ストロボ



シーツ越しでも外が明るい事に気付く。
知らない間に眠れていたらしい。
それに少しだけ安心した当麻は、のそりと身体を起こした。
今日の仕事は午後からだ、少しくらい寝坊しても差し支えは無い。
眠るのは大好きだし、睡眠だって足りていないのだからもう少し寝ていても構わないのだが、どうもそうする気になれず、ベッドから抜け出る事にした。


廊下は静かだ。
誰の声も、気配も無い。
起きている人間がいないのだろうかと思いながら秀の部屋の前を通ると、大きな鼾が聞こえてきた。
どうやら彼はまだ寝ているらしい。
その大らかと言うか無防備というか、まぁ本人に面と向かって言うのなら”大間抜け”な鼾に、当麻は笑いそうになるのを必死に堪えてそこを通り抜けた。

玄関を見ると、伸の靴がない。
まだ帰っていないようだ。
それに征士の持ち込んでいるジョギングシューズもない事から彼も不在なのだと知ると、何故か酷く安心した。


リビングに入ってすぐにテレビをつけ、適当な局にあわせる。
スポーツに特別興味はないが自動的に流されている昨日の試合結果を横目で見つつ、冷蔵庫に向かった。
扉が開く瞬間のガチャリという音が大きく響いた気がするのは、最近は煩い生活を送っているからだと頭のどこかでぼんやりと考えた。
そしてすぐに先ほど聞いた秀の鼾が耳元で再生されて、また笑う。


「アイツ、すげー鼾煩ぇの」


後で録音しておいてやろうっと。

特にそれで彼に対してどうこうしようというのではなく、面白いから着信音にでも設定しておこうと思ったのだ。
勿論、秀からの。
同じ家で生活しているのだから、彼から連絡が来ることなどそうないのだが、それでも考えるだけで面白かった。

冷蔵庫の中から大好きなメーカーのコーヒー牛乳をマグカップになみなみと注ぐ。
大人たちが飲んでいる所謂本物のコーヒーは苦くて何が美味しいのか解らないが、ミルクたっぷりのそれは当麻の大好物だ。
伸が居たならば行儀が悪いと怒られるところだが、その本人がいないので当麻は遠慮なくキッチンでそれを飲んだ。
たかだか飲み物を飲むだけで態々ダイニングチェアに座る方が非合理的なのだといつも思っていた。
流石にそれを口にすると、礼儀作法にはちょっと煩い社長の、有難くも長いお小言が始まるので絶対に言わない。思うだけ。


首の角度を上げて最後まで飲み干そうとしていると、玄関が開く音が聞こえた。
伸が帰ってきたのかもしれないと当麻は少し焦る。
急いで飲みきってシンクに置いておかねば、ここで飲んだことがバレてしまう。

あ、でも俺ってば左手にコーヒー牛乳のパック持ったままだ。

言い訳の出来ない状況にあると気付いて一気に飲み干したタイミングと、リビングのドアが開くのは同じタイミングだった。
ヤバイ。
そう思って振り向く。


「……起きていたのか」


居たのは征士だ。
肩の力が抜けた。
代わりに腹の其処がどんよりと重くなる。


「何だ、征士かよ」

「私だと何か悪いのか。……伸はまだか?」


伸の姿がない事を征士が尋ねると、当麻は声を出さずにコクンと頷いた。
その動きに合わせてさらりと揺れた青い髪に、征士はまた落ち着かなくなる。

どちらも同じだけ気まずい。

少しだけ不自然な間が出来る。
それから逃げたくて当麻は冷蔵庫にコーヒー牛乳のパックを戻した。
何も言わない征士の視線が自分を追いかけているのに気付いて、余計に気分は沈んでしまう。

何を、見てるんだ。

思っても答えが返ってくるのが怖くてとても聞けない。
「見てない」と言われるのも、「”何か”を見ていた」と言われるのも、怖い。
どちらも当麻にとっては自分を否定されるようで聞きたくはない。
受け入れて欲しいとは思わないが、否定だけはされたくない。

だから必死になってその視線を意識的に無視しながら、リビングに戻る。
極力普通を装って。


「何て格好をしているんだお前は」


ソファに辿り着く前に征士の低い声が聞こえた。
流石にそれは無視したくても出来ず、振り返ると眉間に深い皺を刻んだ顔がそこにあるのを当麻は見た。
だが表情を確認した瞬間、征士のほうから視線を完全に逸らされた。

だから、何を。


心の中は真っ黒だ。
だがそんな汚いところを見られたくない。一度冷静になろうと指摘された自分の格好を改めて考える。


「……………あぁ…」


あまりにも家の中が静かだったものだから気が緩んでしまっていた。
寝るときにしていた格好そのままだ。Tシャツと、そして下はボクサーパンツだけ。
その格好をだらしないと暗に言われているとは解っているのだが、それでも心の端っこから文句が聞こえてくる。

”誰”が、”誰”と似てるから、怒るんだろ?
振り返ったら”誰”には無いモノがあったから、目を逸らしたんだろ?

悔しい。腹立たしい。
それが勝手な被害妄想だとは解っていても、苛立ちは収まりそうにも無い。


「……悪かったな、母さんじゃなくて」


だから、つい。

別にいいだろ男同士なんだから、とか。
昨日の仕事に比べたら服着てる方だと思わない?とか。
言葉は色々頭に浮いていたのに、なのに、つい。

口を出た言葉を後悔している当麻のほうに、征士の視線が再び戻った。
驚いているような目。それに真正面から見据えられて、心の真ん中がガリガリとひび割れる。


「…当麻?」

「俺、もっぺん寝てくる…っ」


見開かれた紫の色に耐え切れず、当麻はリビングから逃げだした。




階段を乱暴に駆け上がったところで一度止まって息を整える。
当然だが追いかけてくる足音は聞こえない。
それに安心していいのか、落胆していいのか解らなくなって当麻はその場にしゃがみ込む。


「……なんで、あんな…」


何であんな事を言ったんだろう。
何であんな目をしてたんだろう。
自分は何でこんなに惨めな思いをしているんだろう。


頭がぐるぐるになって苦しんでいると、どこからか不規則な雑音が聞こえてくる。
それが秀の鼾だと気付いた当麻は歪に笑って、「そうだ携帯取りに行かなきゃ」と無理に呟いて部屋に戻っていった。




*****
これって思春期か。