸は苦笑いをした。
「いや、僕が登録を考えてるとか迫られてるとかじゃないんだけどね」
「では何故こんな物がここにある?」
登録を考えていない程度のことならあんな表情はしないはずだ。
何かがあるのだろうかと征士が更に尋ねると、伸は肩を竦めた。
「昔ね、臓器移植にサインしたことがあるんだよ」
「……どういう事だ?」
一瞬、事務所の経営が傾いていたことが征士の頭を過ぎった。
まさか建て直しの一部を彼は裏で”何か”を差し出して補ったのではないだろうなと考えてしまう。
それも解ったのか、伸は困ったような、けれど噴出しそうな顔をした。
「言っとくけど、僕、腎臓1つくらいとか言って差し出してないからね」
「………すまん」
「キミって案外、考えが昼のメロドラマ向けだな」
「……………」
言われると返す言葉が無い。
征士だって冷静に考えてみれば馬鹿馬鹿しい考えだったとは思っているのだ。
「ドナー登録していたのは僕の姉さんだ」
「………前社長のか…」
「そ。姉さんがドナー登録をしていた。そして事故だ。家族の同意さえあれば使える臓器を使ってもいいって意思表示カードに書いていたから、
僕は聞かれたんだ。お姉さんの身体の一部を人にあげてもいいですかって。だから僕は姉さんの意思を尊重して同意にサインしたってわけ」
「それで何故、こんな物が届く?」
「それはサンプル」
サンプル、と言った伸の言葉は、これも彼にしては珍しく嫌悪感が滲み出ていた。
「何のサンプルだ」
「………。その仲介業者、…って言うより、ブローカーって言うほうがしっくりくるような団体がね、僕にドナー登録者の家族としての立場で
一言コメントが欲しいって煩いんだ」
「…………」
「当麻のお陰でここ最近じゃ僕もある程度は有名になったしね。それに何より社長である僕を引き込めば、当麻を広告塔に使えるって彼らは考えてるみたい」
「………下らんな」
「そうだね、下らない。…もっとちゃんとした団体なら僕も考えるけど、そこは嫌いだよ。いい噂を聞かない」
征士はもう一度パンフレットに目をやった。
書かれている名は、確かにいい噂を聞かない。伊達の家に居た頃でも祖父が毛嫌いしていた覚えがある。
「そんなハイエナみたいな連中に、僕の姉さんの命も、そしてそれを譲り受けた人たちのことも、何も話したくはないね」
そう言って伸は征士の手からパンフレットを奪い、くしゃりと丸めてゴミ箱へ放り込んだ。
「……後悔を、しているのか?」
「臓器移植にサインしたこと?まさか!姉さんは助からなかった。でも誰かは助かるんだ。それを姉さんが望んでいたし、僕も望んだんだもの。
何を後悔なんてするもんか。……まぁ確かにこういう連中に目をつけられたことは後悔してるけどね。…それに」
「それに?」
「当麻は賢いけれど、まだ子供だ。考え方そのものが。そんな子にこんな物を見せて、変に使命感を持って馬鹿な団体の人形にされたくはない」
あの子、純粋なんだよね。
その伸の言葉は、別の角度から征士の胸に突き刺さった。
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秀が起きてこないのは、単に眠いからです。